世界の苦悩に向き合う仏教の可能性~共に生きる道はどこに~
―――新聞の「広告のページ」から―――
年明けてから通い始めた勧学院の講義も3月を迎え、修二会の真っ只中となった。長老様たちも修二会の時は何かと出番が多く忙しそうである。
先日も本行を迎えて練行衆が二月堂参篭宿所入りするのを出迎える管長や長老たちの記事が写真付きで掲載されていた。そして勧学院での講義も3月上旬で3学期が終了する。
狭川先生の講義は、三論に続いて成実宗に入って何回か経ているが、ここはなかなか難解である。六因四縁の理は因果の関係理解で不可欠なのだが、簡単には頭に入っていかない。ところどころでは西洋近代哲学における認識論上の諸説と響きあうところがあって、それと突き合わせてみると興味深いものも多々あるのだが、そういう余裕はない。機会を見つけて反芻してみたい。
そうしていると、今日の新聞の「広告のページ」に龍谷大学世界仏教文化研究センターが主催した講演会「世界の苦悩に向き合う仏教の可能性~共に生きる道はどこに~」の報告が掲載されていた。その中で特に、竹村牧男東洋大学長&インド哲学仏教学専攻教授の講演「現代社会の動向と仏教の可能性」には大いに引き込まれるものがあった。仏教の「空性」、「無我」と「縁起」、「覚り」という独自の思想は、今後の地球社会の動向に大きな役割を担うはず、とするその論旨に、かってなら軽く読み過ごしていただろうが、この2ヶ月講義を聴き勉強したことによって、より深くつかむことができた。少し詳しく追っておきたい。
現代の地球社会の動向として、第一に思想的文化的方面で絶対的なものが失われた。(キリスト教絶対主義、マルクシズム、化学万能主義の衰退と人々が拠り所とする究極の価値観の喪失)仏教の説く「空性」は人間の立場を縛る絶対者は存在せず、むしろ個人の自由を保障するもので、現代的な新しい人間観を生み出す可能性がある。
第二に経済的な効率や業績を重視する競争原理のグローバルスタンダードと格差問題や環境問題の浮上、その根底にある個人主義に対する仏教の「無我」。=その時々のかけがえのない主体はあっても常住する自我はない。それは、自己は他者の存在があってはじめて成立するという「縁起」の思想につながる。人間はお互いに支えあってはじめて生きられる存在。(人間だけでなく様々な命とつながりあって生きられる。それは利他行の考えにも連なっている。)ー( )内は筆者の追加。今後多文化共生となるべき(さらに自然=生態圏と共生する)地域社会のあり方や、新たな文明原理を考えるうえで大きな意味がある。(個人主義が新自由主義下で"孤人"主義化し、今日格差社会の生き辛さの増大とともに、ヘイトやトランピズムに体現される差別・分断や、排外主義・利己的ナショナリズムに推転していく様相を強めているだけに、このことは益々重要となっている。)
第三に自然科学やテクノロジーの問題として、環境問題や生命操作の問題があり、最近ではIOTやAIの社会システムへの浸透がある。それに対して仏教は「覚り」を求める道であり、そこには自己の欲望だけでなく、他者の救済や、量より質の高いものを求める高尚な精神性がある。その上で発揮される創造力が社会システムを改革し、他者の利益に貢献できれば、技術が進化しても本来の人間性が奪われることはない。「空性」による誰も侵しえない個人の自由、その時々のかけがえのない主体の尊重と、「無我」と「縁起」による他者との関係性=共生・共感と、技術や利便性を統御する「覚り」を求める精神性、深く考えさせられる提起であった。
鼎談の中ではブッディスト・エコロジーということで竜谷大の太陽光による再生エネルギーシステム「竜谷ソーラーパーク」の創設とそれによる地域活動支援が語られ、池上氏からは広がる子ども食堂など、格差社会の様々な問題に向き合う現代の利他行についての提起等、触発されるものがあった。道昭―行基は現代にどう継承されるのか、について考えさせられる。