我が家が日蓮正宗に入ってからを振り返ると、後悔することが多いです。

 

前から書いていますが、私もガチ勢の時代がありました。

もちろん親もそうです。

 

我が家の失敗は、盲信になりご利益信仰になってしまった事です。

日蓮正宗の信徒では多いと思いますが、信心をしていればオールOK的な思考です。

 

これにより、問題が起きた時に適切な対応ができるはずなのに、信心に頼って対応が遅くなったり、対応しなかったりしてしまったことが多々ありました。

 

信心で乗り越えると言いますが、ほとんどの出来事は信心でどうにかなるものではなく、適切な対応が必要なことがほとんどです。

 

もっと言うと、辛いことを信心に逃げてしまい向き合うべきことに向き合わない。

 

信心の優れた人は、盲信にならず高尚なことを言うと思いますが、現実問題として、組織は盲信が進むような指導をしますので、そんなご利益信心にならないような高尚な状態になる人は稀です。

 

組織の指導のせいとかは言いたくありませんが、現実問題としてご利益と堕地獄を使い分けて信徒の思考を操る組織の責任は重いと考えます。

 

だからこそ、堕地獄の恐怖と闘いながらこのような批判的なブログを書いてます。

 

それと、折伏を進める事によって、人間関係(特に親戚関係)は極端に狭くなってしまった事です。

 

これは如何ともし難い。

 

宗教の話をしにくる親戚ほどめんどくさい物はないと思います。

他人ならば交友関係を絶てば済みますが親戚はそうは行きません。

親戚だからこそ、逆に宗教を辞めさせて目を覚まさせようとします。

 

そうすると、お互い言い合いにもなりますし、ほとんどの場合は宗教を辞めませんので、親戚といえども絶縁状態になってしまうもんです(体験談)

 

日蓮正宗の信仰をしていなければ、全く違う人生になっていたと思います。

教義の事とか記事に書いてみたものの、すっきりしません。

 

この信心に対する後悔。そして辞めたくても辞められない堕地獄の呪縛ね。