非常に偉い人の定義とは「革新的なことをする人」で、シェーンベルクの十二音階の音楽やゴッホの絵、ピカソのキュービズムとか偉い人は「全く新しい世界をつくる人だ」とするのは加藤周一氏。ただし、初めから革新的であったのではなく、伝統的な方法を短い期間で習得し、伝統の方法の中でやることがなくなって革新的なことをやり始めるのだと言う。発言を引用する。

 

 偉い人というのは早く卒業をするんだ。親父までの人たちのやっていたことを卒業しないで偉くなる人はいない。必ず伝統的な方法を経るんだけれど、ただ卒業の時期が非常に早い。たいていの人は一生卒業しないだろうけど。

 たとえば音楽ではシェーンベルク。彼の《浄夜》は初期の作品ですが、後期ロマン派の手法で書いたオーケストラの曲として完璧でしょう。彼もまた非常に早く卒業して、やがて十二音階という問題に出会う。絵画でいえばピカソですね。初期のピカソを観るとだいたい16、7歳で伝統的な技法を完全に卒業してしまう。

 モンドリアンは美術学校を出る頃にはもうオランダの伝統的な描き方で、とびきり上手な風景画を描いてた。それを崩し出してたちまち、あの抽象の時期になる(「20世紀芸術家の肖像」中村真一郎との対談=『加藤周一対話集④言葉と芸術』所収。一部修正あり)。

 

 偉い人は割に短い時期に絵画史を通過してしまう。ゴッホは、古典的な近代絵画はオランダで卒業して、パリでは当時の典型的な印象派の絵を描き、アルルに移って独創的なことを始め、我々がよく知っているゴッホの絵を描き出した(「ドイツの言語空間と文化空間」大町陽一郎との対談=『加藤周一対話集④言葉と芸術』所収。一部修正あり)。

 

 革新的な独創性は、ただ才能によるのではなく、伝統の中で成長し、伝統の中には収まりきらなくなった才能が独自の表現などを求めて活動するところに現れると加藤周一氏は指摘する。言い換えれば、才能を育む伝統が希薄なところには革新的な独創性が現れることは難しい。

 

 西洋音楽の伝統がない社会からは西洋音楽を革新する音楽家の出現は珍しく、西洋絵画の伝統がない社会からは西洋絵画を革新する画家の出現が乏しい。革新的な表現は伝統に対する反逆であると見なされやすいが、伝統の中で成長し、伝統の中に収まりきれなくなった才能によって革新的な独創性が現れるのだろう。