3・11から6年、自然と人間、生と死を見つめながら、講義に参加して今想うこと。
勧学院での講義も先週をもって今年度を終了した。新年度の4月中旬とのことで狭川先生の講義は1カ月余りのお休みとなる。1カ月以上もお目にかかれないのかと、寂しい気がする。最後の回は唯識のまとめ的復習であったが、本質と影像、無意識の範疇等、認識論としての興味を惹かれるものであった。ただそこでは対象への働きかけの実践、労働=実践はどのように位置づくのかという疑問も残った。
三論や成実論等の内容等、はじめて先生が語る仏教の教義にふれたことで触発されたこともさることながら、狭川先生が講義の合間に語られる「生と死」に関わる経験と感想に考えさせられ触発されるものがあった。10歳の時の母との死別、24歳時の修二会参籠中の応召と伊豆での九死に一生を得た米軍機の爆撃への遭遇、そして95歳での心の支えであった永年のご伴侶との死別。・・・生と死は一つのものであり、生者と死者はつながっており、この世とあの世は1枚の紙の裏表のように一つのものであり、死後の世界で母や伴侶や師や友と対話するのを楽しみにしているという、生即死、死即生という境地は、なんとなくわかるような気分になっていた。
だが、お笑いコンビ、サンドウィッチマンの伊達みきおが語る同級生の友達の話は衝撃的であった。その同級生は3・11の津波で子どもと身重の妻をなくし、子供の遺体を胸まで海に
つかって捜し出し、口の中が泥だらけなのを洗ってあげ、妻は2週間後に2㎞程離れたところで発見された。その後彼は仮設住宅で1人で頑張っていたが、妻を火葬した日の1年後に、「子どもに会いに行ってくる」という遺書を残して自殺したということであった。この事実の前にはまさに、言葉が立ちすくむ。東大寺は3・11後当時の北河原管長を先頭にして何度も被災地を訪れている。被災者と接する中で「話を聴かせていただくことの大切さ」に改めて気が付いたと北河原管長は述べておられる。
3・11後、私の知人、とりわけ関西の阪神淡路大震災経験した知人の多くは被災地へのボランティアに赴き、協同の力を実践した。東京の若い知人たち、チェルノブイリ世代の幼子を抱えた知人たちは被曝を恐れて西へ避難した。60代以上の技術者たちは福島第一原発での収束作業への従事を志願した。そして私たちは東日本大震災緊急支援市民の会を結成して、安心な水と野菜を持って福島に向かった。最初は箱根強羅、後には富士の御殿場で自然水を2ℓの容器に50本ボトル詰めし、静岡長野山梨~関東西南の農園にお願いして野菜・果物を自分たちで収穫箱詰めし、コンテナ車に積んで被曝の不安におののく福島に運んだ。はじめは南相馬市の避難所に、後には福島市の15の無認可保育所に届けた。毎週の定期便として(週に2度の時もあった)半年間継続した。霊山を通るときには線量計が鳴り響いた。浜通りの国道6号線の近辺には幾つもの漁船が転がっていた。(この光景は3年ほど続いた。)津波に襲われ沢山の死者が出た老人ホーム。・・・
私たちの行為の結果か福島市ではその結果無認可保育園に移ってくる方が増えたとも聞いた。その夏千葉に保養に行った福島の子供たちが、帰り際にお土産として家族に安全な水と野菜を食べさせたいと、争って天然水と野菜を買い求めたという記事を目にしたときは、私たちの行為が子供たちの思いとつながっているのだと胸の張り裂ける思いであった。
20㎞地点に向かう6号線の光景は今も目に焼き付いている。これぞ日本の原風景と思った美しい田園風景、しかし人影は見当たらない。そこはそのうちにセイタカアワダチソウの原野に変わっていた。そしてさらには除染土の黒いフレコンパックが大量に野積みされることになった。これは葛尾でも飯館でも同じであった。
私たちはこういうことの継続として経産省前にテントを立て、経産省前テントひろばを設立した。そこは福島の女たちが東京で、霞が関で命の叫びを上げる場所となった。そういう魂を感じ取ってそこには全国津々浦々から、否世界各地から人々が集まり、3・11について、地球と自然と人間について、ふるさとについて、科学と生活のあり方について、地球と人類の未来について、人びとのつながりについて語り合い、交流し、共感しあう場となった。この小さな磁場が人々が互いにつながり、支えあう存在であることを示してくれた点で、霞が関を完全に凌駕した存在であった。(原発は危険なものであるだけでなく、人びとに諦めと分断を強要するものであり、地域と人々から尊厳を奪うものである。)3・11がいかに巨大な人類的経験であるかを如実に示している。私が勧学院で仏教の考え・教義にふれているのも、この経験を土台にしている。