松代藩士の佐久間象山という人は三才にして、「禁」という文字を書く事がすでに出来たとい

う。勿論、通常の人間にそんな事はできない。文字はおろか言葉もそう多く憶えないうちに命

が終るというのは何とも痛ましい事である。運命とはそうしたものだろうか。易の中に天雷無妄

という卦がある。私の好きな卦の一つでもある。人は地震・火山の噴火・台風等があって人間

に何か害があると「天災だ。」などと言う。しかし、自然は人間に害悪を及ぼそうと自然現象を

起こしているわけではない。だから、そもそも天の災いなどというのは本来おかしい。人間が

かってにそう思い込んでいるだけである。しかし、人が人を殺すのはそれとは違う。故意に人

を殺せば殺人であるし、過失によって死に至らしめればれば過失致死になる。いずれも犯罪

である。人が人の命を預かるというのは非常に大事なことなのだと思う。責任の重さを感じざ

るをえない。「遺言書」は民法所定の要件を充足していなければ法律効果が発生しない。しか

し、民法所定の要件を充足していないからといって意味が無いわけではない。法律効果が発

生しないだけである。意味が有るのであれば無意味ではない。無価値でもない。そもそも価値

も人それぞれで、「不用品の整理」という文言には抵抗を感じる。故人の遺品が「不用品」と言

われるのも仕方ない事かもしれないが、何とも悲しく切ない言葉である。