天壌無窮の神勅の国

1.チャイナ文化の典型的一面、それは「巨頭会談」。昭和20年のこと、重慶で蒋介石と毛沢東の会談が行われた。「重慶会談」、別名を「巨頭会談」だが実におもしろい。この年の8月15日、日本が自主的に戦闘行為を終結させ、マッカーサーが降伏文書調印に先立って厚木海軍飛行場に降り立ったのが8月30日。そして同じ日に、重慶で、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が、互いに争いを止め平和的に戦後処理を行なおうではないかと、巨頭会談が行われた。この対談は43日間にも及び、10月10日、両者は合意を成立させて協定を結んだ。「双十協定」で、日付に10が2つ重なっている日だから「双十」。

 

2.その内容は

(1) 国民党と共産党は互いに平和を希求して一切の紛争を対話によって解決する。

(2) 互いに協力しあって内戦を避け、自由で富強な新しい中国を建設する。

(3) 中国共産党は、蒋介石の南京政府を合法的指導者であると承認する。

見事な平和的解決で、国共内戦は、1927年にはじまり、なんとこの年まで悲惨な殺し合いが18年も続いていた。たったの「43日間」で事態の解決に至った。だから当時の世界も、この協定を「漸くチャイナに平和がもたらされた」と大歓迎した。ところが、この協定が結ばれた、まさにその当日に、山西省の上党地区(現長治市)で共産党軍が、同地にいた11万の国民党軍に攻撃した。この戦いは共産軍の一方的な戦いとなり、国民党軍の側は三日間の戦いで3万5千人が殺戮された。この時から、第二次国共内戦が始まる。

 

3.日本人の目からみると「では何のための協定だったの」と不思議に思える。約束といえば、条件反射的に日本人は「守る」という言葉が思い浮かぶという文化を共有している。「約束は守るためにある」と考えるし、約束は守るのが日本人の常識。それは、あくまで日本の文化がそのような文化であるからだ。いやいや西洋でも約束は守るものというルールがあるよ、と言われる。その通りだが、ここでいうルールは、じつは「支配」を意味する。彼らにとっての約束は「神の支配(ルール)を受け入れる」という意味。だから守るのはどこまでも約束したことだけ。そうでなければ、自由がなくなるからだ。たとえば「私は君の机にもう落書きをしません」と約束したなら、約束の主語は「私」であり、対象は「君」であり、場所が「机」だから、私が私以外の人に命じて落書きするのはOKとなる。また、私が君以外の人の机に落書きすることもOK。落書きが禁止されているのだから、「私が君の机の上に」、「落書き」ではないものを書くのもOK。これが構成要件該当性で、西洋の契約論には欠かせない概念だ。ところが日本の場合だと、「君の机にもう落書きをしません」と約束すれば、その本意は「落書きをしない」ということにあるから、他の児童に対しても、また机以外のものに対しても、落書き以外の何物かを書くことも、一切禁止だ。日本人にとって、約束は守るものであるということが優先されるから、約束の趣旨が重要視される。

 

4.江戸時代の金銭借用証文が、「期日に支払わなければ、人前で笑われても致し方なき候事」というこの一文だけで契約が履行されたというのは、まさにそうした日本人の「約束を守る」という日本の文化に基づく。チャイナの場合、西洋とはまた違った思考になる。彼らにとって約束は、「相手に守らせる」ためのもの。自分が約束を守る必要はない。どこまでも「相手に対してだけ」守らせるものなのだから「互いに協力しあって内戦を避ける」と取り決めたという一文は、「相手の戦闘活動を押さえ込む」という効果を持つことになる。ということは相手の攻撃力・反撃力が弱まるから、この時こそが攻撃のチャンスになる。これがチャイナの流儀。敗れた側が「あいつらは約束を破ったぁ」と言って騒ぐことは、全く問題にならない。そのように騒いでいる者がいたら、殺してしまえば済むことだからだ。秦の始皇帝である嬴政(えいせい)は、その理想のもとに強引に中原を統一し、中原初の始皇帝となったが、法に縛られる、約束を守ることを強制されることを嫌がる項羽によって秦は滅ぼされ、その項羽もまた人治主義の劉邦によって滅ぼされて生まれたのが前漢王朝。そしてこのとき以来、チャイナは上に立つ者の恣意でどうにでもなる国となり、約束が決して守られることがない国として現代に至っている。

 

5.日本人は、上古の昔から天皇という国家最高の権威をいただき、その国家権力よりもはるか上位の国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」とされてきた。これが、天子様と呼ばれた天皇と臣民との、いわば絶対の約束事となっていた。このことが守られている以上、「国家国民が宝のように幸いを得て隆(さか)えることまさに天地と共に永遠となりましょう」というのが天壌無窮の神勅だ。インドの哲学者のラビ・バトラは、かつてプラウト理論の中で、世界は

