書籍紹介:『日本の近代化と民衆思想』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社、1999年

 


安丸氏は惜しくも2016年に亡くなりましたが、日本の民衆史と呼ばれる分野の泰斗ですね。

本書は元は1974年に青木書店から出版されたものです。

 

江戸時代後半から明治維新期を視野に、決して知的エリートや政治的指導者層ではなく、百姓一揆や打ちこわし、さらには新興宗教に集っていった無名の民衆の精神に関する分析を通じて、転換期の日本社会における主体性形成の一端を探ろうとした名著として、評価の高い研究です。

1960年代から70年代は、世界的に見ても、歴史学の中心が政治史から社会史や文化史へと急速にシフトしていく時期に当たるはずですが、安丸氏の仕事もそんな潮流の一環に位置付けることができるかと思います。

 

幕末から明治維新期を主導した精神というと、分析の対象となるのは、維新志士のトップ層に代表されるエリートクラスの国家像とか、せいぜい自由民権運動へと集約される地方名望家層くらいまでだったのが、一般大衆や貧民と名指されるような層においてもまた、それとはっきり意識されないまでも、新時代に対応した積極的な動きがあったというのは、本書を読めばはっきり首肯されるはずです。

 

安丸氏はたとえば、勤勉・倹約といった「通俗道徳」と総称される理念が果たした役割を重視します。

それらはもちろん、無批判に受容されるなら、生産関係の矛盾を覆い隠して封建的従属を内面化するイデオロギーに過ぎないわけですが、しかし近世の末期にあっては、そういった理念は末端の大衆が自己を見つめ、主体を切り出していく契機としても機能していたことを筆者は指摘します。

結果として近代日本において、民衆思想は十分に精錬されることなく、国家主義と侵略主義を支え、それらを加速させていく大きな構造の前に、いわば敗北を余儀なくされるわけですが、「敗北の質」を問い直すこともまた歴史学として重要な作業だと本書は説きます。

少し引用します。

 

「この巨大な変革期において、世直し的な変革観念は、民衆の思想形成=主体形成のもっとも重要な形態となり、この観念の発展のなかに、民衆の思想形成=主体形成の特質が集中的に表現されることになる。もちろんこうした観念は、それが近代社会成立期における広汎な貧しい民衆の解放への幻想であるかぎり、長い期間にわたって歴史の舞台で主導権をにぎることはむつかしい。一時期においてこうした観念がいかに巨大な勢力になろうと、近代資本主義社会の鋼鉄の法則性は広汎な民衆の解放の幻影を押し潰して貫徹する。そのかぎりでは、世直しの観念は敗北を運命づけられた幻想であり、近代資本主義社会の論理に対して屈服、妥協、変態、潜在化などを強制された。世直し的観念が、もっとも反動的な観念に転生するのもけっして例外現象ではなかった。

 だが、右のような事情にもかかわらず、世直し的観念をめぐって広汎な民衆の思想形成=主体形成がどのようになされたかという問題は、きわめて重大な意義をもっている。というのは、こうした観念は、近代社会成立期という一時代においては、近代資本主義社会の論理に敗北せざるをえないにもかかわらず、問題は敗北の質であり、それがなにを達成した敗北であり、のちの歴史になにを伝統として定着したかにあるからである」

(142-143頁)

 

個人的に最も賛同したいのは、安丸氏が主体形成の問題を前面に押し出しているところですね。

近年の一時期、日本の思想界は主体という言葉を極端に忌避し、そのため思想と政治がアクチュアルな関係を持てなくなったことがありましたが、筆者は思想形成=主体形成ときわめて端的に表現しており、これは見た目以上の重みを持っていると思われます。

 

昨今の日本を例にとりましても、民意と政治の現実との間に適正な反映プロセスが介在していないという印象を受けますが、ごく一般的な人々の主体形成という問いは今後ますますクローズアップされていくことになるんではないだろうか、そんな思いを新たにした読書でした。