弱い人のために笑いがある 吉森大祐『幕末ダウンタウン』 | 茶々吉24時 ー着物と歌劇とわんにゃんとー

 新撰組隊士と噺家と美しすぎる女芸人、不思議な取り合わせの三人が主役の小説『幕末ダウンタウン』を読みました。

 

 

 

幕末。濱田精次郎は大坂にくすぶるチンピラで、賭場の用心棒をしていた。将来に明るい展望などない。そんなときに、新撰組が大坂で隊士募集をしていると知った。剣の腕さえ確かなら、本物の侍になれるという。このような好機は二度とないかも知れない、精次郎は新撰組に入隊し、京都にやってきた。

 

精次郎が配属されたのは新撰組の六番隊。六番隊の隊長は井上源三郎で、局長である近藤勇が江戸で開いていた道場 試衛館時代からの古参である。とはいえ、一番隊隊長の沖田総司、二番隊隊長の永倉新八、三番隊隊長の斉藤一といった華々しい顔ぶれと比べると、中年の井上源三郎はひいき目に見てもぱっとしない。そんな六番隊に配属されるということは、自分も期待されていないということか。その推測は当たらずとも遠からずだと思う。というのも、入隊してこのかた、命じられる仕事と言えば、幹部隊士の妾宅への食事の運搬や、会津本陣へのおつかいなど、およそ侍らしくないものばかり。おまけに、ちょっとは強いつもりでいた精次郎だが、新撰組には自分以上に強い人間は山のようにいる。なんとか手柄を立てて出世したい、焦る精次郎だった。

 

そんな精次郎がある日ばったり出会ったのは噺家の桂文枝。大坂の賭場の用心棒時代、客としてやってきていた文枝とは顔なじみだったが、どうして文枝が京都に?

不審がる精次郎に文枝が打ち明けた。賭場で負け、借金がかさみ、質草にする物がなくなったとき、自分の噺のネタを借金のカタにしたのだという。すぐに買い戻すつもりで居たが、次々に博打で負け、その都度新たなネタを質入れ。最後はネタの前にしゃべる「まくら」まで質に入れることになり、とうとう大坂では高座に上れなくなったのだという。

 

あまりに情けない文枝の身の上話を聞くうち、精次郎はついうっかり自分のことも打ち明けてしまった。はやく手柄をあげて出世したいのだが、命じられる仕事はつまらなぬおつかいばかりなのだと。それを聞いた文枝がとんでもないことを言いだした。精次郎に、舞台に立てというのだ。寄席にはいろいろな人が出入りするから、長州や薩摩の情報も耳に入るに違いない、これは諜報活動と同じだと。噺家だけあって口がうまい。有益な情報を掴んで局に知らせれば鬼の副長土方歳三の覚えもめでたくなるかもしれない。文枝にそそのかされ、芸の稽古をはじめる精次郎。そんな二人の前に、美しい女芸人松茂登(まつもと)が現れて…

(吉森大祐さん『幕末ダウンタウン』の出だしを私なりにご紹介しました。)

 

この小説は史実と虚構が入り混じっています。

桂文枝は、実在の人物。飲む打つ買う、つまりお酒、博打、女性と三拍子揃った遊び人で、「飯のタネ」である噺を質に入れたのも本当のことらしいです。

小説の中で桂文枝は、この名前はきっと大名跡になる、自分はただの桂文枝ではない、初代桂文枝だと大きなことを言っておりますが、実際に令和の桂文枝さんは六代目。今だったらきっと流行語大賞になったであろう「いらっしゃ〜い」で有名な元桂三枝師匠です。「初代文枝」の予言は当たったと言えるでしょう。

 

では全てが史実かというとそうではありません。

途中で「かんにんぐ竹山」なる名前が出てきたりして、なんだか変な感じ。

そもそもタイトルの「幕末ダウンタウン」のダウンタウンって…

鈍い私はラスト数ページになるまでタイトルの意味さえわかっていませんでした。

 

新撰組隊士がお笑い芸人として生きることになるという、今まで読んだ新撰組モノではあり得ない設定のこの小説、もう一つ普通の新撰組モノと違うのは、沖田総士や局長の近藤勇が全く登場しないこと。スター級の隊士では土方歳三が一瞬登場するだけで、メインは主人公 精次郎の上司である井上源三郎なのです。私は新撰組ファンですが、こんなにも井上源三郎を真ん中に描いている小説は初めて読みました。

 

考えれば、精次郎にとって、サムライとは、この井上源三郎そのものであったのだ。

私欲なく。

目立たず。

それでも誠実にやるべきことをやる。

決して派手ではなくても、皆が信頼している。

そんな井上こそ、サムライであった。

(吉森大祐さん『幕末ダウンタウン』 P135〜136より引用)

 

このくだりにはグッときました。

 

ご存知のように、新撰組が活躍したのはほんの数年のことであり、鳥羽・伏見の戦いで敗走、支えていた徳川慶喜に見捨てられ、滅びゆくわけですが、その時にお笑い芸人を目指す精次郎。

 

彼にお笑いが何なのかを教えてくれるのが、超絶美人の女芸人 松茂登です。

彼女は言います。寄席に来るのは毎日をただ懸命に生きる人たちなのだと。国士だ剣士だと偉そうにしている人に笑ってもらってもちっとも嬉しくない、日々の悲しみや苦しみを一瞬忘れたくて寄席にやってくる普通の人に笑ってもらいたいのだと。

 

精次郎はその言葉を聞いてハッとするのですよ。

笑いとは弱い人のためにあるのだな、と。そして笑いに生きることの意義を見出すのです。

 

この小説は歴史小説のファンが読むと物足りないかもしれませんし、現代と江戸時代を行ったり来たりうろうろさせられることに怒りを覚えるかもしれません。

でもこの小説の主眼は多分そこじゃないんですね。

人生には笑いが必要だ、ということがメインなのだと思います。

 

他の著作と比べるのは失礼だとは思いますが、「悲しいことや悔しいことがあっても全てを笑いに変えなさい」と語りかけてくる鳴海隼人さんの『尼崎ストロベリー』と似ていると思いました。

 

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今回は同じことを喋ってしまいそうなので、声の書評はお休みします。

 

 

 

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