米国の大統領選では民主・共和両党の候補者陣営が激しく対立候補を批判する。政策の違いだけではなく、相手候補の過去の不祥事を暴いたり、過去の不適切な言動を探し出して大々的に相手を攻撃するネガティブキャンペーンを繰り広げる。時には、ファシストだとか過激な左派だとかレッテル貼り合戦になり、政策論議は添え物のような扱いになる。

 

 意見の対立は米国の政治家に限らず、おそらく世界中の人々の間で日常的に生じているだろう。そうした意見の対立が、相手への反感となって怒りへと発展し、相手の人格を否定する言動になることも珍しくないだろう。相手を否定することで自分の主張が正当化されるわけではないのだが、意見の対立が感情を爆発させることにつながったりする。相手との意見の相違を、相手の人格否定などに発展させないためには何をどうすれば良いのか。

 

 加藤周一氏は、相手との意見の相違を認識して対話・議論を進める必要と重要性を説く。批判が相手の人格否定に変わると、互いに相手を攻撃するだけとなる。当選者が1人の選挙では、相手の失点=自分の得点になるだろうが、共存を続けていかなければならない状況下では相手の否定が自分の得点になるとは限らず、相手の人格否定を行う側は周囲から冷ややかに見られたりする。

 

 「たとえば原発を作ることに賛成と反対があるでしょう。なぜ反対なんですかと聞けば、その人は反対理由を明示する。なぜ賛成なんですかと聞けば、その人は賛成の根拠を列挙する。そして、それらの返答に対するコメントが必要で、『あなたが言っている第一の理由は、事実と合わないではないか。第二は確かに合っている。第三は私もそうだと思う』などと話が展開する。そうして『何がなんでも賛成だと言っているのではなく、反対にも十分理由があると思う』などとなる。そういうことになって議論が成立する」

 

 「ただ、話の展開には一つ条件がある。意見の違いが、その人に対する攻撃になってはいけない。人に対する攻撃ではなく、意見が違っても人を攻撃しないという区別がはっきりしないといけない。それがごっちゃになるから、日本人は議論しない」「日本では、誰かの意見に反対すると、人に反対しているのだと思われる。危ないから黙っているということになります。それを何とかして除く必要がある」(「20世紀と放送」内川芳美氏との対談、1997年=『加藤周一対話集⑤ー歴史の分岐点に立って』所収。適時修正あり)。

 

 意見の対立を相手の人格否定に発展させないためには、①感情をコントロールする、②自分の意見が正しいと絶対視しない、③丁寧な言葉遣いに努めるーことが必要となる。意見の対立から相手の人格否定へと攻撃的になると、やがて対話や議論は放棄され、行き着く先は暴力の応酬にもなったりする。対話や議論の「マナー」を身につけることは共同体や社会の安定にも寄与する。