お寺の猫



こんにちは

碇谷です。

 

今日はお彼岸の入り。

あの世とこの世が近づく時期です。

不思議なお話ですね。

そういう話が大好きです。

 

いつも一台も駐車していないお寺の駐車場が賑やかでした。

お墓もお花が飾ってあるところが多くて。

 

 

さて、母の遺品整理で二ヶ月くらいに渡って、粗大ゴミを何度も申し込んだ私。

 

 

やっぱりお部屋の整理整頓と頭(心)の整理整頓は通じてると感じます。

 

 

たとえば、粗大ゴミを処分する時、申し込む手間がかかるし、お金も少しはかかるし、シールを買いに行かないといけないし(これが買い物の時に忘れる)部屋から置き場所に運ぶのに重かったり、解体する手間がかかったり、朝早かったり(だいたい8時までに出すと言う自治体が多い気がします)

正直「面倒」です。

 

 

けれど、申し込んでしまった後は、やるしかないし、その「モノ」が無くなるとスペースが空いて気分がいいし、不要なものなので、「その日」が待ち遠しくなります。

 

 

一番面倒なのは申し込む時。

それさえ済めば終わったようなものです。

 

 

粗大ゴミは、文字通り大きなもので、普段のゴミ回収には出せないモノです。

 

 

頭の中、心の中に、大きな大きな手放したいのに、なぜか手放せない、面倒で考えたくない「モノ」がある時、

面倒かもしれませんが、わざわざ出かけて、プロの手を借りたり、お金を支払って聞いてもらったり、それでもしかしたら損をしてもいいやと決めたり。

そんな「粗大ゴミ」の処理が必要なのかもしれません。

 

 

部屋が広いから、家が広いからと、そのままにしておくことで、なんだか部屋が綺麗に見えない。スッキリしない。

どこか居心地が悪い。

そんなことありませんか?

 

 

まだ使えるからと部屋の隅に置いてある、使っていないテーブルや、もう読まない不要な本が詰め込まれている本棚やその本や、雑多な使わない文房具や。

 

 

「まだ使えるから」で捨てられないモノたち。

 

 

それって「まだまだ悩みたいから」ずっと心に置きっぱなしの「問題だと思えてるモノ」と同じですね。

 

 

面倒だけど、粗大ゴミとして考えて、思い切って処分してみたら、スペースが空いて楽になるかもしれません。

 

 

「もったいない」とは

「使えるのに使っていない」からこそおきる気持ち。

でもモノは使ってこそ意味がある。

 

 

心は幸せでいるためにスペースを空けたい。

悩むのも苦しむのも人生には必要なことだけど

ずっとそれがある、それがメインの人生なんて辛すぎる。

 

 

ずっと使わない重たいテーブルが家の片隅に横に立てかけてあるなんて、テーブルも可哀想。

 

 

何度も何度も粗大ゴミを申し込んでは出しながら

そんな風に思うようになりました。

 

「もったいない」という気持ちをかなりかなり手放しています。もともとあまりない方でしたが。

 

そして、何度も出していると、慣れて、簡単に手続きできるようになりますね笑。

 

 ゴミに例えるシリーズ続きます。



 

 

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