兄(知野光志)を検索していたら、下記の兄友人のブログ(10年前)を発見‼貼り付けました。

今日は昨日と打って変わった春雨模様。夕方から九段のグランドホテルにテル坊こと知野光志君を送る会の打ち合わせで関係者5人が集まって、最後の詰をして今帰ってきたところです。

今日は夕方5時から、九段のグランドパレスホテルに関係者が集まって、テル坊こと知野光志君を送る会の詰を相談してきました。
10年来テル坊の秘書をつとめていたIさん、アリタリア航空時代の仲間でテル坊がお仲人をしたパクちゃん、テル坊の妹さんでPR業界では有名人の飯野ママ。それに僕となんちゃん計5名が集まりました。
いろいろ紆余曲折の末、会場は霞ヶ関ビルの35階東海クラブでほぼ同意、テレ坊が長年つとめていたアリタリア航空のすぐ隣りで、地の利が良くて便宜を図ってくれると言う理由からです。
これで一応奥様とご子息に提案して、ご了解を得た上で準備を進めることになりました。
予定の会期まで連休を挟んであと1ヶ月。めいめいに振った役割分担を果たさなければなりません。
では今日はこの辺で

 

湘南鎌倉病院での10日間は、私に十代の夏、湘南ビーチ生活を思い出させた。湘南行きのきっかけは、14歳離れた大学生の兄が、その頃の大ミュージック・プロデューサー小島正雄氏により「チャックワゴンボーイズ」というカントリー・ウエスタンのバンドとして世に送り出された事。学習院大学生の兄知野光志と、同級の帰国子女黒田美治の2名がギターとボーカル、貴族子爵家の井原忠高がベースと、ラーフという横浜セントジョセフスクールに通う日本生まれのトルコ人がフィドル、それにまとめ役としてスティ―ルギター奏者の曽我部博士氏の5人で結成。この5人グループ編成に当たり、まず兄は英語が話せたが、もう一人英語の話せるボーカルとして選ばれた学習院大学生の黒田美治(彼は後に、日本のカントリーウエスタン界のレジェンド歌手となる)氏は、お父上がバンカーでロンドン駐在の帰国子女、確かに英語はペラペラだったが、クイーンズイングリッシュ!アメリカンカントリー訛り英語を真似るので、一苦労していた! この兄たちのバンドは大人気となり、映画に出演したり、日劇のウエスタンカーニバルというイベントの第一回目を飾った。この先、平尾昌晃、山下敬一郎、ミッキーカーティス氏達が、後に、アメリカンロックンロールの歌手として、この舞台に登場して活躍していくことになる。兄たちのバンドは基本的には各米軍のベースキャンプの将校倶楽部に出演し、爆発的人気を誇った。このバンドのメンバーは後に、曽我部博士氏はTBSの大プロデューサーに、井原忠高氏はターさまと呼ばれ、日本テレビであの有名な番組「ミツコの窓」や「夢で逢いましょう」「ゲバゲバ」などの大番組プロデューサーに、黒田美治氏はカントリー・ウエスタン歌手として芸能界に残り、ラーフはエアラインのパーサーに、兄だけ父の意向通り、サラリーマンとして芸能界を去り、スエーデンの船会社「マースクライン」、スカンジナヴィァ航空を経て、アリタリア航空に就職した。

 

当時電車には米軍人用の2等車と、日本人用の3等車があったが、兄が基地に出入りできるパスを持っていたので、私は2等車に乗れた。ぎゅうぎゅう詰めの3等車に比べて、2等車はガラガラ、差別感一杯の公共交通機関だった。今、考えると、私のグッドラックは、この頃から始まっていたのかもしれない。この頃の話は話し出すときりがないが、兄は6歳の私に、彼らのバンドと同じ服装、ネルシャツに、ジーンズ、テンガロンハットにウエスタンブーツを履かせて、連れ歩いたし、日劇の舞台にもその格好で登壇させられたが、超赤面だったことだけを覚えている!湘南の十代話はいずれね!今日もブログお読み下さってありがとう。よい一日を!Mom

PS:どうも今日のイラストは、サインから考えると、ター様こと井原氏の手によるものらしい、ネットにあったので使ったのですが、一大発見ですわ!

上記の兄の友人のお別れ会当日のブログもアップしておきます。👇

今日は生涯の友、知野光志を送る会が霞ヶ関ビル35階の東海クラブで催され、僕は発起人代表をお引き受けすることになり、なんちゃんと一緒に行ってきました。
会場設営は、知野ことテル坊の妹さん、PRが専門の飯野ママが進行表・献花台・面影写真とパワーポイントの映像展示・テーブル配置など本職振りを発揮して手際よくアレンジしてくれました。
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事前の読み通り、100人余の旧友が集まりました。
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司会進行も、これまたプロの飯野ママの次女で故人の姪に当たるマキちゃん、凄い美人でかつ聡明です。
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まだ納骨が済んでいないテル坊、きっと「自分を送る会」をのぞきに来ていたことと思います。こんな笑顔を見せて機嫌がよさそうな面持ちでした。
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僕ももともとはイベントプロデューサーを職としていましたが、点数としては98点、2点の減点は僕がパーティーで必ず欲しがるコーヒーがなかったと言う極めて個人的な理由によります。
でもテル坊、これで文句があったら化けて出てもいいぜ。受けて立つから・・・とタンかをきりたい心境の会が出来ました。でもいつも書きますが、長生きすると言うことは、それだけ淋しい思いをすると言うことです。明日から、一層人生の寂しさを味わって生きて行かねばなりません。では今日はこの辺で