広島県。

この地は長崎県出身者にとって特別な感情がある。逆の立場でもおそらく同じ気持ちを抱くものだろう。
松山からなら海を挟んでいるといえすぐ隣の県であるので船を使えば渡るのは簡単。

 

 

朝日はいいねえ


フェリーは松山観光港から呉港~広島港(宇品港)まで寄港するが今回は呉港で下船し乗っけてきたバイクで広島市に入るというルートでいく。
夜明け前6時20分から松山観光港を出航しほぼ2時間で呉港着。
 

元・呉海軍工廠である石川島造船所

 

 

まず目に入るのがゆめタウンてつのくじら店。呉は旧海軍工廠があったのでこういうものが多い。

 

全国屈指の個性を誇るゆめタウン


せっかくなので中も見学したが(撮影は禁止)狭い。

私の体格はかなり小柄(164cm)だがそれでも狭い。

 

深海探査艇のしんかい

 

 

頭上が怖い入り口

 

 


余談ながら高校時代の友人が海自の潜水艦乗りになっているのだがそいつは私より更に小柄で、「お前チビだから潜水艦に配属されるよ」と言っていたらその通りになったものだ。
なんでも艦内が狭苦しい潜水艦には小柄な隊員が優先的に配属されるそう。

 

 

 

ただいま改装中の大和ミュージアムの所には瀬戸内海で爆沈した戦艦陸奥の舵や主砲身が引き揚げられて展示してある。

 

 

 

それから海軍で広く用いられていた12センチ双眼鏡も展示してあったのだが…よく見ると溶接がものすごく雑。

負け込んでる時期の製造だからそれどころじゃなかったのだろうが…

 

街道は晴れていた。竜馬がゆく。岡本と藤吉が追いすがり追いすがりしながら湖畔の野を歩いた。
 

本丁筋一丁目

と聞いてピンとくる人は間違いなく司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読んだことがあるだろう。
言わずとしれた坂本竜馬生家である。

 

電車通りに面しており見つけるのはたやすい


元々は才谷屋という城下でも屈指の大商家が下級武士である郷士の株を買って武士として分家したのが坂本家の始まりだそうで、郷士ながら才谷屋の収入が197石もあり上士である馬廻格並みと相当裕福な家である。



こういう水路なんかも江戸期からあったんじゃないか

 

そこから南に少し行けば市立の竜馬が生まれた町記念館がある。

 

 

 

これは姉の乙女、竜馬、近藤長次郎の銅像。

近藤長次郎というのは竜馬の幼馴染で亀山社中に参加し第二次長州征伐で幕軍を迎え撃つ長州のために武器買い入れに尽力したが、その際の独走が遠因となって隊規に触れ切腹した人物である。

余談ながら「竜馬がゆく」におけるこの長次郎の最後の場面が好きで何度も読み返したものだ。
 

 

座敷には、饅頭屋のみが残された。その蒼ざめた顔を、頭上の無尽燈が照らしている。
(尽くるなき灯か)
と、饅頭屋は放心したように頭上の華麗な照明具を見上げた。玻璃の筒で石油のほのおをつつんだ器具で、この長崎では妓楼も商家もほとんどこれを用いていた。饅頭屋は、竜馬につれられてはじめて長崎にきたとき、この無尽燈にどれほどおどろいたことであろう。
(世界は動いている)
と、心をゆすぶられるような思いで、文明の波濤のとどろきをおもった。この無尽燈一個に象徴される西欧文明とはどういうものであろう。
「その文物に触れたい。その文物を生む母体が学問であれば、その学問をしたい」
饅頭屋は、竜馬を足がかりにして、せめて上海、できれば英国か墨夷にゆきたい、とはげしく思った。この苦学力行の饅頭売りあがりに希望の灯を点じたのは、竜馬と無尽燈であったといっていい。

 

 

家紋にちなんでか桔梗が植えてあった

この高知市立竜馬が生まれた町記念館ののち、はりまや橋近くの地下駐輪場までバイク取りに行くついでに高知駅の方まで回ってみた。

 

アーケード街

 

写ってないがもうちょっと横に長い高知駅

 

駅前にある武市・坂本・中岡の銅像


 

JRの駅として四国一しょぼい松山駅を見慣れてるとなかなか立派だ。

 

 

 

 


それから桂浜まで南下し太平洋を眺めてみる。ここにも県立の坂本竜馬記念館があり入場。
長崎にも亀山社中はじめ竜馬ゆかりの史蹟が随所にあるので長崎人にとって縁のある人物である。



 

 

「竜馬がゆく」は名文の宝庫だがラストもそうである。

 


天に意思がある、としかこの若者の場合、思えない。
天がこの国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命が終わったとき、惜しげもなく天に召し帰した。
この夜、京の天は雨気に満ち、星はない。
しかし、時代は旋回している。
若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。





ついでにあまり関係ないが、桂浜まで進出していた徳島一のキャラクター・ししゃもねこ

 


次は長崎人にとって唯一の同類といえる土地。

高知城というのは四国に四つ🏯🏯🏯🏯ある現存天守のひとつ。

 

四県にひとつずつかと思いきや愛媛県が松山城・宇和島城と二つ持ちで、

徳島だけ爪弾きされていてかわいそうになる

というか現存天守、四国に多いな

3分の1もあるなんてけっこう偏ってるよ。九州なんて一つも無いのに。

 

馬に乗ってるこのおやじが高知城を築いた山内一豊公である

 

高知城追手門。

 

この高知城を築いたは関ケ原の軍功により遠州掛川六万石から一挙に土佐一国の国持大名となった山内一豊である。

ただ、私個人としては山内一豊主人公の「功名が辻」より

長宗我部元親主人公の夏草の賦」が好きで長宗我部贔屓(それと土佐郷士)なので、山内の城見物というのはなんだかスポーツのライバルチームの試合を見物するような心境だがそれはそれで楽しめるもんである。

 

自由民権運動に勤しんでいた頃だから高知城とは直接関係ない退助

 

そして城内には乾退助の銅像もある。確か馬廻衆だったかな?

「竜馬がゆく」フリークとしては板垣でなく乾と呼びたくなるのだ。

 

 

 

 

そしてこの高知城だが、他の三城(松山城・宇和島城・丸亀城)と比較して

登りやすさが段違い。足に優しい。

他の三つはなにもあんな山の上に建てんでも…と文句の一つでもつけたくなる。

 

 

 

 

ただ、内部には現存天守でおなじみの人が転げ落ちかねない急傾斜の階段💀が存在する。もう予想つくから慣れちゃったが…

 

 

 

ほとんど平地に建ってるようなもんだから眺望は大した事なかろう、と踏んでいたもののなかなかどうしてよく見える。

 

 

それと城内には一領具足のフィギュアも飾ってあった。一領具足というのは長曾我部元親公が考案したもので、普段は農耕に従事し、田んぼの畔に一領だけの具足と槍を突き立てておりいざ陣触れとなるとその場から戦場指して駆けていくというものだ。

それで、歴とした長曾我部家の士分なのである。

雑兵、足軽など武士でなかった時代において長曾我部ではすべてが士分。

だからこそ土佐においては一種の平等意識が生まれ、それが明治からの自由民権運動に繋がっていく…のだという。

 

 

 

 

高知城から下城すると次は「本丁筋一丁目」に向かう。

どういう目的かは地名で分かってもらえよう。

 

 

ラストに特別に長曾我部元親公銅像をお見せしておこう。桂浜の方にあるので高知城からはずいぶん離れているが、そもそも高知城とは特に関係も無いのでかまうまい。正直、元親が長年の居城であった岡豊城の方がどっちかといえば…