家康公ゆかりの浜松城

1.家康の時代、そこは曳馬(ひくま)と呼ばれる地で、天竜川の氾濫がひどく、水田が営めない。そこで馬を育てることが、主な産業となっていた。だから曳馬(馬を曳く)と呼ばれる地。隣には磐田(いわた)市。昔は盤石の水田地帯であったことから、その名が付いたし、中央朝廷の古くからの荘園がおかれていたところ。磐田と曳馬、地名には意味がある。


2.その曳馬を浜松と改名したのが家康。当時、岡崎に城を構えていた家康は妻の瀬名姫が、いろいろな事情があって、どうしても城に入ってもらえない。時は戦国の世でいつまでも岡崎城近くのお寺の築山脇の仮小屋で妻子に寝泊まりされていては危険だ。そこで家康は、自分が曳馬城に引っ越し、その代わりに築山御前に岡崎城に入ってもらうようにした。このとき家康は曳馬城を浜松城と改名した。理由は「浜松が枝を引き結び」という有間皇子の歌による。離れてしまった築山御前との縁を、また結びたいという情(こころ)を歌に込めた。その後、結果としては、家康は築山御前と長男の首を刎ねることになった。このことは、家康にとって、とてもつらい出来事だった。


3.後年、50歳の坂を過ぎた家康が、いまだ正妻を娶らず、また仕える美女たちに目もくれず、あまり器量の良くない農家の後家さんばかりを側室にすることを、ある人が、「どうして?」と尋ねた。すると家康はひとこと「そのようなことをすれば、瀬名が悲しむ」とそう述べた。日本の歴史は、まさにいろいろな出来事があった。けれど、その歴史は、常に深い愛に支えられた歴史でもある。

 

4.家康は、曳馬城を浜松城と改名した。理由は「磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還(かへり)り見む」という有間皇子の歌による。歌に、離れてしまった築山御前との縁を、また結びたいという情(こころ)を込めた。この歌は万葉集の中で「挽歌(ばんか)」に分類されている御歌。挽歌は、雑歌(ぞうか)・相聞(そうもん)とともに万葉集における歌の三大分類のひとつ。挽歌は、のちには哀傷歌(あいしょうか)と呼ばれるようになる。要するに悲しみの歌。

 

5.補足:有間皇子が生きた時代は、中大兄皇子が、唐に攻め込まれない日本にしていくために、かなり強引に内政改革を進めた時代。改革には、もちろん目的がある。そうしなければならないから、行われる。けれど改革は、改革によって利益を得る者もいれば、不利益を被る人もいる。そして不利益は、そのまま朝廷における立場の喪失や、財産の喪失を意味する。それだけに抵抗もまた必死で、中大兄皇子への対抗馬として、中大兄に匹敵する血筋である有間皇子を次の天皇に担(かつ)ごうとした。成功すれば反中大兄皇子派の人たちは、中大兄皇子らを粛清して、自分たちの時代を築くことができると考えた。けれども内外の情勢は、そのような内紛をしていれるような情況にない。唐という超巨大軍事帝国が、我が国への侵略を虎視眈々と狙っている。このことを有馬皇子から見れば、自分が担がれることは、イコール日本が滅びることを意味する。そこで有間皇子は、自分が担(かつ)がれないように、気がふれた様子を装(よそお)う。この御歌はその護送途中の和歌山県日高郡南部町の海岸で食事休憩となったときに詠んだ歌。取り調べによって得られる結果は二つ。ひとつは有馬皇子に謀反の心がないことが立証されて、蘇我赤兄らが処罰されること。もうひとつは有馬皇子ひとりが処罰され、蘇我氏が安泰となること。我が身の犠牲を問わない。これこそが、日本のご皇族の無私から生まれる愛の心。そして我が国の中心にある国家最高権威が、そのような態度姿勢であるがゆえに、その下にある権力機構もまた、わたしくに背(そむ)いて公(おほやけ)に向かう、「背私向公(はいしこうこう)」なのだ。