私の父は、別荘は持たない、ホテルステイの方が何かと快適と言い、毎年ひと夏、小学生の頃から、箱根宮の下富士屋ホテルに滞在した。母の白百合の上級生が富士屋ホテルのオーナーファミリーで、毎年長いステイを、ハーミテージという、プール近くでテニスコートも近い離れ屋を2部屋とって下さった。母と私、父と兄だった。私の十代からの夏は、同級生たちの過ごす軽井沢ではなく、箱根の富士屋ホテルでの夏だった。

兄が結婚して、兄はファミリーでステイするようになり、高校生の私は一人で部屋をもらった。兄夫婦が夜、小涌谷にある、ホテル小涌園のクラブに踊りに行くと言って、私を連れて行ってくれた。そのころ昼間はプールで水着でそのままテニスという生活だったけど、夜のディナーはセミフォーマルがドレスコード、ドレスは何枚も持って行ってた。アメリカの雑誌セブンティ―ンの真似っこで作ったドレス、ペチコート付きで踊るとヒラヒラ舞った。

16歳、初めて行くナイトクラブにドキドキしたが、アクアリウムのような造りで、周りに魚が沢山泳いでいる水槽があった。私くらいの年齢の男の子でダンスを上手に踊っている子がいた。私も兄にダンスは習っていたから、ジルバには自信があった。でもその子のダンスは4拍子、ジルバだと6拍子だけどちょっとテンポが速い。あまり私がじっと見ていたから、その子が踊らない?と誘って来た。踊ってみるとそれはバップと言い、当時流行りなんだそう。ビーバップのバップね。

私の両手をとって、障害のある左手にも驚かず、その子は楽しく私にバップを教えてくれた。次の日その子がホテルのプールに遊びに来た。大きなMBのコンヴァーチブルを運転してきた。この時高一だった私も絶対運転免許をとろうと心に決めた瞬間でした。彼は銀座のパン屋の長男で、偶然にも学校の2年上級生、そんなことから、毎夏箱根で一緒に遊ぶようになった。彼は仙石原の別荘に一人で来ていた。昼間は富士屋ホテルでプールとテニス、彼のゴルフについて回ったこともある、夜になると生意気に高校生二人で、MBで番長止め、小涌園ホテルのクラブに遊びに行った。楽しかった!
このホテルだけが生バンドの演奏だったから楽しかった。彼は4人弟妹の長男。弟妹にオニヤンと呼ばれていて私もオニヤンと呼んだ。彼は私の旧姓知野(チノ)と呼んだ。オニヤンの家は市ヶ谷高台の大きなお庭のおうち、よく遊びに行った。初めてオニヤンから誕生日プレゼントに、レイチャールズの「What’d I say」のLPをもらった!彼が大学に進級する時、オニヤンはパンの勉強にヨーロッパへ、その後アメリカの大学に留学と、4年間いなくなってしまった。この続きは明日ね、お楽しみに‼ ブログ読んで下さってありがとう。今日のRemember me photoは下級生の女傑真知子ちゃんと。大体二人とも学習院のはみ出し者同志!こんな派手な60代70代の、学習院卒はいません。よい一日を!Mom