霊界の役割  その1 | 素人短編小説

霊界の役割  その1

reikainoyakuwari

 

 今し方出くわしたアレは、果たして客観的な…いわゆる現実の出来事だったのか…。それとも異常気象にほだされ、人間の体温すら上回る連日の猛暑に焼きただれた脳内機能の低下や自律神経の失調を原因とした幻視、幻聴、幻想で構成された幻覚だったのだろうか。


 ふんっ…高橋は渇いた鼻息を虚空に放り捨て、もう一度後ろを振り返った。遠くにこぶし大ほどの光の塊が見える。

 

 そう、このトンネルのもう一方の口だ。そこから自分の方に向かって襲いかかるように包み込み、ひと呑みにでもしてやろうかといった悪意さえ感じさせ延びている暗闇…。

 

 わずか二、三百メートルの長さとしか見えないこの暗闇に不可思議としか言い表すことの出来ないエネルギーが蓄積されており、それは時折平凡で退屈な日常を蹴散らし、嘲笑うかのような強大なパワーの片鱗を見せつける。


 アレは現実である。

 客観性に裏づけされるべき事実であり、幻視、幻聴、幻想を伴った幻覚などではなかった。高橋はすでに自分がここで体験したことのすべてが実際に起こったことであることを知っていた。

 

 周囲のいかなる強引な問い詰めが今後あったとしても、それによって自ら認めたその認識が露ほども揺らぐことはない。しかし、そうであるが故に高橋は混乱したのである。


 未経験であること、非常識であること、説明困難であること、社会的に未承認であることを、手放しでそれは明らかに現実であり、明確な事実であると高橋自身の中に取り込み消化するためには、この狂おしいばかりの混乱という激流を必死の思いで泳ぎ切り、対岸へと辿り着くことが不可避だった。


 そして、結果、高橋は何度も何度も濁水を腹や肺に飲み込みながら、その激流…いや、濁流を越えることによって、是全て是なりの心境に座するに至っている。


 そう、この内側に薄いコンクリートを塗ったこの古い手掘りトンネルの闇が醸し出す驚異と脅威の作為すべてを受け入れたのだ。

 

 そうすることによって、思考的な整理やつじつま合わせが飛躍的な早さをもって進んだ。ただ逆に、例えば誰かと討論し、自分がこれ以上にない合理性を主張したにもかかわらず、開始後わずか時間をもって完全に論破された際…過去にそんな経験はないが、想像するにおそらくそれに似た憎悪の苛立ちや煮えたぎる悔恨が入り交じり、みぞおちを突き上げられるような苦しみにも似たストレスが体内に充満しているような精神状態だった。


 少なくとも今日はもうここに用はない。立ち去ろうと向きを変え、もう一方のトンネル口の方に歩き出そうとした高橋はチェッ、拙い!と舌打ちをした。

 

 あとわずか振り向くのが遅かったらもう二度とヒト世界に戻ることは出来なかったろう。そうなれば、辛うじて維持していた正常神経の働きと正統血流は逆回転を始め、高橋の生命機能は”発狂”と”爆裂”という最悪のかたちでその存在を自ら消滅させていた…プログラムどおりに。


 全力で走り、トンネル口に形成されつつあった表皮体のほぼ中央に向かって体当たりした高橋の体当たりは、無情にもその表皮体の弾性に威力を吸い取られ、跳ね返されたかのように感じたが、刹那、中央に出来た裂け目を基点に突き破り、現世への生還を果たした。


 心身の働きを支える気力、体力の残量は今の脱出劇でほぼ涸渇していた。高橋がその場に力なくへたり込んで顔を上げると、トンネル口は外光を敏感に反射するアクリル板のような皮膜が形成されつつあり、その奥にあるはずのトンネル本態…そう、あの暗闇を覆い隠そうと動きを活発化させていた。数分後、暗闇は表皮の光反射によりほとんど認識できなくなっていた。


 おそらく、もうじき口の表皮は色を変え、模様を変えて周囲の山模様と一体化していくに違いない。反対側の口も同様のうごめきを進めているに違いなかった。


 「ちっ、この怪物が!」


 運動機能の基礎を支える源エネルギーレベルがゼロに落ち、意識が遠ざかっていくのを自覚しながらも、こう短く罵りの言葉を口にし、高橋は目を閉じた。

 

 

 



 高橋は夢を見ていた。

 

 他愛のない夢だったが決して嫌悪するような内容ではなかった。いや、むしろ心地よさと爽快ささえ感じる夢だった。


 それは意外にも高橋が中学生時代のものだった。体格的に周囲の同期生よりひ弱だったせいか、しつこくいじめの対象になっていた頃で、毎日学校に通うのがとてつもなく嫌な時期だった。いじめの対象になったのは二年生の学級再編成からだった。それでも三年生までの一年間は耐えに耐えた。


 当時そこまで耐えられたのは、おそらく他のいじめられっ子のように休憩時間や放課後を主として常にいじめグループに囲まれ、床に落ちている菓子を口で拾わされたり、ズックをなめさせられたり、金品を巻き上げられたり、多くの生徒の前で衣服を剥ぎ取られるといった羞恥行為など陰湿なものではなく、殴られ、蹴られ、首を絞められるといった集団による暴力行為に限られていたからだろう。


 しかし、持ち上がり学級で最終学年を迎えた春のある日のことだった。いじめメンバーの厳つい一人がその日最後の授業が終わり、教師が去ったと同時にニヤニヤしながら高橋の方に近づいてきて、自分の手のひらに噛んでいたチューインガムを吐き出して高橋に向かってその手を伸ばしてきた。

 

 どうやら高橋にそのガムを食えということらしかった。暴力一辺倒だった自分へのいじめから一歩も二歩も踏み込んだ要求だった。それでも黙ってじっとその丸まったガムを見つめていると、今度は親指と人差し指でつまみ、高橋の唇に押しつけてきた。


 ひゅー、ひゅーという口笛が聞こえた。はい、はい、高橋クン、お口を開けなきゃね、ありがとうございますも言わないと…そんな囃し立てる数人の声も聞こえる。


 自分の中のナニかが弾けた。

 高橋はありったけの力を込めて右こぶしを握りしめ、目の前のいじめっ子の鼻をめがけてぶん殴った。そして相手が仰向けになって倒れたところに飛びかかり、その左耳に食らいついた。そいつの耳を頭部から引き千切ることだけを考えていた…。そのあとのことはよく覚えていない。


 後日、同級生から聞いたところによると、高橋は駆けつけた教師数人によって引き離され羽交い締めにされたという。ぶん殴られ、左耳をかじられた相手は、血だらけとなり横たわっていたところで養護教諭にタオルをまいてもらい保健室に連れて行かれたらしい。


 高橋の顔は相手の鼻血と引き千切られそうになった耳からの血で両目から下が真っ赤に染まり、もぐもぐと口を動かしていたという。それは直後に床から拾って口に入れたあの食いかけのガムだったのだが、一部にあれは食いちぎった耳の一部だという噂がたち、女子生徒の一人が顔色を失いその場にへたり込んだという。