日本で、芸能界に君臨する芸能プロにテレビや新聞などマスメディアが迎合し、少しの批判をすることもできず、好き勝手に振る舞うことを許すのは今に始まったことではない。敗戦後の芸能界に君臨し、テレビ局の番組編成に大きな影響力を行使し、新聞を黙らす地位はナベプロ(渡辺プロダクション)に始まり、ジャニーズ事務所に受け継がれている。

 

 多くのバラエティー番組や歌番組を放映するテレビ局が、人気タレントを多く抱える芸能プロを批判できないのは不思議ではない。民間のテレビ局が骨のある報道機関だと見ている人は少ないだろうし、バラエティー番組を増やし、語学番組にもタレントを多く起用するようになったNHKが芸能プロに対する依存を高めているだろうことは容易に見て取れる。

 

 社会の公器ともされる新聞社は営利企業であり、新聞発行と収益確保のバランスで常に揺れている。毎日を除く新聞社はテレビ局に出資しており、テレビ局と利害を共有するほか、新聞社が発行する様々な媒体でタレントを使うので、芸能プロに気を使ったりする。例えば、ジャニー喜多川が死んだ後に発行された週刊朝日7/26号は「ジャニーさん、ありがとう!」の言葉を表紙に大きく掲げた。

 

 企業としての新聞社が記事にできないネタでも、大手芸能プロで犯罪が行われているのに取材もせず、記事を紙面化しないのは間違っていると「骨のあるジャーリスト」が社内にいたならば何らかの情報が表面化し、犯罪行為が続くことはなかっただろうーなどと思うのは高望みだ。新聞記者は会社員でしかなく、骨のあるジャーナリストが紛れ込んでいても社内で「淘汰」されるだけだ。

 

 マスメディアがジャニー喜多川の犯罪行為に沈黙したのは、芸能に対する軽視や蔑視があったのかもしれない。芸能界には枕営業が存在すると噂され、性行為と商売が絡む業界だとマスメディアが芸能界を見ていたとしたなら、ジャニー喜多川の犯罪行為も「そういう業界」の話として受け止め、無視したのかもしれない。

 

 歌の下手なジャリタレや学芸会レベルの演技のタレント、社会常識に疎いタレントらを見れば、芸能に対する軽視や蔑視が生じるのは自然なことだ。歌が下手でも演技が学芸会レベルでも「おバカ」でも露出が多ければファンがついて人気者になるタレントがいて、芸が貧弱でも芸能人とされる。そういう芸能界を大卒が大半であろうマスメディアが見下したとしても不思議ではない。

 

 芸に対する批判の不在が芸能を堕落させる。芸を真摯に見る人が少なくなり、芸を評価できる人も少ないから「芸no人」が闊歩する芸能界になったか。もしかすると芸能に対する軽視や蔑視はマスメディアに限らず、一般的なものかもしれない。人々のタレントに対する人気は芸に対する評価と大して関係ないのだとすると、使い捨てのスターやタレントに本格的な芸は必要ない。

 

 マスメディアはナベプロを批判できなかったし、ジャニーズ事務所も批判できなかった。芸能プロとテレビ局や新聞社は、タレントを使って商売する利益共同体であり、その関係は変わらず維持されている。