『光る君へ』“傾国の中宮”から一条天皇を引き離せるか

1.大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第26回「いけにえの姫」では、一条天皇の心を、中宮の藤原定子から引き離すべく、左大臣の藤原道長が自らの娘・彰子(あきこ)を入内させることを決意。一方、まひろ(紫式部)は夫の藤原宣孝(のぶたか)と新婚生活をスタートさせるが……。今回の見どころについて、『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説。

 

2.政務をおろそかにした一条天皇が責任を痛感した理由 。一条天皇の中宮・藤原定子がほほ笑み、その傍らでは、兄の藤原伊周(これちか)が今後の政局について思案し、策を打ち出す。前回と今回の放送では「中関白家(なかのかんぱくけ)の完全復活!」という印象さえ持った。中関白家とは、関白だった藤原道隆を祖とする一族のことをいう。「道隆」の名を久々に出したのでおさらいしておくと、藤原道長の父・兼家は孫を一条天皇として即位させることに成功すると、摂政・関白となり、外戚(天皇の母方の親族)として権勢を振るった。  兼家が病死したことによって、長男の道隆が摂政となり、さらに自身の娘・定子を一条天皇の皇后に立てた。道隆は関白となり、長男の伊周を後継者として官位を引き上げていく。「中関白家」の全盛期である。

 

3.だが、道隆が病で急死したことで、中関白家は急落していく。道隆の後継者たる伊周が、弟の隆家とともに、花山天皇に矢を射るという事件(長徳の変)を起こし、妹の定子も責任をとって出家。伊周は太宰府、隆家は出雲へと流され、定子は内裏から去るという事態になった。  そんな悲惨な状況から、定子や伊周らを救いあげたのは、一条天皇である。一条天皇の定子への愛がなせる業だった。  だが、中関白家の復活にもかかわらず、今回の放送での一条天皇はなんだか疲れ切っている。地震や洪水など災害が相次いで、その責任を痛感していたからである。  というのも、当時、地震などの災害は「王道に背いた為政者に対する天の警告」だと考えられていた。この思想は紀元前500年ごろに中国の孔子が打ち出した儒教に基づいており、日本でも聖武天皇の天平年間(729~749年)ごろから広まった。  「長徳4(998)年10月、日食と地震が同時に起きた」というナレーションから、今回の放送はスタートした。不穏な空気の中、宮中では政務をおろそかにする一条天皇を問題視する声が高まることとなった。

 

4.“ふ抜け”の一条天皇を諭す蔵人頭・藤原行成  ドラマでは、気分を一新すべく改元を行うシーンもあった。ロバート秋山演じる藤原実資(さねすけ)の提案によって、新しい年号は「長保(ちょうほう)」に決定。実資が「左大臣様の世は長く保たれましょう」と言うので、道長が「帝の御代であろう」と応じると、実資の口からこんな批判が飛び出している。  「帝は傾国の中宮にたぶらかされておられますゆえ」  「傾国(けいこく)」とは「君主が心を奪われて国を危うくするほどの美人」という意味。ドラマでの状況を考えれば、定子が「傾国の中宮」と呼ばれてしまうのも、もっともなことだろう。  自分を責める宮中の空気を感じ取ったのか、一条天皇は「朕がまつりごとをおろそかにしたせいで、多く民が命を失った」とすっかり弱気になっている。だが、それでもなお定子と離れる気はないらしい。こんなふ抜けたことを言っている。  「責めを負って譲位し、中宮と静かに暮らしたい……」  これに対して、渡辺大知演じる蔵人頭の藤原行成(ゆきなり)が「ご譲位ではなく、ご在位のまま、まつりごとに専念なさるお姿を皆にお見せくださいませ」と諭しながら、取り巻く状況をこんなふうに説明している。  「さらにお上に御子なくば、東宮様の御子、敦明(あつあきら)様が、次の東宮となられましょう。さすれば、お上のお御父であらせられる円融院の御筋は途絶えます。女院様とて、それはお望みになりますまい」

 

5.「円融天皇の血筋は途絶える」の背景解説  少し分かりづらいやり取りだったかもしれない。  一条天皇は、第64代の円融天皇の第1皇子として生まれた。母は藤原兼家の次女・藤原詮子(あきこ)であり、ドラマでは吉田羊が好演。今回の放送では、弟の道長に「身を切れということよ」と娘の彰子を入内させるよう促しながら、詮子は自身の人生をこう振り返った。  「私は父に裏切られ、帝の寵愛を失い、息子を中宮に奪われ、兄上に内裏を追われ、失い尽くしながら生きてきた」  ドラマでは、兼家が円融天皇を退位させるべく毒を盛らせ、妻である詮子が円融天皇から疑われるという悲劇もあった。夫の円融天皇から愛されなかった分、生まれた一条天皇のことを大切に考えて生きてきたのだろう。  しかし、慎重な兼家が天皇に嫁がせた娘は詮子だけではなかった。第63代の冷泉(れいぜい)天皇のもとに、三女・超子(ちょうし)を入内させている。  冷泉天皇と円融天皇は兄弟で、弟である円融天皇は、あくまでも兄・冷泉天皇の皇子が成長するまでの「中継ぎ」と見られていたようだ。そのため、円融天皇の退位後は、冷泉天皇の第1皇子が花山天皇として即位。円融天皇は退位を引き換えに、自分の息子・懐仁(やすひと)を皇太子にさせている。後の一条天皇である。  だが、冷泉天皇にはもう一人、息子がいた。それが居貞(いやさだ)親王である。一条天皇にとって、居貞親王は4歳年上の従兄弟にあたる。  一条天皇が即位すると、居貞親王は皇太子となった。つまり、皇太子が天皇より年上という異常な状態の中、居貞親王は皇太子として長い年月を過ごす。  ここまで踏まえたうえで、藤原行成が天皇をたしなめた言葉を振り返ろう。「東宮様の御子、敦明(あつあきら)様が、次の東宮となられましょう」というのは、東宮である居貞親王には、敦明という第1皇子が生まれていた。そのため、一条天皇が男の子を残さないまま、皇太子の居貞親王に譲位すれば、居貞親王の息子・敦明が次の皇太子になりかねない。  そうなれば、一条天皇の父である円融天皇の血筋は途絶えて、その兄の冷泉天皇の血筋が天皇を継いでいくことになる。そのため、行成は「お御父であらせられる円融院の御筋が途絶えます」と心配しているのだ。  だが、行成が「恐れながら」と恐縮しながらも発した覚悟のメッセージは、一条天皇には届かなかったようだ。「わが御子は、中宮が産むことを朕は望む」といって、あくまでも定子との関係にこだわった。  その後も、寵愛を控えるどころか、定子を内裏に呼び寄せた一条天皇。そして、定子は第2子を授かることとなった。

