1.豊島沖海戦の二日後、朝鮮王朝の王妃、閔妃から、半島にいた大鳥圭介(おおとりけいすけ)日本公使に対して、
「牙山(あさん)に上陸した清国軍を撃退してほしい」という要請が出された。要請に応じなければ、半島にいる日本人に危害を加えるという。これまた、めちゃくちゃな話ですが、日本は7月29日に、混成第九旅団を牙城に立てこもる清軍の攻撃に向かわせた。現地に到着した午前2時、先に攻撃してきた清国兵によって松崎直臣(まつざきなおおみ)大尉が戦死。これが日本の明治以降における初の戦死者。応戦した日本軍はわずか5時間で、成歓の敵陣地を完全に制圧した。翌日、日本軍が牙山へ向かうと、清国軍はすでに敗走したあとだ。これを「成歓(せいかん)の戦い」といい、この戦いにおける日本側の死傷者は88名。これに対し、清国軍は500名以上の死傷者を出し、武器を放棄して平壌に逃走していた。

2.この戦いのとき、歩兵第二一連隊の木口小平(きぐちこへい)二等兵が、死んでもラッパを口から離さなかったという逸話が残っている。このお話は、戦前は尋常小学校の修身の教科書に載っていた。翌々日、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士とあわせて、合計1万2千の大軍を平壌に集結させた。日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続するが、清軍はこれに応じない。8月1日、日本は、けじめとして清国に宣戦布告文を発した。清国が朝鮮の意思を尊重して、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という布告文。ここは注意が必要なところ。我々日本人は、武道の慣習に従って、戦いというものは礼に始まって礼に終わると、なんとなく思っているが、以上の経緯に明らかなように、すでに戦いは始まっていた。そしてこの場合、宣戦布告文書は、むしろ「戦いをしないため」の警告文として発せられている。国際社会においても宣戦布告文は、開戦と直接関係するものではない。むしろ単なる外交上の脅しとして用いられたり、あるいはそもそも宣戦布告文そのものがないのが普通だ。いまの半島の北側の国など、この数年の間に日本や韓国に向けて、何度も宣戦布告をしている。しかも北と南はあくまで休戦中であって、いまなお戦争継続中だ。なんのための宣戦布告かと思ってしまうが、これまた外交戦術として何度でも出される。ドンパチをしなくても、一片の文書で済むなら安いものだ。

3.もうひとつ、これまでの経緯で注意が必要なこと。日本は、自分の国がさんざん騙されたり、ひどい目に遭わされたりしていても、それをずっと我慢し続けてきた。和と結いを大切にし、隣人と対等なおつきあいを望む日本は、どこまでも不条理を我慢し、関係の良好化を希求し続けていた。もちろん、かかる火の粉は払わなければならない。しかし、日本はどこまでも和平を願い続けていたことを、私たちは忘れてはならない。日清戦争の宣戦布告文について、ウィキペディアの「日清戦争」を開いたら、この「詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、『自国権益の拡大』を目的にした」と書いてある。どこのだれが書いた文章か知らないが、日本が国家として戦争を行ううえで、明治大帝の名で出された詔勅に対し、「名目にすぎず」と書くのは、あまりにも不敬だ。名目にすぎないかどうかは、開戦の詔勅を読んだら分かる。そこで日清戦争の「宣戦布告の詔勅」の現代語訳と原文を掲載。
(現代語訳はねず式、原文は末尾に掲載)

*******
〔清国に対する宣戦布告の詔勅〕

われわれは、ここに、清国に対して宣戦を布告します。われわれは明治維新以来20有余年の間、文明開化を平和な治世のうちに求め、外国と事を構えることは、極めてあってはならないことと信じ、常に友好国と友好関係を強くするよう努力してきました。おかげさまで諸国との交際は、年をおうごとに親密さを加えてきています。ところが清国は、朝鮮事件に際して、日本に対して、日本側の隠すところのない友好の姿勢にそむいて、互いの信義を失わせる挙に出ました。そのようなことを、私たちはどうして予測できたことでしょう。朝鮮は、日本が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国です。
しかし清国は、ことあるごとに自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮に内政干渉してきました。そして朝鮮半島内に内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で朝鮮に対し出兵までしています。私たちは、明治十五年の済物浦条約によって、朝鮮に平和維持部隊を出して治安維持をはかり、事変に備えさせ、また朝鮮半島から戦乱を永久になくして、将来にわたって治安を保ち、それをもって東洋全域の平和を維持しようと欲し、まず清国に(朝鮮に関して)協同で治安維持にあたろうと告げました。
けれど清国は度々態度を変え続け、さまざまな言い訳をしてこの提案を拒み続けました。私たちはそのような情勢下で、朝鮮には、彼らの悪政を改革して、治安の基盤を堅くし、彼らが対外的にも独立国としての権利と義務をきちんと全うすることを勧めてきました。けれども朝鮮が、われわれの勧めを肯定し受諾したにもかかわらず、清国は終始、裏にいて、あらゆる方面から、その目的を妨害し、それどころか言を左右にしながら口実をもうけて、時間をかせぎながら、水陸の軍備を整え、それが整うや、ただちにその戦力をもって、(朝鮮征服の)欲望を達成しようとして、大軍を朝鮮半島に派兵し、また私たちの海軍の艦を黄海に要撃してきました。
清国の計略は、あきらかに朝鮮国の治安の責務を担おうとする私たちの行動を否定し、私たち日本が率先して独立諸国の列に加えた朝鮮の地位を、それらを明記した「天津条約」と共に、めくらましとごまかしの中に埋没させ、日本の権利や利益に損害を与え、東洋の永続的な平和を保障できなくすることにあるといえます。清国のたくらみのありかを深く洞察するならば、彼らは最初から朝鮮はじめ東洋の平和を犠牲にしてでも、その非情な野望を遂げようとしていると言わざるをえないのです。そして事態はここまできてしまいました。われわれは、平和であることこそ国家の栄光と、国の内外にはっきりと顕現させることに専念してきましたが、残念なことではありますが、ここに公式に宣戦布告を行います。私たちは、国民の忠実さと勇武さに寄り頼み、すみやかに、この戦争に勝って、以前と同じ平和を恒久的に取り戻し、帝国の栄光を全うすることを決意します。(明治27年8月1日)
*********