久々の記事になります。

取っている新聞(寺院の機関紙)に講頭の話で「?」という話が書いてあったので、ここに思うところを書き残しておこうと思いました。

 

そこには「折伏誓願目標は数字ではない」ということを書いていました。

「数ではない、信者の志である」と。

 

こんな事を機関紙で訴える必要なんかあるんでしょうかね?

「折伏誓願目標はノルマだ」という潜在的な批判が、表面化してきているのでは無いかと感じました。

 

付き合いで新聞は取ってるんですが、寺院参詣は全くしていないし、家庭訪問の申し出もお断りしているので、現在の支部の状況や空気感は全然分かりません。

 

ただ、機関紙を見ていると、「折伏」「御講参詣」「登山」「活動者」の全てにおいて、数の増加を煽る感じが私が活動していた頃より全面に出ていると思います。

 

そのような新聞から感じる一連の空気感の中で急に「誓願目標は数であって数でない」という、全く理屈になっていない話を載せる。(いや、数でしょう…)

 

正直これを鵜呑みにするのは盲信に堕ちた人間しかいないと思う。

 

活動から離れてこの状況を見ると、実際の支部内の数に対する疲弊感が想像以上に大きいと見えます。

 

この主張をしている講頭さんは昔から知っていますが、熱量はすごい。

ただ、熱量で押し切ろうとするきらいがあります。

 

ネットがあっていろんなことが調べられる時代に、この昔ながらの熱量で押し切るやり方はもはや通用しない。

 

誓願目標が「信者の志」ならば、年間数百人の誓願がずっと何年も達成しているのに、実際の参詣者数や登山者数が増えないというのは、その「志」の正体が何なのかというのは自ずとわかるんじゃないでしょうか。

 

やっぱり、ノルマはノルマなんですよ。

 

慈悲で布教という体裁でいますが、「功徳や利益が頂きたい」「地獄に堕ちたくない」あるいは「折伏をして支部内で褒められたい」というのが染み付いて、前にも書いた「何だか物欲しそうな布教」になっている。

 

そう思います。

 

 

我が家が日蓮正宗に入ってからを振り返ると、後悔することが多いです。

 

前から書いていますが、私もガチ勢の時代がありました。

もちろん親もそうです。

 

我が家の失敗は、盲信になりご利益信仰になってしまった事です。

日蓮正宗の信徒では多いと思いますが、信心をしていればオールOK的な思考です。

 

これにより、問題が起きた時に適切な対応ができるはずなのに、信心に頼って対応が遅くなったり、対応しなかったりしてしまったことが多々ありました。

 

信心で乗り越えると言いますが、ほとんどの出来事は信心でどうにかなるものではなく、適切な対応が必要なことがほとんどです。

 

もっと言うと、辛いことを信心に逃げてしまい向き合うべきことに向き合わない。

 

信心の優れた人は、盲信にならず高尚なことを言うと思いますが、現実問題として、組織は盲信が進むような指導をしますので、そんなご利益信心にならないような高尚な状態になる人は稀です。

 

組織の指導のせいとかは言いたくありませんが、現実問題としてご利益と堕地獄を使い分けて信徒の思考を操る組織の責任は重いと考えます。

 

だからこそ、堕地獄の恐怖と闘いながらこのような批判的なブログを書いてます。

 

それと、折伏を進める事によって、人間関係(特に親戚関係)は極端に狭くなってしまった事です。

 

これは如何ともし難い。

 

宗教の話をしにくる親戚ほどめんどくさい物はないと思います。

他人ならば交友関係を絶てば済みますが親戚はそうは行きません。

親戚だからこそ、逆に宗教を辞めさせて目を覚まさせようとします。

 

そうすると、お互い言い合いにもなりますし、ほとんどの場合は宗教を辞めませんので、親戚といえども絶縁状態になってしまうもんです(体験談)

 

