狭川宗玄先生の講義を聴く・異聞~脇道を通って~
東大寺勧学院での毎週木曜日の狭川宗玄先生の講義に通って3週目となった。仏教用語がふんだんに出てくる講義は少し気を逸らせているとついていけなくなるので、気が抜けない。三論をめぐる講義が3週目で漸く終わったが、仏教の根幹をなす「縁起」が基底にあるもので、聴いているほうにも力が入るものであった。講義の合間に時々語られる日常感覚や過去の経験や迫りくる<死>についての感じ方など、生身をチラチラとさらけ出されるのも聴いている者にとって大きな魅力である。
先日の講義時に、レジュメのコピーで数分の空白が生まれ、その時間を使って先生は先の大戦時に応召され、伊豆で米軍機の銃撃に直面したこと、また8・15の大転回を経験されたことを話された。それは私にとって大いなる刺激と思念を呼び起こした。そのことをめぐって少し書いておきたい。脇道を通っての異聞として。
先生に応召礼状(赤紙)がきたのは1944年の2月であったとか。当時は修二会の練行僧としておこもり中であり、その3名に応召礼状きたそうだ。1200年の歴史を刻む修二会で途中の離脱はありえないものであった。半月後の3月15日には修二会は終えるのであるが、それはきっと東大寺にとって重大な危機であったのだと思う。総力戦体制下で国家が絶対的な力をもって国民のすべてを統制し、「死」に向かって強制していく中で、東大寺にとって抗す術はなかったのだろう。そもそも明治の廃仏毀釈、国家神道の創設、国家による寺院の宗門整理等々、仏教は古美術という以外では受難の時代を迎えていたように思える。
とくに総力戦体制下では、天皇制国体思想が圧倒的な猛威を振るい、人々の全時間を支配し、それは宗教的にも国家神道―ヤスクニ思想として人々の内面をも浸食した。ヤスクニは国家の戦争で死んだ死者の魂をも独占し、「神」に仕立て上げた。応召されて戦死した僧たちは死して仏になることもできず、ヤスクニの「神」として祀られたのだ。こういうことこそ仏教の、そしてまた東大寺の精神的危機ではなかったろうか。練行僧3名の応召礼状はこのことを突き付けたのではなかったか。戦後、東大寺では、否仏教界ではこのことはどのように捉え返されたのだろうか。その悲痛な経験から紡ぎだされる仏教の思想的地平こそその絶対平和主義に命を与えるのではないだろうか。
もう一つは8・15の転回の経験である。先生が率いていた一般兵士たちはそれまで〈死〉を当然のこととして受け入れ、「こんなに自然の美しいところで死ねれば本望だ」と言っていたのが、8・15の玉音放送を知って「これで妻子と会える」と大変喜んだそうである。また漁民たちはさっそくそれまで見かけなかった漁船を繰り出して漁にいそしんだそうである。私はそれを聴いて二つのことを思い出した。一つはある知人が語った「呉に応召され、8・15の後20歳前の同僚たちとあくまで武装抵抗だと銃をもって東に向かって行ったとき、ある山間の村で村民たちが総出で盆踊りをしていたのを目撃して衝撃を受けた」という話であり、もう一つは田山花袋の「一兵卒」で戦場で兵士が死に際に思い浮かべたのはふるさとの光景であり、そこに生きる肉親の姿であったという話である。日本の敗戦を知った時、人々は戦争の呪縛から解放され、天皇制国体思想の呪縛からも解放され、そこに残ったのは自然と溶け合った地域の共同体、悠揚迫らぬ命の営み=生活の継続であり、その中で紡がれる肉親の関係であった。私には仏教の「縁起」という考えが長い間広く受け入れられてきたのは、こういう基盤の上であったのでは、と思える。(話はずれるが、最近発刊された小説『道昭――三蔵法師から禅を直伝された僧の生涯』では、「民あってこその、国 命あってこその、人」と道昭が後の文武天皇に語っている。 なお、道昭の「利他行」の旅には行基もつき従って共にしたのだから、東大寺にもつながっていく話だろう。)
狭川先生にはこの応召礼状と機銃掃射による<死>への直面、そして8・15体験を語り継いでもらいたいと思わずにはいられない。それは私たちにとってもまた東大寺にとっても重みある、そして学ぶべきもの多い歴史経験である。講義の合間につい昨日の出来事のように語られたその時間をともにできたことに、感慨ひとしおであった。