オニヤン留学の間には、私にはズルちゃんもいたし、マツもいたから、結構寂しくなく、楽しい大学生活を送れた。私が大学3年の時、オニヤンが帰国、赤坂ヒルトンのクラブで会ったら、お土産にスイスのペンダントウオッチをもらった。今でも持ってます。それから又時々ヒルトンのクラブや丸の内ホテルのクラブに踊りに行ってたら、プロポーズされた。母に話したら、毎日あんパン食べられてよいじゃないと!母は何時も食べ物に弱い。以前は好みの水羊羹の和菓子屋と、お見合いさせられそうだった。

ボーイフレンドの中で、オニヤンとの付き合いが16-22歳と一番長い。でもこの時も妹扱いのバデイだったから、プロポーズにはちょと驚いた。留学中オニヤンは意外と筆まめで、一週間に一回は手紙が届いた。ちょうどこの頃レダマキの父親になる同級生男子登場で、私は長いブランクのあったオニヤンより、真っ赤なトライアンフTR3に乗り、グリーンのバルキーなタートルネックのセーターを着たヨーロッパテイストの男子に、かなり興味を持ってしまっていた。のでオニヤンのプロポーズは断った。母はまだ「もったいないわ、あんパンよ!」と言っていたけれど。私、今でも、アンビシャスな結婚は好きじゃない、運命のまま流れてみたい。

車の正しい運転の仕方は、このトライアンフの子に習った、レダマキの父親ね。高速道路ではキープレフト、追い抜くときのマナーなど。基本は兄に習った。もう車が好きで好きで仕方がなかった。兄はアメ車ばかり、父はMBばかりだった。免許試験時は、障害ゆえ、普通の人の3倍の時間をかけた。

そのころ障害者免許というのは、小金井の試験場でのみとれたので、不便な場所に何度も通った。障害者は見捨てられているかと思う程、不便な東京の端っこ、古くて暗い場所だった。障害者というのは機械に挟まれて手を失った人とか、交通事故で足を失った人とかかなり凄惨。運転を生活の糧としている人がほとんどで、車が好きでなんて甘っちょろい障害者は私だけ、本当に行きたくない嫌な場所だった。目出たく免許が取れた日にはもうオニヤンはいなく、母を乗せて六本木のニコラス迄、父のMBの中で、一番小さい220Sを無断で運転して行き、サイドをぶつけて戻った。父は慌ててコロナのポンコツを買ってくれた!初めての自分の車!嬉しかった。その後大学卒業時に、コロナハードトップ・シャンパンゴールドの新車が届いて、死ぬほど嬉しかった!Remember me photoはサンオッティの伊藤ちゃんと、ゴージャスマダムG。この方は華麗なる一族のマダムなのよ!今日もブログお読み下さってありがとう。最近ネタ写真が撮れず、保存写真ばかりでお許しを!よい一日を!Mom