日蓮正宗の信仰をしていなければ、全く違う人生になっていたと思います。

教義の事とか記事に書いてみたものの、すっきりしません。

 

この信心に対する後悔。そして辞めたくても辞められない堕地獄の呪縛ね。

 

今日は日蓮正宗の教義について少し考えてみたいと思います。

 

「御書」について考えたいと思います。

宗祖日蓮大聖人が弟子や信者に与えた手紙、権力者に進言した論文などの総称です。

 

日蓮正宗では御書、法華経、天台大師の論文などを教義の拠り所にしています。

ただ、前後の文脈をあえてスルーして都合が良いフレーズを切り文して使うことが多いと感じています。

 

特に、罰論や堕地獄論、功徳論、折伏の進めなどにその傾向が強い。

 

手紙については相手の状況に応じた激励や指導なので、万人向けのものでない事が多々あります。

 

そもそも日蓮大聖人も、自分の手紙が本として出版され、何万人もの人が読むことは想定していなかったのではないかと推察します。

 

それと相伝書と言われるものは、真筆はなく、古写本などとして伝わっています。

ここは、他宗教から批判されるところですが、真筆がないし、文章的にも大聖人のものではない「偽書疑い」の物をエビデンスとして正統門流を名乗ってしまっています。

 

昔と違って、文献の検証などの技術の進歩もあるし、他宗派に批判をするならば、自宗の教義について、再検討や必要ならば再構築をする必要があるのではないかと考えます。

 

そもそも宗教って、信じるか信じないかという問題で、本当に正しいかどうかってわからない物です。ならば、教義の再検証をして、その上で開き直るのもありなのではないかと思うのです。

 

本当に正しいという証明は不可能です。

 

昔はこう言われていたけど、再検討、議論を重ねた結果この部分の解釈は変えますとかの方が余程潔いです。

 

できれば、宗祖真筆のものだけで、教義を再構築した方が良いのではないかと思います。

 

ネットで色々調べられるようになった時代ですので、今までのように、信徒に向けて強く教えを説いても、調べて見れば理論的な反対説が出てくるし、そこを「信」だけで乗り切るのは信徒側としても難しい時代になったのではないでしょうか?

 

そうだとすれば、本質部分は守りつつ、批判をかわすための教義の再検討があっても良いのではなかと思います。

 

それにこのブログでずっと書いている、創価の影響である「ご利益中心信仰」「在家布教主義」などからの脱却がないと衰退の一途をたどるような気がします。

時代も違うし、戸田氏や池田氏のようなカリスマ的な指導者(良くも悪くも)がいる訳でもないし、昔の創価のやり方をやっていても疲弊するだけです。

それに、盲信の人が増えてもただのカルトです。

 

ここは想像なのですが、中興の祖と言われる9世日有上人、26世日寛上人は当時そういう教義の再構築をされていたのではないかと思うのです。

 

だから、大聖人在世の教義とは少し変わっている部分もあるのではないかと思います。

 

例えば、仏像の是非とかなんかはそういう例ではないでしょうか?

御書を読むと文底読み(日蓮正宗的な解釈で文章の解釈をする読み方)でない限り、仏像はOKだし、むしろ大聖人自身が釈尊像を生涯持っていた訳ですし。

 

(ちなみに文底読みをすると「仏像=曼荼羅御本尊」という読み方になります。無理がある読み方ですw)

 

仏像OKにしろという訳ではなく例え話です。

創価のような「民衆の民衆による…」みたいなク○みたいなことではなくて、理論武装というか、信徒が納得して信仰できるようにすることは検討の価値はあると思います。

 

昭和時代の創価的教学はもうやめにしましょう。

 

本当にこの話は生意気なことを言ってすみませんという話なのですが、そんな風に思います。

 

 

組織と信仰そのものを分けたらどうするかの話を少し。

 

