35歳で働き出して、40歳で業界10位の広告代理店へ移った。小さな会社から大きな組織に変わったばかりで、何でも素晴らしいことに思えた。

2年目の夏、忘れもしない8月12日、大阪支社から東京に出張してらした方が、私の配属された、第六営業局へ挨拶にみえた。私のいる部に以前所属してらした方だという。

爽やかでハンサムな男性だった。満席だった便にキャンセルが出て、お盆休みで帰京中の家族と、同じ便で一緒に帰阪しますと・・・・JAL123便だった。

35年前になるかしら?私が42歳の夏のある日・・・彼の乗ったJAL123便は、御巣鷹山で墜落し、彼は帰らぬ人となった。同乗されてたご家族が、地獄の惨状の中から、奇蹟的に助け出された。

この事故で逝去された方々が、恐怖の中で書いたメモを、のちに読んだ。35年前夏の悲しい思い出。私はその会社に代わったばかり、その日初めてその方にお目にかかっただけ。

話をしたわけではなく、以前の上司に挨拶に、うちの局にいらしたのだった。最初で最後の挨拶となった。のちに彼のメモのような遺書が発見された。

私の広告代理店人生で、忘れられない事と言ったらこの出来事だと思う、話をしたこともない方が、挨拶にいらして、その何時間後には悲惨な事故死、忘れられない夏の一日となった。

今年も、沢山の皆さまが、御巣鷹山へ、鎮魂の訪問をされていたが、今年はコロナでご家族だけの訪問と聞く。愛する人を失った方たちの苦しみは、35年経った今でも続きます。ご冥福をお祈りいたします。黙祷。