私がパーソナリティを務めさせていただいている

エフエムあまがさきの番組

「昭和通二丁目ラジオ」木曜日。

昭和の歌をお送りする番組です。

 

番組17時台にお送りするのが「昭和あれこれ」。

昭和の含蓄ある歌詞を深掘りしたり、

昭和の出来事と当時流行っていた曲を紹介する

「プレイバック昭和」のいずれかをお送りします。

 

昨日は「カラーテレビ放送記念日」でしたので、

昭和の時代のテレビについてお話ししました。

 

世界規模で見ると、テレビの開発は1870年代(明治時代)から

イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアで始まっていました。

そして1929(昭和4)年にはイギリスBBCが試験放送を始めています。

 

日本でテレビ放送が始まったのは、1939(昭和14)年のこと。

もちろん最初は白黒テレビ。

カラーテレビの本放送が始まったのは1960(昭和35)年9月10日

だったのでした。

 

つまり、私が生まれる前には世の中にカラーテレビはあったわけですが、

1970(昭和45)年3月まで我が家のテレビは白黒でした。

その年、私が小学校に入学するのを機に引っ越し、

新しい住まいで初めてカラーテレビを見たことをはっきりと覚えています。

 

それまではテレビは四畳半ほどの茶の間に置かれた

低めの食器棚の上にあり、

ちゃぶ台(冬はこたつ)に座って見るものでした。

 

ところが引越しとともに茶の間は「リビング」になり、

足の高いテーブルと椅子、そしてかなり立派なカラーテレビという

生活様式に変わったのでした。

これは結構なカルチャーショックでした。

 

カラーテレビで印象的だったのは1972年の札幌オリンピック。

フィギュアスケートのジャネット・リン選手や

日の丸飛行隊、ジャンプ陣のアンダーウェアの赤色が

鮮やかでした。

 

赤といえば、私にとって初めて心踊らせたヒーローは

『仮面の忍者 赤影』。

私は横山光輝さんの原作は知らなくて、

テレビドラマを夢中で見ていました。

(1967(昭和42)年3月から翌年4月まで)

まだ引っ越す前で白黒放送だったので、

赤影、青影、白影の区別は、白とグレーの濃淡でしかなかったはず。

だけど白黒の画面を見ながら

「赤影参上!」と言われれば赤色を、

「青影さん」といえば青をちゃんと補って見ていたのだから

人間の脳って不思議なものです。

 

話が横道に逸れました。

 

1960(昭和35)年のカラーテレビ本放送を受けて、

さぞやカラーテレビが売れたかと思うと、そうでもありません。

日本全国でたった1200台。

当時、大卒男子の初任給が約1万6千円だったのに対して、

カラーテレビの値段が52万円だったというのですから、

普通の家庭では手が出なかったのだと思います。

 

その後、1964(昭和39)年の東京オリンピックなどをきっかけに

各メーカーはカラーテレビ普及を進めたかったのでしょうが、

なかなか思い通りに行きません。

 

この辺りの状況は、映画『ALWAYS三丁目の夕日’64』で見ることができます。

なかなか芽の出ない小説家 茶川さん(吉岡秀隆)が、

東京オリンピックを見るためにやっとの思いで白黒テレビを購入。

悦に入っていたのに、お向かいさん(堤真一 一家)は

大奮発してカラーテレビを購入。

開会式を見たいと、近所の人が全員そちらの茶の間に押しかけるのが面白くなく、

茶川さんは一人イジイジしていましたっけ。

 

 

なかなか思うように普及しないカラーテレビ。

電機メーカーはテレビ局側に

「もっと面白い番組を作ってくれればカラーテレビが売れるのに」

テレビ局側はメーカーに

「もっと安くていいテレビを売り出せばいいじゃないか」

と互いに言い合っていたらしいです。

 

カラーテレビの普及率が白黒テレビを追い抜いたのは、

1973(昭和48)年のこと。

カラーテレビ放送開始から13年も経ってからなのでした。

 

