京都の龍安寺の石庭は日本を代表する庭園だとする人もいる。水を使わず山や川を砂や岩だけで表現するという枯山水の石庭は作庭者が不明で、何を表現しているのかも不明で、様々な解釈を許す。白砂が広がる中に15個の岩が配され、虎が子供を連れているように見えるので「虎の子渡しの庭」ともされる。

 

 また、岩が7個、5個、3個と分けて配置されているので「七五三の庭」ともされ、7+5+3の和である15という数字は完全を意味するという考えがあるといい、石庭を眺めるどこからも15個の岩が一度に見えないので、完全はないとの示唆だとか、禅の精神を表現したとか、大海に浮かぶ島々を表すとか、作庭の意図をめぐって多くの推測がなされてきた。

 

 作庭者が石庭で何かを表現しようとしたのか、あるいは、広い長方形の白砂の中に作庭者の感覚でバランスよく美しく岩を配置しただけなのか、そこも不明だ。石庭は白砂と岩による抽象的な表現であり、作庭者が何かを表現しようと意図したとしても、出来上がった作品(石庭)は見る人に様々な解釈を許す。どこかの自然を模倣しただけの庭園になっていたなら石庭の人気は限定的だったかもしれない。

 

 神社仏閣を見て回るのが趣味だという友人は京都に20回以上行っているという。龍安寺の石庭は何度か見たことがあり、「いつも混んでるので人混みの後ろから見るだけだったが、1回だけ、観光客が少ないタイミングで、正面に座ってじっと見ることができた」と言い、「白砂が広がりと波の動きを感じさせ、岩が島々を連想させた」が感想。

 

 禅の精神が何かを知らず、虎が子供を連れているようにも見えなかったという友人が、石庭から禅の精神も虎のイメージも湧かなかったというのは当然か。抽象的な表現に対しては、何らかの解釈を付与する人もあり、解釈を排して、ありのままの抽象的な表現を鑑賞する人もある。解釈は人それぞれで分かれ、解釈は心情や感情などに影響される。

 

 何らかの解釈を「正解」だとするには客観的な根拠を必要とする。だが、石庭の作庭の意図を説明する資料はなく、様々な解釈が主張される状況を許している。様々な解釈は作庭者の意図を推測するものであり、石庭を見た人の感じたことが様々な解釈に発展しているが、「正解」は誰にも分からない。

 

 高尚な解釈に背を向けて友人は、作庭者が表現しようとしたのは「故郷の風景か、思い出深い風景という可能性もあるし、どこかで見た水墨画をイメージして白砂の中に岩を並べたのかもしれない」と新解釈を思いついた。石庭は自由な解釈を許すので、見る人は自由に各自の解釈を許されるし、解釈を排して抽象的な表現を鑑賞することもできる。