駄文つらつら書いてしまいましたが、ガンバと大宮両方応援してます。

ガンバは途中ブランクがあったとはいえ、Jリーグ1年目から応援していたし、関西の大学を目指すカンフル剤という役目もありました。結局金沢の大学行きましたが、そこで知り合った大学サークルの後輩のいとこが元ガンバの平岡直樹だったとかありまして、ガンバが縁で…というのがいろいろあります。

大宮も然りで、泰史の病気、スタジアムやサポの雰囲気、ここには書かなかったけどやかん兄さん(イ・チョンス)の加入、そして足しげく通った根性がNACK5を自分の中でのホームスタジアムにしてくれました。申し訳ないけど、万博よりNACK5の方が愛着あります。でもアウェイ観戦はガンバの方が落ち着くんですよね。長年関西のチーム応援してたから、関西弁やおもろいヤジ、ボケとツッコミが当たり前のように存在しているガンバのゴール裏は離れられません(笑)。


ガンバにないものが大宮にはある。
大宮にないものがガンバにある。

だから両方応援してます。浮気みたいでイヤとかは言わんで下さい。
実際の女性相手に二股なんて出来ません。てか彼女作ることすらままらんのに浮気なんてできんでしょうが。

こんなわけでよろしくお願いします。
2012年、忘れられない試合が2つあった。


どん底の中で、2012年4月、NACK5スタジアムで埼玉ダービーを迎えることになった。

負けたら居残るつもりでいた。前出のコアサポの暴走を止める時に、気持ちは決めていた。
でも出来るだけ居残りなんてバカげたことはしたくない。どうすればいいのか?勝つしかねえだろ。ゴール裏の赤いサポーターを前にし、「どんだけチームが調子悪くても、あいつら(レッズ)には負けらんない、俺らのNACK5スタジアムで好き勝手はさせない。」と気を吐いた。メインはガンバ応援しようが、大宮のゴール裏にいる以上は大宮サポだ。周囲のサポ以上に気持ちを入れよう。その思いで90分叫び続けた。

試合は2-0。ヨンチョルとラファエルのゴールで浦和をシャットアウト。昨年の原口のスライディングシュートで同点にされた悔しさをようやく晴らすことが出来た。NACK5スタジアムホームゴール裏初参戦から2年でホーム初勝利、しかも相手はガンバにとってもライバルの浦和。…ホント、泣きそうになった。


その7か月後、ホーム最終戦磐田戦。

この時ガンバは17位と低迷。大宮も状況次第では降格圏突入。全体を通してシーズン残り2試合で11位のジュビロから17位のガンバまでが降格候補という降格レースがダンゴ状態。そんな中でNACK5スタジアムのゴール裏へ大宮を応援しに行った(ガンバはホームでの試合なので日程と金銭の都合で大阪へは行けなかった)。スタジアム行く途中、大宮のユニフォームを着ている自分は四六時中ガンバの心配ばかりしていた。もし大宮負ければガンバが降格圏脱出も可能。やっぱガンバJ2は勘弁だよなー。ひとまず大宮の上さえ行けば残留は決まるようなもんだからなー、外面は大宮、心はガンバという状態。行くだけ行って、気分が上がらないようだったら2階の隅っこで座って試合観ててもいいかな、とも考えていた。

だが、入場ゲートをくぐった瞬間、そんな気持ちは吹き飛んだ。

そんな気持ちで応援するのはここにいるサポーターに失礼極まりない。
オレが行くことで行きたくても行けなかったサポーターもいる。
オレは大宮のユニフォームを着ているんだ。
大宮のユニ着て大宮の負けを願う馬鹿どこにいるんだ。

今オレの使命は大宮の残留を決めることだ。
ガンバ?いつもの実力あれば大宮が勝とうが残留を決めてくれるはずだ。
大宮が勝とうがガンバも残り全部勝って残留するはずだ。
落ちたら実力がなかった、それだけだ。
J2落ちたらその時考えりゃいいんだよ。
残留の可能性あるんだったら信じようぜ。

