欧州には古くから反ユダヤ主義による偏見と憎悪が存在するとされ、ナチス・ドイツによる一連の反ユダヤ政策にならって同様の政策を実施した諸国があった。だが、第二次大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺が終戦後に明らかになると、ユダヤ人に対する同情が欧州を含む世界で高まり、反ユダヤ主義は否定されるべき対象に変わった。
現在でも欧州で、ユダヤ人はナチスによる虐殺の被害者という位置付けが前面に出るのは、ナチス・ドイツによる反ユダヤ政策を当時座視した各国の贖罪意識とも関連しているかもしれない。つまり、欧州ではユダヤ人は被害者との位置付けは強固であり、イスラエルの行動に対して欧州各国が及び腰かつ慎重な外交に終始するのは歴史的な背景がある。
欧州では被害者であり続けるユダヤ人だが、中東ではユダヤ人国家のイスラエルが行ってきたことは加害者の行動である。武力で占領地を拡大し、住んでいたパレスチナ人を追い出し、抵抗する人々の殺害を続けてきた。抵抗する人々に対する攻撃は残虐性を伴うことも多く、欧州でユダヤ人が受けてきた仕打ちに対する怒りを、パレスチナの人々などに対して爆発させているようにも見える。
パレスチナ人はイスラエル建国で、住んでいた土地から追われたり、過酷な占領地支配に苦しみ、抵抗すると容赦なく殺害される被害者である。だが、残虐な攻撃に対して残虐な反撃が生じるのは珍しくなく、パレスチナ人の抵抗は無差別にユダヤ人を狙ったりする。その結果、中東ではユダヤ人とパレスチナ人はともに被害者であり、加害者でもある状況だ。
被害者は同情され、加害者は批判される。だが、双方が被害者であり、加害者でもある場合、第三者は誰に同情し、誰を批判するか。抗争の双方が同情すべき対象だという状況で、どちらに同情するかを決めるのは政治的な判断が必要になる。同様に、何をテロとみなすかという判断も政治的な立場により異なり、占領者に対する攻撃がテロとレッテル貼りされたり、レジスタンスと称賛されたりと分かれる。
被害者には自衛権があるとされ、加害者に対する攻撃が許容されることが、双方が被害者であり加害者である時、状況を複雑化させる。双方が被害者であるなら双方に自衛権があることになり、攻撃を双方とも正当化できる。さらに、相手側をケダモノとか怪物とみなし、相手の人間性を否定することで相手に対する残虐行為を心理的に許容させたりすると、どんな行動も許されていると思い込む人々も出てくる。
被害者であり加害者でもある人々は、状況によって被害者と加害者を使い分けることが可能になる。被害者として同情を得ながら、自衛権による行動だとして加害者の振る舞いを見えにくくもできる。歴史は、世界の人々が、ある時には被害者であり、ある時には加害者であることは珍しくないと示している。被害者と加害者を使い分けるのは、よくある行動だ。