硫黄島の日章旗

1.戦い(昭和20(1945)年2月16日~同年3月26日)。大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘。日本側は、20933名の守備兵力のうち95%までが戦死。大東亜戦争後期の島嶼での戦闘において、米軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った壮絶な戦いだ。

大戦中に海兵隊に与えられた名誉勲章の、実に30%が硫黄島侵攻部隊のために与えられている。米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名した。大戦後に制定された米海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日でもある。戦没者を弔う国立アーリントン墓地の海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものとなっている。イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」という映画にも描かれた。

 

2.硫黄島の戦いが行われていた頃、米国政府は歳費を使い果たし、破産に瀕していたけれど、その膨大な戦費を民間からの寄付によってからくも調達できた。全米各地で寄付金を得るための講演活動などに使われた。さて、この旗についての実話がある。米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵隊がこの旗を奪還して、日章旗を掲げていた。米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼き、かなり時間をかけて次の星条旗を掲げた。この二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取っている。やや赤茶けた色の日の丸の旗が掲げられた。この旗も三度、星条旗に変わり、その後、日章旗に戻ることはなかった。

 

3.このときの様子を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次が『17歳の硫黄島』(秋草鶴次著)に記している。米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚した。秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞いた。翌日、摺鉢山の頂上に今度は日章旗が翻っているのを秋草は見て、感涙にむせんだと記している。

 

4.敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがあった。既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送して回る声も聞こえた。しかし壕内の日本兵は誰も応じなかった。硫黄島の戦いのあった前年(昭和19(1944)年)夏、米軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29で日本本土への長距離爆撃を開始していた。硫黄島はサイパンと日本本土のちょうど中間地点にあり、日本にとって硫黄島は日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点でもあった。

 

5.硫黄島を拠点として、日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせたり、硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」が、サイパンの飛行場を機銃掃射し、11機のB-29破壊し、8機に大きな損害を与えたりした。このことは米軍にとって脅威だ。日本からしてみれば本土防衛の拠点、米軍からみれば日本への攻撃のための拠点である硫黄島を、米軍は占領することを決定する。昭和20年になると、日本は制空権、制海権を奪われていた。硫黄島への補給は困難を極めたし、何もない島嶼において、補給困難というのは、島が長く持ちこたえられないということだ。硫黄島守備隊は玉砕戦を覚悟しての戦いとなっていた。島に駐屯しているおよそ2万人の、全員が死ぬことだ。

 

6.戦士であれば、自分が戦って死ぬのはある意味、本望だ。しかし銃後を守る婦女子や非戦闘員、爺ちゃんや婆ちゃんや、オヤジやお袋、愛する子供たちが、みすみす犠牲になるとわかっていたら、そう簡単ではない。戦うしかなかった。日本軍には、最初から戦うことを放棄するような卑劣な者は、誰一人としていなかった。だから米軍に硫黄島を絶対に渡さない。島にこもる全員が玉砕することになったとしても、その戦いを長引かせることで、ひとりでも多くの同胞が疎開し、助かるようにする。それが硫黄島守備隊のひとりひとりの覚悟だった。いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できる。いちにちでも多くの日を稼げば、多くの日本人が多くの防空壕を作ることができ、少しでも深く防空壕を掘ることができる。「そのための石杖となろう。」その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだ。

 

7.つまり、いまを生きている私たち日本人は、このとき命を犠牲にしてまで苦しい戦いを戦ってくださった父祖のおかげなのだ。そのことを深く感謝しなければならない。それは人として当然のことなのだ。そうまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を受け継いだ私たちは、今度は私たちの子や孫、そして子孫のために、やはり住みよい素晴らしい国日本を残せるように、努力しなければならない。他国と仲良くすることは、大いに結構で、外国人がたくさん日本列島にやってくることも、結構なこと。

 

8.しかし、日本を攻撃し、日本の文化を破壊し、日本の奴隷化を目論むような、とんでもない連中まで、ニコニコ笑顔で呼びこむ必要など、全くない。世界には、未だに日本と戦争をしている気になっているおかしな国がある。それらの国々は、日本だけでなく、平和を愛する周辺国、さらには自国民に対してまで、人命軽視の非道を公然とやってのけている。実際、東トルキスタンや、チベットで何が行われたか。反日教育を受けた半島人が、現にいま日本で何をやっているか。

9.この国には、私たちを守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった人達がいた。その英霊たちのおかげで、いま、私たちは生きている。擂鉢山の頂上に、翻った日章旗。米軍が建てた星条旗は、地下壕に立て篭もる日本の兵隊さんたちの貴重な水確保のためのパイプだ。そのパイプを取り返し、星条旗を外して雨水導入管として利用すれば、彼らは今宵の一杯の水を確保できたのかもしれない。しかし彼らは気温50度に達する地下壕にいて、自分たちの水より、擂鉢山のてっぺんに高々と日の丸を掲揚することを選び、実際、それを実行した。この日、米軍の掲げた星条旗を引きずりおろして、硫黄島に日章旗を高々と掲揚してくれた日本人がいたという事実を決して忘れてはならない。