昨日までのブログでは再三「組織と信仰そのものは分けて考えるべき」と書いてきました。

少し前のブログに「組織は無理だし、活動に戻ることはない」と書きました。

 

と言うことで、組織論は考えないことにしたいと思います。

 

しかし、組織のご都合解釈の教義に信仰そのものが影響を受けてしまっているのでそこの否定から入らないといけないと思います。

 

まず、組織の方々はちょっとした出来事について「功徳」「利益」「罰」「罪障」と出来もしない評価をしたがる傾向があります。

 

ここから離れる必要があると考えています。

組織の方々の話を聞いていると、どうも、物欲しそうな顔で信仰をしているように感じます。

 

例えば、

 

「功徳を頂く」そのために「折伏をする」

「護法のために御供養をさせて頂く」そうすると「功徳が頂ける」

「唱題をする」と「境涯が開けて功徳を頂ける」

 

こんな文脈しかない気がします。

逆の言い方もありますが、言っていることは結局利益につながる。

 

そして、逆らえば「堕地獄」「増上慢」「不知恩」だの宣う訳です。

 

信仰とは何かを考えると、ご利益が欲しいのか、成仏の境涯を得たいのか、両方かなどのパターンが考えられます。

 

今の組織は「数」にとらわれています。質にはこだわれていません。

この「数」を実現するのに手っ取り早いのはやはりギブアンドテイクで、信心すればご利益があると言う話になります。

 

東京の大きな法華講支部の年間誓願目標が500名だとして、毎年達成できていると宣伝されたりします。

 

そうすると10年後には5000名増えていないとおかしい話になります。

 

実際、どうでしょう。

あなたの支部で毎年誓願目標が達成されていて、御講の参詣者は増えているでしょうか?

活動家と言われるメンバーが増えていますか?

人数が増えているにも関わらず、メンバーはいつも一緒とかじゃありませんか?

 

10年で単純に5000人増えているはずなのに、実際の参詣者や活動者が増えてなくて、その5000人の人たちが本当にいたとして、数合わせのために御受戒のみを受けさせてあとは実質退転したとしたら…

 

組織で教える「退転すると法華誹謗で堕地獄」とするならば、数合わせの誓願目標や折伏がとんでもなく無慈悲な行いではないでしょうか?

 

表向きの数字のために大量の退転者を出しているのではなかろうかと思うのです。

 

(極論を言えば僧侶が贅沢をするために)数を増やす必要がある

  ↓

誓願目標というノルマを設定する(自ら誓願を立ている訳ではないのであくまでノルマ)

  ↓

功徳・利益・罰・罪障などを使い分けて指導(本当は僧侶が布教すべき)

  ↓

盲信する人が折伏によりコミニュティを失い、街頭などの折伏しかなくなる

  ↓

御受戒だけ受けて、いなくなる人が多発する(数字上は誓願達成)

活動者は些細なことを「功徳」と自分に言い聞かせて信仰を続ける

  ↓

しかし現実は変わらず。辞めたくなるものが多数現れる

あるいは盲信が進む。

  

こんな流れになると思います。

そして、この流れが続けば、組織は衰退するでしょう。

 

話を信仰そのものに戻します。

私はここ数年の経験から、そもそも、何のために信仰があるのかを整理してきました。

 

最近思うのは、ご利益中心に考えてしまうから信仰に絶望するのだとういことです。

 

日蓮正宗の信仰で言えば、唱題をすることで自分の心が仏の性分になり、判断が正しくできるようになる。

そういう人が増えれば世の中の無用な争いや、荒廃がなくなってくる。

生活も整ってくる。

 

これが信仰の目的だと思います。

こういう理解でないと正直続かないと思います。

なぜなら、いわゆる「ご利益」みたいなことは起きないから。

 

創価の影響もあろうかと思いますが、ご利益中心にしてきた組織の罪は重いと考えます。

 

