民度の高い国民とは、確りと生きる国民

1.童子教に有名な言葉「悪しき弟子を養えば、師弟ともに地獄に堕ちるべし」。樹を真っ直ぐに育てたいと思うなら、余計な枝を払わなくてはならない。これを「枝打ち」という。畑で良い作物を作りたいと思うなら、畑の雑草を丁寧に取り除く。これを「草取り」という。昭和天皇は「雑草という草はない」と仰られた。畑や田んぼの雑草のひとつひとつにも名前があるけれど、ちゃんとした作物を育てるためには、草取りは不可欠だ。このことは、企業などの集団でも同じだ。個人の交友関係でも同じ。戦後は小中学校は義務教育とされ、高校も、殆どの生徒が高校に進学する。学校が生徒を放校処分にすることは、あたかも犯罪であるかのような悪いことのように言われるようになったが、それは錯覚だ。

 

2.朱(しゅ)に染まれば朱(あか)くなる。ならば朱を取り除くほかない。そうしなければ、ちゃんとした子が育たない。では、取り除かれた生徒には、教育を受ける機会がないのかといえば、そんなことはない。戦前戦中までは、そうした生徒を積極的に受ける学校もあった。そして意外なことに、そうした「ろくでなし」とされた生徒を受け入れた学校から、著名人が数多く輩出されている。社会からどうしても取り除くことができないのならば、その人たちは一箇所に集めて、その人たちの中に責任者を置いて一定の権限を与え、集団の中にひとりでも不埒な行動をする者があれば、その責任者を処分し、集団には連帯責任を負わせるしかない。江戸時代や、それよりもずっと以前にも行われてきた方法がこの方法だ。それをしなければ、国ごと地獄に堕ちてしまうというのは童子教の教えの通りだ。

 

3.和の世界、結の世界というのは、いわば健全な社会。健康な体を作ろうとするとき、ガン細胞があれば、それは小さなものならばキラー細胞によって打倒し、大きなガンになっていたならば、外科手術で切除しなければならない。それは差別とは意味が異なる。健康と生き残りのために必要不可欠なもの。無駄な枝を払うことや草取りをすることを、差別という人もいる。しかし「差別は良くない」という思考こそ、実はトラップだ。運転免許を持たない人が自動車を運転することはできない。これは差別しているのではなく、健全な社会のためには、差別は不可欠なものだ。差別されてつらいなら、差別されない自分に成長すればよい。「差別はいけない」という発想こそ、差別主義者の思考だ。日本人の低レベル化が問題となっている。目的は、和と結を中心となす令和の世を築くことだ。そのために日本社会の大手術を行うのか。それとも、自然治癒に近い形で穏便な改革を行うのか。

後者で進めるべきことは明らかだ。けれど、日本人が覚醒しないなら、もしかすると神々は大鉈(おおなた)を振るう選択をするかもしれない。

 

4.ミンコフスキー時空という概念を図で示す。過去は人によって様々だし、未来も様々なのだ。ということは、神々が大鉈を振るう時空もあるということ。それは2025年の大津波かもしれないし、巨大隕石の衝突なのかもしれない。あるいは政治的に日本が壊れるという未来かもしれない。未来の時間軸には、神々の大鉈の前に日本人が覚醒するからそれはない。日本はひどい国だという人がいるが、先日のトラさんと売電さんのテレビ討論をご覧になられた方ならわかると思う。これまでの日本がお手本としてきた素晴らしい国であるはずの米国が、いまや最低の国になっている。

 

5.日本はいまや、世界中のVIPが憧れる国となり、またそうなろうとしている。日本を壊すということは、人類世界から良心を消し去るという選択だ。ということはつまり、人類そのものを破壊しなければならないという選択になる。現代の人類社会にとってのノアの方舟、それが日本なのだ。日本が日本でいるために必要なことは、ただひとつ。それは一人ひとりの日本人が、信用と信頼を大切にする本来の日本人であること。ただ、それだけだ。そしてそのことが、日本の円を世界最強の通貨にするし、日本を繁栄に導くし、その繁栄が安定的に継続するみなもととなる。日本人が目覚めるということは、日本人が怒ることではない。現状の問題の多さと深さに慄然とするでしょうけれど、それらはひとつひとつ解決していかなければならないことでもある。その解決のためには、民衆こそが大御宝とされる日本の国柄を常識とすることと、日本人の民度の向上が不可欠なのだ。民度の高い国民とは、ただ怒っている国民ではない。確りとと生きる国民のことだ。

*ミンコフスキー時空という概念を図:過去から未来への時間概念と空間概念との交錯