組織と信仰そのものを分けたらどうするかの話を少し。
昨日までのブログでは再三「組織と信仰そのものは分けて考えるべき」と書いてきました。
少し前のブログに「組織は無理だし、活動に戻ることはない」と書きました。
と言うことで、組織論は考えないことにしたいと思います。
しかし、組織のご都合解釈の教義に信仰そのものが影響を受けてしまっているのでそこの否定から入らないといけないと思います。
まず、組織の方々はちょっとした出来事について「功徳」「利益」「罰」「罪障」と出来もしない評価をしたがる傾向があります。
ここから離れる必要があると考えています。
組織の方々の話を聞いていると、どうも、物欲しそうな顔で信仰をしているように感じます。
例えば、
「功徳を頂く」そのために「折伏をする」
「護法のために御供養をさせて頂く」そうすると「功徳が頂ける」
「唱題をする」と「境涯が開けて功徳を頂ける」
こんな文脈しかない気がします。
逆の言い方もありますが、言っていることは結局利益につながる。
そして、逆らえば「堕地獄」「増上慢」「不知恩」だの宣う訳です。
信仰とは何かを考えると、ご利益が欲しいのか、成仏の境涯を得たいのか、両方かなどのパターンが考えられます。
今の組織は「数」にとらわれています。質にはこだわれていません。
この「数」を実現するのに手っ取り早いのはやはりギブアンドテイクで、信心すればご利益があると言う話になります。
東京の大きな法華講支部の年間誓願目標が500名だとして、毎年達成できていると宣伝されたりします。
そうすると10年後には5000名増えていないとおかしい話になります。
実際、どうでしょう。
あなたの支部で毎年誓願目標が達成されていて、御講の参詣者は増えているでしょうか?
活動家と言われるメンバーが増えていますか?
人数が増えているにも関わらず、メンバーはいつも一緒とかじゃありませんか?
10年で単純に5000人増えているはずなのに、実際の参詣者や活動者が増えてなくて、その5000人の人たちが本当にいたとして、数合わせのために御受戒のみを受けさせてあとは実質退転したとしたら…
組織で教える「退転すると法華誹謗で堕地獄」とするならば、数合わせの誓願目標や折伏がとんでもなく無慈悲な行いではないでしょうか?
表向きの数字のために大量の退転者を出しているのではなかろうかと思うのです。
(極論を言えば僧侶が贅沢をするために)数を増やす必要がある
↓
誓願目標というノルマを設定する(自ら誓願を立ている訳ではないのであくまでノルマ)
↓
功徳・利益・罰・罪障などを使い分けて指導(本当は僧侶が布教すべき)
↓
盲信する人が折伏によりコミニュティを失い、街頭などの折伏しかなくなる
↓
御受戒だけ受けて、いなくなる人が多発する(数字上は誓願達成)
活動者は些細なことを「功徳」と自分に言い聞かせて信仰を続ける
↓
しかし現実は変わらず。辞めたくなるものが多数現れる
あるいは盲信が進む。
こんな流れになると思います。
そして、この流れが続けば、組織は衰退するでしょう。
話を信仰そのものに戻します。
私はここ数年の経験から、そもそも、何のために信仰があるのかを整理してきました。
最近思うのは、ご利益中心に考えてしまうから信仰に絶望するのだとういことです。
日蓮正宗の信仰で言えば、唱題をすることで自分の心が仏の性分になり、判断が正しくできるようになる。
そういう人が増えれば世の中の無用な争いや、荒廃がなくなってくる。
生活も整ってくる。
これが信仰の目的だと思います。
こういう理解でないと正直続かないと思います。
なぜなら、いわゆる「ご利益」みたいなことは起きないから。
創価の影響もあろうかと思いますが、ご利益中心にしてきた組織の罪は重いと考えます。
そこに、利益や罰や地獄とかの話が入ってくるからおかしくなってしまい、その上に組織拡大のために勧誘の目標設定が出てきたりする。それに数年ごとにある特別御供養。
組織のために信仰になってしまうから、信仰を続けるのであれば組織から距離を置く必要はあると思います。
ただ、信仰そのものが正しいということでもないと思います。
というのは、やはり堕地獄論に強い影響を受けていて、その影響がなかったとして、信仰を続けますか?と聞かれたら、続けるとは言わないと思うからです。
本当に宗教2世の問題って複雑なのです。
信仰そのものと組織を分けて考えて、組織は否定できました。
では信仰そのものは?と聞かれれば組織の刷り込み教義の影響で否定しきれない。
最初から潔く上の青字の部分だけの信仰ならば、そういうものだと静かに信仰を続けることができるのだと思います。