その90分はガンバの結果に関わらず、必死で大宮を応援した。埼玉ダービー以上に応援していた気がする。遅くスタジアムに到着して、爆心地から離れてしまったがおかまいなく声を出した。
みんな声出そうぜ、残留させようぜと言わんばかりに。


大宮はこの試合で残留。
ガンバは最終節であえなく降格。

でも後悔は全くしてない。今でもしていない。むしろ、他のチームのユニフォームを着た以上は周囲のサポーターと同じ気持ちで応援しなければならない、という自分の哲学がこの2試合で確固たるものになったような気がする。
ガンバの試合の合間に大宮の試合にも行くようになった。
だが、一向にホームで勝ち試合を観ることが出来ない。

アウェイは2010年の埼玉ダービーが緒戦で1-0で早々と勝ち試合観たのに、ホームで勝てない。
2011年に至っては大宮自体、ホームでたった2勝しか勝てなかったという体たらく。行く度勝てない、なまじっかアウェイで勝ててるだけについ期待してしまう。降格圏の山形や福岡には勝てるだろう、と思ったらここでも勝てない。オイ青木、オメービビってバックパスばっかすんなや。ガンバの攻撃サッカーをずっと観戦してただけあって攻撃に消極的な大宮の試合は観ていてイライラする方が多かった。雰囲気悪くなったゴール裏でケンカが起こり、止めに入ったこともあった。


勝てない、ちくしょう。
「まあメインはガンバだし」と開き直ってはいたものの、ここで投げ出したら男がすたる、悔しいから勝つまで行く、とNACK5のゴール裏通いは続けた。大学再入学してることもあり、何を血迷ったか学割でシーズンパスも買った(これは浦和戦でチケットが取れなかった悔しさもあるんだけど)。シーズンパス買った後も足を運んでは負け試合。アウェイでも勝てなくなり、三ツ沢でコアサポが居残りおっぱじめたのを「アウェイだからやめよう」と止めたり、品性も笑いのセンスもない還暦近くのおっさんに怒鳴られて怒鳴り返したり…しかもこの時カッパ着ずにズブ濡れで応援…。試合終わる度、「オレガンバサポなのに何やってんの?」と自己嫌悪に陥るのが常だった。しかもガンバ降格圏なのに何で大宮の心配までしてんの?


尚、この時のNACK5観戦時でのリーグ戦成績

2010
11.27 大宮2-2新潟

2011
05.22●大宮1-4清水
06.11 大宮2-2浦和
08.20 大宮1-1山形
10.01●大宮0-2福岡

2012
03.10●大宮0-1FC東京
04.07●大宮0-3C大阪

2010年4月10日、NACK5スタジアム大宮のアウェイゴール裏に青と黒のユニフォームを着て戦いに臨んだ。

大宮アルディージャというチームは名前だけは知っていた。1999年、当時在籍していたヨルン・ブーレが六本木で暴漢に襲われ、左目を刺されて選手生命を絶たれた、それが大宮アルディージャの名前を聞いた最初のきっかけで、後はJ1に昇格した、塚本泰史の骨肉腫…それ以外のことは全くと言っていいほど知らなかった。サッカー観戦再開してからも「大宮でガンバの試合が見れる」、これだけの知識しかなかった。

スタジアムに入った。小ぢんまりとしつつもサッカー専用スタジアムだけにピッチとスタンドとの距離が近い、2階席からでも十分眺めがいい、芝もキレイ…カシマと同じ、いや、それ以上の雰囲気のスタジアムが大宮にあることに驚いた。そして試合後の大宮のチャント、

♪大宮 弾けよう
 攻めろオレンジ軍団
 ゴールを見せてくれ
 無敵大宮 わっしょい!
(大脱走より)

