平和の礎(その3) | 光の世界からのギフト

光の世界からのギフト

私たちは光の世界からやってきて
この世を旅して
光の世界へと還る

(成田のタイ寺院・ワットパクナム日本別院)

今年の初詣は成田にあるタイ寺院に行きました。朝5時起きでしたが、楽しみにしていたので5分前には目覚めました。

成田空港の近くの丘を登り高原のような場所で、元小学校の廃校跡に建てられた寺院でした。

その日は少し風が強くて、ときおり土ぼこりが舞う場所でしたが、次々と他県ナンバーの車がやってきていました。

そして、屋台が並び、寄付を適当に籠に入れると、全ての屋台の食事は無料でした。初めての私に丁寧に説明してくれて

ベジタリアンの食事を数種類食べました。どれも美味でした。

本堂でのお坊さんの話が始まるので建物に入ると、色々な作法を隣の女性が教えてくれて、皆さんとても親切でした。

お坊さんのお経は目をつぶり聞いていると、言葉はわからないけれど、クラウンチャクラに響いてきました。

会場は人でいっぱいになり、立っている人達もいました。会場全体が祈りのエネルギーであつく感じられました。

日本のお寺とはエネルギーが違うと思いました。良い体験でした。

 

(沖縄は花がいっぱい咲いていました。)

 

さて沖縄旅行の続きですが、親戚のもう一人に対馬丸で遭難して生き残った父の従弟の娘がいます。

彼女は15才でしたが、学徒ではなくて同じ船に乗っていたのです。やはり筏で漂流して、4日後に救助されました。

東京の私の父親のところにたどり着いた時は、皮膚や服がボロボロだったそうです。

彼女はその後高校を出て、英文タイプを学び、色々な職業を経て成功しています。私は学生時代に横浜の彼女の家で手伝いをして、そのバイト代でドイツ版の楽譜を買ったりしました。

彼女は沖縄の歴史も学んでいたので、日本という国が琉球王国にしたことを批判していました。アメリカ人の記者と結婚したのですが、

対馬丸での遭難の際に受けた下腹部の圧迫が原因で子供が出来ないことがわかると、すぐに養女を貰いました。

クリスチャンになりマリアさんと呼ばれていました。、沖縄の弟妹の学費の援助やアメリカの若者にも奨学金の援助をしていました。

数年後に夫と共にアメリカに渡り、仕事を続け、サンフランシスコに住んで、相変わらず沖縄の若者たちへ奨学金の援助をしていたようです。

晩年になり、美智子妃殿下に対馬丸の生き残りとしてお話しする機会があり、その際は来日して、私達とも横浜で食事会をしました。

私は学生時代に彼女の夫が取材で海外にいっている時に呼ばれて、その晩マリアさんはビールを飲みながら夜明け近くまで自分の半生を語り続けました。その人生はとても波乱万丈で、「私の半生は、一冊の本になるから、あなた書いてちょうだい。」と言われたことがあります。いつもマリアさんのエネルギーに圧倒されていたことを覚えています。対馬丸の体験が彼女のエネルギーになっていると思います。一緒に教会に連れていかれましたが、ひざまついて祈る姿を思い出します。今はサンフランシスコで暮らし、92才ですが、自慢の娘や孫達に囲まれて元気なようです。マリアさんには波動の高い先祖霊と指導霊がついていると思います。

 

                (マリアさんの生まれたやんばるの森)