風評とは「世間であれこれ取りざたすること。また、その内容。うわさ」だ。風評が立つ、風評を立てられる、風評に惑わされる、とかくの風評がある人物、風評被害ーなどとして用いられる。風評に怯えるーという使い方が最近では増えた。風評に立ち向かうーのではなく怯えるのだから、風評に負けたーといえよう。風評に負けるのは、影に怯えるからだ。

 

 風評には誰も責任を持たない。ある風評を口にして誰かに不利益をもたらした人は責任を問われるだろうが、世間で言われているという風評には誰も責任を持たず、その根絶は困難だ。単なるウワサであっても、それを聞いた人々が本当らしいと思ったならば、そのウワサは定着し、定着しているから本当に違いないと、さらに多くの人々が簡単に信じたりする。

 

 そうした繰り返しで風評が社会に定着すると、風評には根拠がないとか科学的に間違っているーなどと主張し、説明を繰り返しても、風評の根絶は簡単ではない。風評は理性的な判断による思考の結果ではなく、感情による即断から生じるものだろうし、人々の心の中にある感情を外部から動かすことは、おそらく、風評とは違う方向へ大きく感情的に揺さぶることなどを行わなければ無理だろう。

 

 風評に立ち向かい、風評に負けないためには「人の口に戸は立てられぬ」と覚悟を決めることが必要だ。風評を根絶することは無理だと諦めつつ、なおも風評が間違っていることを説明し続ける。風評を信じたり、あやふやな風評に従うような人々には説明しても効果が限らようが、説明して説得するという姿勢を見せ、その風評は「間違っている」と言い続けるしかない。

 

 風評の発信源が特定されることはほとんどなく、不特定多数の人々により風評は維持されるが、風評による買い控えなどが生じると生産者などは風評による被害者となる。風評による加害者は特定できないが、風評による被害者だけが実在する状況で、被害者が怒りをぶつけようにも相手が見えず、風評被害の補償を求めて政府に怒りをぶつけたりする。

 

 風評が意図的に仕組まれて流布されることが、SNSの世界的な普及に伴って広く行われるようになった。大掛かりなのはロシアによる米大統領戦での介入などが代表例で、各国は他国で風評をSNSで流して世論の操作・誘導を試みているだろう。さらに様々な組織や機関、企業などによる世論の操作・誘導にも風評が紛れ込んでいるに違いない。

 

 我々は多くの様々な風評にさらされて生きている。SNSを遮断し、SNSがない生活には戻れまいから、風評に惑わされないスキルが必要となる。全ての情報について真贋を確認することは不可能であり、情報を見たら「疑ってかかる」という態度が防衛策となる。風評を政治的に使う中国や、風評被害を心配すると同時に吹聴しているようなマスメディアなどは、情報を見たら「疑ってかかる」ことの必要性を示している。