テレビメーカー側に目を向けてみましょう。

五十音順 社名は当時のもので表記します。

東京芝浦電気 → 東芝

日本ビクター → JVCケンウッド、

松下電器産業 →パナソニック

と思って読んでください。

 

 

白黒放送時代の各社のテレビ商品名は

三洋電機「薔薇」「日本」

シャープ 「歓」

東京芝浦電気「王座」「名門」

松下電器産業「嵯峨」

三菱電機「高雄」

ザ・日本といったネーミングです。

 

それが、カラーテレビとなるとどう変わったか。

三洋電機「サンカラー」

ソニー「トリニトロンカラー」

シャープ「ロングランカラー」

東京芝浦電気「ユニカラー」

日本ビクター「純白カラー」

日立製作所「キドカラー」

松下電器産業「パナカラー」

三菱電機「ダイヤトロン」

趣がガラッと変わりましたね。

 

ところで、松下電器産業の「パナカラー」シリーズのCMに

こういうのがありました。

覚えておられるでしょうか。

 

 

英語コンプレックスが強い日本人への皮肉にも取れる、

アイデアCMでした。

 

この頃、テレビの黄金期だったのだと思います。

高価なテレビは当然、家族が集まる部屋に鎮座。

ブラウン管の時代ですから、分厚く重厚、存在感が大きい。

 

そして子ども一人一人に個室がないご家庭も多い時代でした。

食事が終わったら(食事中も?)テレビを囲んで一家団欒、

みんなで感想を言い合いながらワイワイ過ごすことになり、

テレビは娯楽の王様になったのでした。

 

まだビデオ録画もない時代は、何を見るのか、

チャンネル争いも熾烈でした。

 

私は子どもの頃、「プロ野球なんか無くなればいいのに!!」と

涙を浮かべ、心から野球絶滅を願ったものです。

だって裏番組で見たいものがあっても、あえなく却下されるんですもの。

 

また当時はチャンネルは「回す」ものでした。

使いすぎて、チャンネルがカポッと外れると、

ペンチでつまんで回す。

多分、どこのご家庭でもあったのではないでしょうか。

 

また、家具としか言いようのない大きさだったのも懐かしい。

手のひらに乗るスマートフォンやタブレットで動画を見る今となっては

隔世の感があります。

ああ、思えば遠くへ来たもんだ。

 

大きいことがいいことだった時代は終わり、

テレビも薄型へとシフト。

また、一家に一台の時代も終わりました。

 

現在は、スマートフォンやタブレットで好きな時に

好きな動画をアプリで見る若い人が増え、

一人暮らしの若者の中にはテレビを持っていない人もいるそうです。

別の意味で、テレビが一家に一台ではなくなったわけです。

 

私は最近、テレビをあまり見なくなりました。

理由はいろいろです。

 

同じ場面を別アングルから3回、4回と

しつこく見せられるのが好きではない。

 

「びっくり映像、決定的瞬間は?!」

必ず次はCMに切り替わる、この手法がまだるっこしい。

この手法が生まれた当時は、

チャンネルを変えさせない新しいやり方だなぁと、

ついついそのまま見ていました。

でも今はこれが当たり前。

回答や種明かしはCM明けにしかしないとなると、

時間の無駄遣いをさせられている気になるのです。

そりゃ、動画の方がいいわ、と。

 

それに最近の番組はどこかから探してきた動画をつないだものが多く、

「あ、この映像知ってる」ということが度々あります。

場合によって同じ画像を2、3局違う番組で見かけることも。

テレビよ、こんなので良いのか?!

 

そう言いながら、朝夕は時計がわりにテレビをつけていたりする私。

思えばカラーテレビ普及の時代は、

テレビは「時計がわり」なんかではなく、堂々たる主役。

かぶりついてみるものだったように思います。

 

それとも、ここからまたテレビの巻き返しが始まるのかしら?

 

 

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