このチャントがツボった。初めて聞くチャントなのにすんなり頭の中に入る。最後の「無敵大宮 わっしょい!」がツボった。めっちゃおもろいチャントやん。

試合は3-1でガンバがシーズン初勝利。勝利の余韻に浸りながらも、「大宮のゴール裏、一度遊びに行ってみたいな」と思う自分がいた。


2か月後、ナビスコカップの仙台戦を観に初めてNACK5スタジアムのホームゴール裏に行った。折角なんでコンフィットシャツ買って、ゴール裏へ。ナビスコカップということもあり、ガンバ戦に比べて人が少ない。前の立見席にも簡単に行ける。おお、あまり並ばずに前へ行けるっていいな、というのがゴール裏に初めて立った感想。ガンバはナビスコは途中からだし、チャントも予習してきたし、何より勝てば決勝トーナメントへ行ける。そんなら精一杯応援するぞ、と思いきや、結果は0-4の大敗。こうして大宮サポとしての苦い緒戦を終えた。

この日、初めて泰史を見た。松葉杖着いて、ニット帽を被って選手を出迎えていた。その姿がものすごく印象的だった。
2008年のクラブワールドカップ。


「ガンバ大阪vsマンチェスターユナイテッド」


目を疑った。いくら優勝経験があるとはいえ、自分の中ではガンバ=弱小のイメージが拭えなかった。レッズ、グランパスと並んでJリーグのお荷物だった弱小球団。その弱小球団がマンチェスターユナイテッドとバトル…。ちょうど仕事も休みだ。折角なんで観に行くか。

ルーニーにチンチンにされて5-3で敗れたものの、5点取られたというより、3点マンUから取った、この事実に驚かされた。その内1点はPKでも、遠藤のコロコロPKが見られた。それだけで十分驚かされた。一方で日本人なのにマンUのユニフォーム来ているサポーターの多いこと多いこと。お前ら、何で日本のチーム応援せんの?俺等の国のサッカーやん。外国のチームのユニ着て気取ってんじゃねーよ。…何か悔しかった。何で外国のユニ着た日本人の方が多いんだろ。喜びと悔しさ、怒りが入り乱れる中、一つの決心を自分はした。


「…Jリーグ見なきゃな」

こうして11年ぶりにJリーグを見ることになった。
どうせ見るなら本格的に応援しないとな、とユニフォームも買った。
2009年5月の埼玉スタジアムでの浦和-ガンバ戦を皮切りにこの年は他に山形、磐田(エコパ)、清水、鹿島のスタジアムに足を運び、2011年には震災の影響もあり、「日本をもっと知ろう」と当時のJ1のチームのホームスタジアムに足を運んだ。チームがJ2に落ちても、足しげくスタジアムに通い詰め、通ったスタジアムがもうすぐ50を数えるところまで来ている。


その中で、もう一つの「出会い」が待ち受けていた。
帰国してからは何かと日本代表の試合があると可能な限りテレビを見るようになり、また、埼玉スタジアムで開催された日本代表の試合も出来る限り足を運ぶようになった。何回も試合を観るうちに、とある一人の選手を意識するようになった。


遠藤保仁。


2007年ごろのアジアカップ予選で、登録上の理由で新規に代表に選ばれた選手は大きな背番号をつけて試合に臨む中、一人だけ一桁の「7」を背負った選手がいた。中田英寿の後を継いだ遠藤であった。プレー以上に小さい数字だけが一際目立っており、それで名前を覚えるようになった。そして試合を観るうちに、ある一つの衝撃的な事実を知ることになる。


「遠藤保仁 所属:ガンバ大阪


…情けなかった。
確かに何かとつけてガンバを気にかけていた。ツネ様やイナ、大黒がガンバだってことも知っていた。2005年に優勝したのも知ってた。でもこれほどの選手が自分のひいきにしているチームにいたことを何一つ知らなかったとは…。てか何で坪井やタリーさんが浦和なの知ってて遠藤がガンバなの知らなかったのか。今思い出しても情けない出来事であった。