そこに、利益や罰や地獄とかの話が入ってくるからおかしくなってしまい、その上に組織拡大のために勧誘の目標設定が出てきたりする。それに数年ごとにある特別御供養。

組織のために信仰になってしまうから、信仰を続けるのであれば組織から距離を置く必要はあると思います。

 

ただ、信仰そのものが正しいということでもないと思います。

というのは、やはり堕地獄論に強い影響を受けていて、その影響がなかったとして、信仰を続けますか?と聞かれたら、続けるとは言わないと思うからです。

 

本当に宗教2世の問題って複雑なのです。

 

信仰そのものと組織を分けて考えて、組織は否定できました。

では信仰そのものは?と聞かれれば組織の刷り込み教義の影響で否定しきれない。

 

最初から潔く上の青字の部分だけの信仰ならば、そういうものだと静かに信仰を続けることができるのだと思います。

 

 

 

長い期間このブログを放置状態してしまっていますw

 

久々に管理画面を見たらコンスタントに月100アクセスくらいはありました。

皆無ではないですが、日蓮正宗を辞めた方や未活の方のブログは少ないと思います。

 

そのため、同じような悩みや疑問を持っている人が検索をし、このブログを見つけて読んでくださるのだと思うのです。

ある一定の層の関心が高いということだと思います。

 

教えに功徳や利益があるとかないとかの話にも関心があるとは思うのですが、この関心の本質はそこではないと思います。

 

どういうことかというと、組織のあり方、言い換えれば、功徳、利益、罰、地獄と言った教義を都合よく使い、人を集め、金を集めようとする組織の問題が本質なのではないかと思うのです。

 

真面目な人ほど、組織の言う通りに盲信に走り人生をおかしくしてしまう。

 

折伏を一生懸命やればやるほど、お寺関係以外のコミュニティでの関係が消滅してしまう。

それで、お寺関係の人間関係が全てになる。

晩年に気がついてももう遅いわけです。

で、2世たちはその姿をずっと見ているわけです。

 

盲信に落ちた人は、組織に利用されているという考えは及びません。

盲信2世(法統相続成功家庭)も同じです。

本気で正義だと思います。

 

そのような信者をあえて作るような指導をしているわけです。

ですので、一生懸命にやれば、ほぼ確実に盲信に陥る訳です。

 

多分、このブログを読んでいる人が悩むのって、お寺に行っても折伏と登山と御供養の話しかなくて、そんなことに嫌気がさしていて、信仰そのものが嫌というのではなく、組織のあり方に嫌気がさして、信仰自体を辞めたくなってるんだと思うんです。

 

で、実際辞めたいんだけど、例の「堕地獄」の問題が立ちはだかる訳ですよね。

 

話を戻しますが、このような批判的なブログが少ないのは、日蓮正宗の信者数が創価に比べれば少ないからというのもある。

でも本当の原因はやはり堕地獄論の恐怖から辞めてからも批判的なことを避けているのではないかと思います。

 

そのくらい「堕地獄」のインパクトは強く、人生に影を落とします。

 

前から書いていますが、「信仰そのもの」と「組織」をまず分けて考えるべきと思います。

 

「折伏しない」=「堕地獄」と組織は煽ります。

なぜなら、信者が増えないと贅沢できないから。

僧侶方をそういう状態にしてしまった創価学会は本当に悪いと思います。

 

まず、この極論から離れた方が良いと思います。

その上で、「信仰そのもの」と向き合い自分で考える。

 

私は今この状態です。

 

信仰そのものと向き合って、辞める辞めないの問題の答えが出るのではないかと思います。

確信を持てないものを人に勧めるなんてできないし、そんな状態で進めても失礼。

 

そんなふうに思います。

 

創価絶頂期の信者数の贅沢生活を知る世代が人生を終え、それを知らない世代が上に立ち、この状態を変えなければならないと思って組織が変わることがあれば、良いなぁなんて思うこともあります。

 

ただ、難しいだろうねw