A 戦士(Warrior)の時代

B 資本家(Acquirer)の時代

C 知識人(Intellectual)の時代

が繰り返すと述べたが、このことは言い換えると、

(1) 500年続いた力の時代=植民地時代=征服社会

(2) 200年続いた商業の時代=現代商業時代=金儲け社会

(3) これから始まる知恵の時代=情報化の時代=知価社会

といった変化を想起させる。そして知価社会においては、約束事はちゃんと守られなければならない。そのために中共は崩壊しなければならないし、世界にあってはならない国ということになる。

 

6.世界はこれから大きく変わるしかわらなければならない。西欧社会にしても、これまでの力こそ正義の時代から、約束事をちゃんと守ることによって成立する商業社会へと変化した。その変化に対応できなかった中共は、いまや世界の敵となっている。そして約束事がちゃんと守られるようになるためには、ただ約束を破った者を力で叩き伏せれば良いという社会ではなく、社会構造そのものが、約束を守ることが当然の常識とされる世界になっていかなければならないことになる。それを過去において実現してきたのは、大国のなかでは世界でただひとつ、日本だけだ。このことは、これからの世界では、日本的思考、日本的社会構造が、新たな世界秩序を構成するうえで求められる中心核となっていくことを意味している。そうであればなおのこと、現代日本人は、もっと日本を学ぶ必要がある。「シラス」という概念は、日本の神語に依拠するが、この思考が常識化していくことが、まさに日本人の覚醒につながり、世界の覚醒にもまたつながっていく。それは神々の御意思であるものだ。ただし、このことを日本的価値観の強制とか、日本人による世界征服などと誤解されたら最悪だ。とりわけ西洋の人たちは、多民族の持つ価値観について、自ら学んで受け入れることには何の躊躇もしないが、他所からこれを強制されると、それこそ武器を手にして戦おうとする。その意味で、我々日本人は、日本文化の根幹を学びながら、かつ、それを他国に強要することなく物静かに、むしろ「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で謙虚に進んでいかなければならない。何故なら「正義」とは他に強要するものではないからでだ。強要すれば争いになる。それが国家規模なら戦争になる。

 

7.今どき防衛の必要は認めても、戦争を望む日本人など、どこにもいない。逆に中共やコリアは、自国の「正義」を他国に強要しようとする。その結果、彼らはいま世界中から排除されようとしている。いっときは良いかもしれないが、結果的には排除されてしまう。「正義(せいぎ)」は訓読だたら「ただしき、ことわり」だ。「ことわり(義)」というのは、条理や道理のことを言う。つまり、「正しい道理」が「正義」だ。これは、英語の「 justice (ジャスティス・公正・正義)」の語源と同じ意味だ。「正しい道理」とは、強制強要をするものではなく、誰が見ても納得できる普遍性を持ち、誰にも腑に落ちるものだ。もちろん反撃や反論もある。いま正義でないものをもって利得を得ている人たちからすれば、侵略に見えてしまうかもしれないし、徹底した「潰し」に遭うこともあるかもしれない。けれど、それでも、確りと世の中のルールを守りながら、誰が見ても納得でき、普遍性を持ち、誰の心にもきちんと腑に落ちるものをブレずに語り継ぎ、決して威張らない。この「正しい道理」のことを、別の言い方で「権威」と言う。権威は、何が正しいかを決める規範そのものだ。法でいうなら、成文法に対する慣習法だ。法より以前に、その国やその民族にとって普遍の価値を持つもののことを権威と言う。

 

8.我が国は、万世一系の天皇を国家最高権威とする国柄を持つ。かつては、その天皇の下にある国を「天下」と呼んだ。「天下」は今では「てんか」と呼ぶのが一般的ですが、昔はこう書いて「あめのした」と読んだ。「あめのした」は、天の神々の下という意味であり、同時に神々に最も近いお立場の天皇を意味する。だから「天下(あめのした)」は、天皇の下にある国のことを指す。その天下のもとに、もっとも大きな権力を持つ幕府があった。幕府は政治権力機構だ。英語でいうなら、これが「State(ステイト)」だ。ステイトは、政治体制のことを言う。幕府は権力機構だから、当然に権力には責任がついて回る。権力と責任は、常にイコールの関係にあると考えられてきたからだ。けれど、幕府の頂点にある将軍が、自ら責任をとって腹を召されたら、幕府の権力の信頼が失墜し、天下が混乱する。徳川政権のもとでは、実際に政治権力を振るう役割を老中が果たした。その老中は、小藩の藩主から選ばれたが、その理由は小藩なら、万一の際に腹を切ることになっても、天下への影響を最小限に留めることができると考えられたからだ。もしこれが大藩の藩主であれば、その影響は計り知れないからだ。こうして日本は、国家最高権威の下に、国家最高権力を置くという社会体制を続けてきた。それは、古くは太政官であったし、鎌倉以来の幕府もまた同じだ。そして国家最高権威の下の国家最高権力だから、その権力所のことを、意図して「幕府」と呼んだ。「幕府」は天皇のもとにある将軍が、出陣先で張る陣幕の貼られた仮の軍政の中心場所のことをいう。「政府」ではなく、「幕府」なのだ。いつの時代でも、権力亡者を国のトップに据えてはいけない。それが日本古来の知恵なのだ。

参考:倭塾ホームページ https://hjrc.jp/