昨日は月が綺麗だった。
夕飯の買い出しに行こうと出かけたら、月が煌々としていて、見とれてしまい、思わず2時間くらい、月を追いかけて歩いた。
いまだに、満月の夜には、バーのあの夜を思い出す。
バーテンの彼女に恋をしていた。
思えば出会った時に、すでに恋をしていた。
6年前の2月頃、いつも通っている路地に、そのバーは、忽然と現れた。
土地を離れてからも、満月を追いかけては、彼女の事を慕っていた。
ある夜、その日も満月を追いかけていて、急に空しさを感じた。
彼女に対する気持ちは、会えなくなってからも無くならず、いつしかそれは、執着となっている事に気がついた。
満月に彼女を重ね合わせ、それをふらふらと追いかけている自分が、妄執に捉われている事に気付き、それを解放したくなった。
ちょうど、コロナ禍に入った頃から、執着を解放する事に取り組んで来た。
月日が経つ中、様々な過去に対する執着を解放して来て、思考自体が執着である事に気付いて、要らぬ思考をしないようになった。
いつしか、満月を追いかけなくなっていた。
満月を見ても、彼女の事を想わなくなり、彼女を愛していた事も忘れていた。
あれだけ捉われていた、あの夜の記憶も、風に砂が崩されるように形が無くなって行き、甘美さをほとんど感じなくなっていた。
様々な事に執着を持たなくなった。
子供達に対してもそうだが、離れて数年は、常に心配ばかりしていたのが、今では、彼らが無事に過ごしている事を祈り、信じるだけで、安心するようになった。
年老いた母親に対しても同じで、以前は、年に2回くらいは顔を見に行っていたのが、行かなくなった。
自身についても、以前は、様々な事に杞憂を抱いていたり、周りの事に怒っていたのだが、執着を解放すると、安心して、ポジティブに過ごせるようになった。
バーテンの彼女の事もそうだが、大切に想っている人や事を、考え無いようになると、少し罪悪感に似た気持ちになる。
が、執着を解放しても、ずっと心の中では大切に想っていて、それでいいと思うようになった。
彼らが無事に過ごしてくれる事を、神社にお参りをして祈り、毎日神棚に祈り、信じて生きる事が出来るようになった。
周りの人からは、子供には定期的に会いにいかなあかんとか、たまには母親に顔を見せてやらないと、等と言われる事があるが、そうした形式的、表面的な事に、あまり意味を感じなくなった。
子供達にしても母親にしても、自分が守ってやるとか、自分がなんとかしないと、と考える事をやめた。
やめてみると、自分が…と考えていたのは、エゴ
によるものだと気付きがあった。
彼女にも、ずっと会いたい気持ちがあったが、それも、彼女に触れたい、ハグをしたいと考えていて、エゴによるものだったのだろう。
過保護や思い込み、欲がエゴとなり、それが執着を生み出していた。
そうした事から解放されると、随分と気楽に過ごせるようになった。
気楽にはなったものの、仕事以外は、やる事がなくなり、時間を持て余すようになった 笑
思考をしない、もちろんギャンブルなどの遊びをしない、また最近は、映画やテレビも観なくなった。
ここ数年で、余計な人付き合いをやめて来て、釣りなどの趣味もやらなくなった。
更に、年明けから、飲みに出かけなくなり、一層、やる事が無くなった 笑
やりたい事や新たな趣味を始めようと、本屋に出かけて、隅から隅まで見てみても、興味を惹かれるものが見つからない 笑
一昨年よりも、やる事が無くなったが、不思議と空虚さは感じずに居て、ネガティヴにもならない。
長い時間を掛けて、思考や人間関係などを断捨離して来て、せっかくキレイになった場所に、安易に新しいものを入れたくない 笑
今は時間を持て余しているが、これはこれでいいと思うようになった。
自身のこれからの事についても、自分がどうにかしようと考えるのをやめた。
毎日、子供達、母親や妹、バーテンの彼女の無事を祈り、日々精進して生きていれば、自然と導かれる事を信じるようになった。
「行動しないと何も始まらない。」
昨年から、そうした思いがあるが、闇雲に動いても仕方が無くて、動きたくなる時がそのタイミングなんだろう。
昨晩、キレイな月を見上げながら、以前のように甘美な気持ちにはならなかった。
バーのカウンターを挟んで、貴女が好きだ!なんて激しく告白してから、ずっとその続きを求めていたのだろう。
あの、切なく、キュンとする感覚を覚えなくなったのは残念だが、それでよかったように思う。
ここ数年、自身が成長して来た証なんだろう。
最近、ふと、大切な人を想う時、繋がっていることを感じるようになった。
この先、子供達や母親に、いつか会える時が来るだろう。
バーテンの彼女にも、いつか必ず再会するだろう。
その時が来る事を信じて、今は迷わず先に進もう。