その遠藤が2008年冬、いつも見ていたユニフォームとは違うユニフォームで世界と対峙することになる。
留学を開始したものの、韓国にずっといるだけでいいのだろうか?と思うようになってきた。
韓国で語学の勉強だけしに来たわけじゃない。やはりいろんなものを見たい。五感で感じたい。韓国を知るんだったら、韓国以外の外国にも行ってみたい…日に日にその思いが強くなってきた。

そんな思いを募らせた時に「コンフェデレーションズカップ」という文字が目に入ってきた。2003年夏にフランスで行われる大陸代表別のカップ戦。日本代表も出場する。そういえばフランスワールドカップ行きたい、って言ってたな。これを機会にちょっくら3週間くらいヨーロッパ行ってくるか、と語学学校を途中で切り上げ、香港、イギリス経由でおフランスへと飛び立った。

現地の旅行代理店に電話したり、現地のプレイガイドを周ったりして日本戦3戦のチケットと、せっかくだから、ということでブラジル-カメルーン戦のチケットをゲット。日本戦はともかく、いくら2軍とはいえブラジル代表を生で見られるなんて機会はそうはない。フランス-日本の白熱した戦いも素晴らしかったが、ことブラジル-カメルーンは様々な意味で自分の五感にドロップキックを食らわせてくれた。

フランス代表の大半が行われるパリ・サンドニのスタジアムにて開催された当該試合を、大柄な黒人のにーちゃんが大勢ひしめく中で一人日本人が混じっている。そういった状況で観戦していた。最初は怪訝な目で見ていた人もいたものの、試合が始まったら人種なんて関係ねえ。プレー一つ一つが本能を刺激し、一喜一憂する。8万人入るスタジアムはプレー一つ一つにどよめく。その刺激を与えてくれるプレーも主力が欠けているとはいえ、テクニックはさすがブラジル代表。うまい、という言葉では言い表せない。とにかく「格が違う」。テレビで見ているようなプレイが目の前で起きている、という現実にただただ驚くばかりであった。

試合はサミュエル・エトーのゴールで1-0でカメルーンが勝利。当時のメンバーにロナウジーニョも。そして、この試合の1週間後、このフィールドでプレーしていたフォエがリヨンで思わぬアクシデントに出遭ってしまう…。
2003年4月、ソウルワールドカップスタジアムで韓国-日本の試合が行われることとなり、「これは絶対観に行きたい」と思うもチケット発売日には生憎私用で日本に帰国。あのテこのテでダフ屋を頼ってようやくゴール裏のチケットをゲットし、当日会場に向かった。

収容人数66,000人のワールドカップスタジアムはほとんどが韓国サポーター。赤いレプリカユニフォームを来た韓国サポーターがピッチに向かってブーイングやら中指やら。相手のチームに敬意なんてあったもんじゃない。日本代表選手がウォーミングアップでピッチに入ると四方八方からこれでもか、というくらい大きなブーイング。永遠のライバルにすさまじいまでの"洗礼"。この時初めて地響きなる言葉を体で味わった。試合中も日本にボールが回れば瞬く間にブーイング。そんな中、数で負けても質で負けんと言わんばかりに日本コールを精一杯張り上げていた。

試合は終始韓国ペースだったものの、試合終了間際に永井雄一郎のループシュートで辛勝。

試合終了後、韓国サポから何かいらんことされんかな、と心配していたが、そんな心配は無用だった。韓国サポーターが日本サポーターに「一緒に写真撮ろう」とそんじょそこらで小さな日韓友好の集い。韓国人、何だかんだ言っておまいら実は日本好きなんだろ(笑)、というのが垣間見れた。一部「チョッパリどもが!(日本人の蔑称)」という人間もいたが、日韓交流を希望していた人数からいればそんなのはごくごく一部だった。

この試合で、自分が日本人だということをしっかりと認識するようになった。自分の国、自分の持つ国籍…試合中いろんな思いが交錯し、ああ、やっぱオレは日本人だな、と。そして、サッカーは国と国との90分間の代理戦争、という認識も持つようになった。

