講義休講の日に、インド日本寺竺主への北河原長老就任の記事を読む

 

 今週の講義は先生が寺の用事のため休講となった。体調ではなく寺の用事での休講ということで一安心である。もしかしたら修二会の新入の練行僧の「試別火」が15日夕刻から始まり、16日は声明の練習に師匠格として指導されたりするのかな、と勝手に想像して納得する。それで空いた時間を使って飛火野に鹿寄せを観に行き、鹿苑を見学する。

 それでも今週はお顔も拝見せず、声も拝聴しないまま過ごすのだと思うと、何か心にぽっかりと空洞ができたような気分になる。私はあの講義を聴きにいくことによって、先生の命に触れ、生きる力をもらっているような気がしているのだ。(実際、このところ先生のお顔は益々ふっくらと色艶よく、生気に満ちているように思える。)

 そういう気分でいたとき、インド、ブッダガヤにある印度山日本寺の竺主に東大寺の北河原公敬長老が就任し、その晋山奉告法要が営まれたという記事を目にした。こういう寺院の存在を知ったのははじめてであったが、ブッダガヤというのはこの地の菩提樹の下で釈迦が悟りを開いたという仏教のいわば聖地であり、アショカ王が建立したブッダガヤ大塔大菩提寺があり、1956年ネール首相が仏教による世界平和の拠点としてブッダガヤの復興を発案し、その協力呼びかけに応じて宗派を超えた協力で1975年に日本寺は建立されたという。一帯にはアジア各国の寺院が立ち並んでいるようだ。ブッダガヤはインドの中でも貧しい地域であるようで、日本寺は無料の幼児保育施設や無料の医療施療院等の社会福祉事業もおこなっているそうだ。

 私がこの記事で衝撃を受けたのは、この日本寺の竺主として当地に赴かれる北河原公敬東大寺長老が私と同年だという事実であった。数日後に74歳となる私は学年的には1年上であろうが、73歳で遠くインドの異郷の地にある寺院の竺主として赴かれるということに大きな衝撃を受けた。実は私は70歳から73歳の3年間、四国の最西端・佐田岬半島の付け根にある八幡浜に単身で赴き、南予(愛媛県の西南地方・南伊予の略)の地で人々と共に過ごした。そしてこの10月に自分の家族が暮らす神奈川ではなく、肉親の事情で奈良に帰ってきたばかりである。

 もちろん、遠くインドの地と国内の南予の地では比べようもなく、また目的も仏教の興隆と宗教福祉事業に対して伊方原発とその再稼働に反対するためという全く異なったものであるが、それでも異郷の地に赴く、個人的な事情や営利活動とは違った目的と想いを持って赴くということに、他人事とは思えないものがあった。私もまたよくこの歳で、といわれたものだった。佐田岬半島と南予の地域、四国山地が海に沈みこむ草深い地域、宇和海の美しい海とミカンの段々畑に覆われた山々、そして入江から山にへばりつくように軒を並べる家々の集落、そこに命をつなぎ、おおらかに懸命に生きている人たち、大地震の到来と地域を滅ぼしてしまう原発事故=複合災害の脅威に日々脅かされながら明日に向かって生きている人たち、南予の風景と、そこで出会い、言葉を交わした人々の顔、それらは今も私の心に深くしみ込んでいる。

 そういえば、修二会の練行僧が着る紙衣の材料となる和紙の宇和仙花は西予市野村町の菊池家で漉かれている。酪農と養蚕と相撲の地域であった野村、高原の山里の雰囲気のある野村、先日、ともに活動し86歳で亡くなったこの地の知人の追悼会で行ってきたばかりだった。また南予には四国遍路の88カ所札所の寺も多く、なにかのついでによく立ち寄ったものだった。空海も歩いたのだろうか、と想像しながら。