心屋塾では
人を人を傷つけられないと伝えています。
人はもともと心に傷を持っていて
「傷つけられたーー」と感じた時は
古傷が疼いている時。
決して、目の前の人の言動や行動のせいではないのです。古傷が疼くきっかけにはなっても、元々の原因ではないのです。
傷つけられたのではなくて、勝手に傷ついているのです。古傷の痛さを思い出して痛いのです。
簡単に説明するとこんな感じです。
心に古傷がない人はいないと思いますから
大人になっても、いくつになっても
「痛い」は感じると思います。
たとえば、口の悪い人もいるし
語彙が少なくて、悪気がまったくないけれど刃のような言葉を発する人もいます。
そして、私たち、一人一人が
「言葉」に乗せている「意味」が微妙に異なりますので
ある人にとっては良い意味で言った言葉が
悪い意味に受け取られてしまうこともありますよね。
そんな風に「言葉」を通してのコミュニケーションをしている私達は
日々、手探りで、お互いの気持ちを知ろうとします。
自分の気持ちを伝えようとします。
けれど、100%正確に伝えるのは無理です。
なぜなら、気持ちや感情を「言葉」に置き換えた段階で
もう「別のもの」になっているから。
人と人は100%分かり合うことはできません。
と、私は思っています。
70%くらいわかってもらえれば十分ではないかしら。
後は、もう受け取った人に任せる。
そこに「誤解がある」と思っても任せる。
何故ならば、自分も相手をわかってあげられないから。
悲しいけれど真実です。
「わかってもらえない」と感じている時
たぶん、あなたも誰かをわかってあげていません。
あなたが悲しい時
あなたも誰かに悲しい思いをさせているんだと思います。
自分だけ。ということはきっとないのでしょう。
人って自ら傷つきにいきますよね。
悲しい感情を何度も何度も反芻する。
マゾか??というくらい。
悲しみってそれくらい人は味わいたい深い感情なのかもしれません。
喜びは瞬間的だったりするけれど
悲しみには「浸る」という表現がぴったりです。
他人と自分を比べてみたり
人より劣る面をいつも気にしていたり
自分で自分を傷つけるのが人は得意ですよね。
もし
いつも
そんな感情に浸っているのでしたら
もうそれはある種の「趣味」かもしれませんよ。(笑)
私は時々、悲しい音楽をかけて浸りきって
終わらせますけれど。
罪悪感は「悲しみ」を呼び起こすのにぴったりな
地雷ですね。
もう地雷を撤去してもいいですよね。
それでなくても
ほっておいても
悲しいことは人生に時々起るのだから。
古い悲しみにさようならしてもいいんじゃない???
ね。