 

6.念願だった一条天皇の第1皇子が誕生したが…  これには、道長としても危機感を持たざるを得ない。道長は定子に対抗すべく、長女・彰子を入内させることを決意。ドラマでは、こんな策略まで思いついている。  「分かった……中宮様が子をお産みになる月に、彰子の入内をぶつけよう」  長保元(999)年11月1日、道長はわずか11歳の娘である彰子を一条天皇に入内させたが、番組のラストでは、彰子の「裳着(もぎ)の儀」が大々的に行われることとなった。貴族の女性が成人した証に初めて裳をつける儀式のことである。  この後、史実では、入内から6日後の11月7日、彰子に女御宣旨が下される。そして、くしくもその日に、一条天皇と定子との間に第2子となる男の子が生まれることとなった。  藤原行成が記した日記『権記』では、一条天皇の喜ぶ様が描写されているが、道長の『御堂関白日記』では、全く触れられていない。藤原実資の『小右記』にも、簡単な記載があるのみで、一条天皇の第1皇子となる敦康(あつやす)親王の誕生は歓迎されなかったようだ。  とにもかくにも、これで念願だった一条天皇の第1皇子が生まれたことになる。宮中の冷たい視線の中、定子をなお愛おしむ一条天皇の姿がドラマでは描かれそうだ。  だが、間もなくして一条天皇に大きな悲しみが襲う。そのとき、まだ幼い彰子は一条天皇をどう支えるのだろうか。また、今回の放送では、道長が彰子のことを「いけにえ」と称したが、彰子と父・道長の親子関係も今後、緊迫した展開になってくるだろう。

 

7.『源氏物語』にも描かれた「正妻が灰を投げつける」シーン  もしかしたら、彰子の「裳着の儀」を見て、第2回放送「めぐりあい」の冒頭シーンを思い出した視聴者もいたかもしれない。15歳になったまひろが十二単衣を着た姿で現れて、開口一番こう言った。  「重い……」  第1回放送では、幼少期のまひろが登場したため、第2回のこのセリフが、主演の吉高由里子が発した最初のセリフとなる。彰子の「裳着の儀」と比べると、ずいぶんとこぢんまりしたもので、同じ儀式でも身分や状況によって変わってくるようだ。  彰子の「裳着の儀」では藤原詮子が、まひろの「裳着の儀」では藤原宣孝(のぶたか)が、腰の紐をぎゅっと結ぶ「腰結」(こしゆい)を行っている。「腰結」は、徳が高くて周囲から尊敬されている者が、その役を担う。第2回放送では、宣孝が「よい婿をもらって、この家を盛り立ててもらわねばのう」とまひろの父・為時(ためとき)に軽口を叩いているが、まさか自分が夫になるとは、想像もしていなかったことだろう。  宣孝とまひろは付き合いも長く、お互いの性格もよく分かっていたはずだが、それでも結婚生活となると、すれ違いも起きる。前回の記事(「『光る君へ』筆マメな藤原宣孝の猛アプローチで夫婦になるも、紫式部が新婚早々に大激怒したワケ」)で書いた通り、激しい夫婦げんかが今回の放送で行われたが、ドラマならではの展開もあった。  

 

8.宣孝が「ワシが悪かった」と謝罪し、これで仲直りするかと思いきや、「せっかく久しぶりに来たのだ。もっと甘えてこぬか」という宣孝に、まひろは「私は殿に甘えたことはございません」と反発する。  宣孝もムッとして「お前のそういうかわいげのないところに、左大臣様も嫌気がさしたのではないか。分かるなあ」と余計なことを言ったため、まひろは激高。宣孝の顔に香炉の灰をぶちまけている。  実は、紫式部が著した『源氏物語』の第31帖「真木柱」では、髭黒の大将が新しく妻にした女性のところに行こうとしたところ、最初の正妻である北の方に灰を投げつけられて、ますます心が離れていく、というシーンがある。  まひろのさまざまな人生経験が、どのように物語に昇華されていくのか──。それもまた、今後の見どころの一つとなりそうだ。 

 【参考文献】 

『新潮日本古典集成〈新装版〉紫式部日記 紫式部集』(山本利達校注、新潮社) 

『現代語訳 小右記』(倉本一宏編、吉川弘文館) 『紫式部』(今井源衛著、吉川弘文館) 

『紫式部と藤原道長』(倉本一宏著、講談社現代新書) 

『敗者たちの平安王朝』(倉本一宏著、KADOKAWA) 

『藤原伊周・隆家』(倉本一宏著、ミネルヴァ書房)

 『偉人名言迷言事典』(真山知幸著、笠間書院)