台湾攻略を恐れた毛沢東

1.大東亜戦争後、米英の支援を絶たれた国民党は、チャイナ各地で八路軍に敗れ続け、ついに蒋介石はチャイナ大陸を追い出された。八路軍側が圧勝したからにも拘わらず八路軍は、台湾本島に攻め入らなかった。ここに日本人が関係していたが、戦後六〇年間、封印されていた史実だ。チャイナで中華人民共和国が建国宣言する二ヶ月前、金門島で国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられた。戦いは、国民党軍の完膚なきまでの完全勝利となった。この戦い以降、チャイナ共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を止めた。だから台湾はいまも国民党政権が存続している。

 

2.金門島の戦いが、当時破竹の勢いだったチャイナ共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせた。共産党軍はそこで何をおそれたのか。それが「戦神(いくさかみ)」だ。「戦神」がいたからこそ、チャイナ共産党軍は金門島ひとつを陥とすために、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖したし、以後の台湾侵攻をあきらめた。この事実が明らかにされたのは平成二〇(2008)年のことこのときの「戦神」こそ、日本陸軍の名将、根本博元陸軍中将。明治二十四(1891)年に、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村・現須賀川市)で生まれた。二本松藩は、織田信長から「米五郎左」と呼ばれて信頼された猛将丹羽長秀の直系の丹羽氏が治め、徳川将軍家への絶対の忠義を最大至上とした藩だ。戊辰戦争においても二本松藩は、最大の激戦と呼ばれる勇猛無比の戦いを行った藩としても知られている。

 

3.終戦当時、根本陸軍中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいた。八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は根本陸軍中将のもとにもたらされた。八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられた。しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もない。八月十九日、ソ連軍とチャイナ八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできた。ソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきた。激しい戦いは三日三晩続いた結果、ソ連軍が敗退し蒙古侵攻から撤収した。根本陸軍中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利した。この戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃している。しかも各駅には、予め軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていた。根本中将は「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と命令を発していた。駐蒙軍の意識は、これによって一様に高まった。

 

4.八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収した。列車は全部、民間人避難のために使っていたから、軍人たちは徒歩で退却した。途中の食料は、最早所有者のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧(かじ)った。どんなに苦労してでも、たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。強いものほど先頭に立って苦労をすることを厭わない。これがかつての帝国陸軍軍人の姿であり、若き日の父や祖父の姿だ。

 

5.昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石は、自身で直接北京に乗り込み、根本陸軍中将に面談を申し込んだ。断る理由はなく、両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決だ。はたして蒋介石は、「根本陸軍中将率いる北支方面軍とは争わない。日本人居留民の安全と無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする」と約束してくれた。チャイナでは、約束というのは相手に守らせるべきもので、自分が守る気はまったくない、というのが常識だ。だから根本陸軍中将は蒋介石の協力に感謝し「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあれば、いつでも馳せ参じます」と約束した。蒋介石側に約束を守らせるためには、こちらが強いというだけでなく、相手方へのメリットの提供が必要だったからだ。会見の結果、在留邦人の帰国事業は、誰一人犠牲を出すことなく、約一年で無事全員が完了した。こうして北支36万の日本人は、全員無事に日本に復員することができた。

 

それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
チャイナでは国共内戦が激化し、戦いは共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。

そんな折に、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で、
「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」
と語りました。

傳作義将軍は、根本陸軍中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
そのころ、チャイナ本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていました。
八路軍との戦いは、国民党側が敗退につぐ敗退をしていました。
このままでは蒋介石自身も命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢でした。

「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」
そういう李鉎源の申し出に、根本陸軍中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだとおもいました。

けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
旧陸軍士官に出歩く自由はありません。
そもそもMP(ミリタリー・ポリス)の監視付きです。
しかも無一文。
渡航費用もありません。

けれどある日、根本陸軍中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に
「釣りに行って来る」
といい残して家を出ました。
そしてそのまま台湾に渡航するための工作活動にはいりました。

 

6.結局、根本陸軍中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本陸軍中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にした。ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国した。羽田に着いたとき、タラップを降りる根本陸軍中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていた。それはあたかも、「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」といわんばかりの姿だった。中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出られた。そのときの釣り竿をずっと持っていた。どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。それは根本陸軍中将の、父として、夫としての家族へのやさしさだった。

 

7.奥さんや娘さんも偉い。ただ出ていったときと同じ姿で、まるで出かけたその日の夕方にでも帰ってきたかのように釣り竿を手に帰宅した夫に、ただいつもと同じように「おかえりなさい」と言って、夕餉を用意し、そのまま夫が死ぬまで「あなた、どこに行っていたんですか」と問うこともしなかった。軍人の妻とは、そういうものと心得ていたからと言ってしまえばそれまでだ。釣り竿を持って出ていったその日から、夫は突然、行方不明になったわけだ。奥さんはその間、子を抱えて、終戦直後という食料も衣類もない過酷な時代を、ひとりで乗り越えるしかなかった。さぞかしたいへんなご苦労があったものと思う。けれど3年経って夫が、つい今朝出ていって、まるでその日の夕方帰宅したかのように帰ってきた。その日も、それからのまる40年間も、奥さんは夫が死ぬまで、一度も夫に、どこに行っていたのか、何をしていたのかと尋ねることをなかったし、いない間の苦労を夫に咎めだてすることも一切なかったという。日本では古来、男女は対等だ。どちらが上ということはないし、支配と被支配の関係でないし、隷属の関係でも、依存関係でもない。対等ということは、男女がともに精神的に「自立」しているときにはじめて成り立つものだ。そして咎めだてしなかったということは、そこに絶対的な夫婦の信頼があったということだ。また娘さんも同様に、父を全くとがめることをしなかったそうだ。つまり親子の間にも、自立と本物の「信頼」という強い絆があった。いつの日か、根本博陸軍中将ご夫妻の映画ができたら良いなと思う。そのような映画が、上映中止に追い込まれることなく、多くの日本人の賛同を得ることができる、そのような日本にしていくことこそ、いまを生きる私たちの使命なのだ。