この刺激をもう一度味わいたい。

そんな中で日常生活を送っていた時にネット上に現れた「コンフェデレーションズカップ」という文字。その文字がまた新たな世界へと自分を導いた…。
ガンバへの熱は「結果をテレビや新聞で知る」レベルになりつつも、当時ワールドカップ初出場がかかっていた日本代表の試合は欠かさず見ていた。アジア最終予選の時は本気でマレーシア、ジョホールバルへ本気で行こうと考えたものだった(結局当時パスポートの取り方を知らなかったため断念)。フランスワールドカップの時は教育実習と日程がカブり、これまた本気で天秤にかけたものだった(これも結局学業優先で教育実習を取ったが、仮に行ったとしてもチケットがない、という悲惨な状況になっていた可能性が大だった)。

大学を卒業し、広島の大学院に進学。ビッグアーチでガンバ戦が見れるぞ、と思いきや、この時阪神に野村克也監督就任。ガンバ以上に阪神への熱が高まってしまった。んで、大学院での研究がメインな生活が合わず、バイトばっかりに明け暮れ、阪神の試合も1カードで1試合見るのがやっと。甲子園まで行くことはあっても万博記念競技場?何それ?こんな状態。サッカーを観る、という感覚はなくなってしまい、テレビで流れているサンフレッチェの情報ばかり知ってたような気がする。でもテレビだけでスタジアムには足を運ばず、今でも「同じ県内だったし、あの時行っときゃ良かった」と後悔してる。卒業後も日韓ワールドカップまで、ロクに代表戦も見てなかったのは記憶している(ひとまずツネ様とイナがガンバから代表に選ばれた、この程度)。

日韓ワールドカップが終わった2003年10月、昔から夢見ていた韓国へ留学。
この韓国で大きくサッカー人生が変わることになる。
J20年目、ガンバとアルディージャ応援しながら、時々J2のスタジアムへ遊びに行っております。ガンバ落っこっちゃったからいろんな意味で棲み分け出来て楽しいぜぇ、土曜鹿島で日曜岡山とか移動がワイルドだろぉーとかアホ抜かし、J1に未練タラタラ残しながらJ2クラスタを満喫しております。

そんな自分のJとの馴れ初めを。

J開幕時、これからはサッカー、という雰囲気の中でぼちぼち応援するチーム決めておいた方がいいな、ということでいろいろ考え、最終選考に残ったのが鹿島、浦和、ガンバ。当時川崎在住、家の裏はヴェルディのクラブハウス。でも読売大嫌いだから真っ先に候補から外れましたけど(笑)。その中の1チーム、ということでファーストステージは様子を見てましたが、鹿島は早々優勝決めて面白くない、浦和はクソ弱い、当時関西の大学を志望してた、ということでガンバ選びました。

初Jリーグ観戦は94年開幕戦の市原(現・千葉)-ガンバ。土曜学校で五井まで電車で行き、試合開始直前に到着。席はなく階段に座っての観戦。しかも土砂降り、ルーキー城に初ゴールをあっさり許し、1-5でボロ負け。ミジメな負け方でした。でもめげずに8月に国立で行われた名古屋-ガンバで初勝利。PKでサドンデス勝ちでしたが、前回ボロ負けだっただけに喜びもひとしおでした。尚、この試合で途中経過で浦和が引き分けていてスタンド中が「おおーっ!」、試合後に浦和が勝ってさらに「おおっーー!」。しまいにゃ「うらーわレッズ!」とガンバゴール裏からコールが沸き起こりました(笑)。それくらいレッズ、弱かったです。

その後金沢の大学に進学し、Jリーグを観戦する機会は激減。

観戦成績は

95年 鹿島2-1G大阪(金沢)
  名古屋0-3G大阪(瑞穂)
96年横浜M 0-2G大阪(三ツ沢)
97年 福岡0-1G大阪(熊本・水前寺)

これから11年ほど、J観戦には行かなくなりました…。