前回投稿(家系図の考え方)のとおり、私は、歴史を事実(確定的存在)
ではなく、解釈(価値観的理解)としています。
歴史史料は、主観的なものであり、決して客観的なものではないから
です。
ところで、「遺言書」も遺言者の意思を叙述するものですから、まさに、
主観的なものになります。残された書面は客観的存在のように見えても
現実的な存在であることを証明するすべはないと考えられます。
ところが、遺言者の死後、裁判所の検認を受ければ、それは「遺言書」
として、法的拘束力を生じる事になるのです。不思議ですね。
私達は、主観的な自己の意識の中で生きており、それを離れて考える
ことはできないと思われます。しかし、達人(例えば、禅宗の高僧等)の
中には、「自己の肉体を離れて、自分自身の姿を見た事がある。」と
言う人もいるのです。不思議なことですね。
遺言者の意思は「遺言書」にあらわされており、私は、これを出来る限り
現実のものにしたい(遺言者意思の具体的現実化)と日々考えており
ます。出来る限りとは、遺言者の遺言が、法律的、あるいは社会的に
是認しがたい場合、修正を余儀なくされる場合があるからです。しかし、
それでも、本来は遺言者意思の現実化こそ、遺言者にとっての本意で
あり、望ましい事であるはずなのです。死んでしまって、反論する事が
もはやできない者の意思は、残された史料等から、まさに解釈するしか
ないと思うのです。