日本人の強かな精神性

1.「日本ではなぜ日本でキリスト教が根付かないのでしょうか」という質問。イエズス会の布教によって、戦国時代にキリスト教に改宗した人の数は、日本の人口の1%内外であった。戦後にGHQがさかんに日本でキリスト教を布教しようとしたときにも、キリスト教に改宗した人は、やはり1%前後であったから、日本人の精神性は、昔も今も変わらない。

 

2.ちなみにチャイナでは、キリスト教の伝道師は、ものすごい成果をあげることができた。ラルフ・タウンゼントの『暗黒大陸中国の真実』に詳しいけれど、日本に来た宣教師たちは、なかなか日本人がキリスト教に改宗しないため、成果があがらない。一方、チャイナに派遣された宣教師たちは、ものすごい人数の信者を短期間に集めることができた。このため多くの派遣された宣教師たちが日本を憎み、その一方でチャイナを愛した、といったことが書かれている。チャイナで信者を集めることは簡単で、ただ教会で毎日無料でパンを配れば、チャイニーズたちは列をなしてやってくるし、それどころか、その日からキリスト教に簡単に改宗してしまう。ところが、パンがもらえないとなると、その日のうちにキリスト教を辞めてしまう。実は彼らは、ただパンが欲しいだけであって、信仰をする気など微塵もない、とタウンゼントは書いている。これに対し、日本では、なかなかキリスト教に改宗しようと言う人が生まれない。ところが日本では、実はキリスト教は、おおいに普及している。

 

3.たとえば、クリスマスのお祝いや、プレゼント、あるいは「きよしこの夜」を歌ったりすることは、日本人なら、誰でも行う。あるお寺の住職が、ずいぶんと若い美人と結婚した。お寺の住職ですから、当然結婚式も仏式で行うのだろうと思っていたら、結婚式場に設置されている教会で、神父さんを呼び、新郎は白のタキシード、新婦も白のウエディングドレスでの結婚式だ。要するに日本人は、キリスト教を拒否しているどころか、おおいにキリスト教を社会に取り入れているわけで、決して拒否しているわけではない。

 

4.仏教においても同じで、仏教では死んだら極楽に逝くと説くが、神道では死者の魂は神となってイエ・ムラ・クニの守り神となるとされる。両者の考え方は全く異なるのが、なぜか日本では神仏習合で、神様と仏様は普通に共存している。現代日本では、神仏習合どころか神仏基(基は基督教(きりすときょう)のこと)習合なのであって、そのことに疑問を持つ日本人はいない。何故このようなことが可能になるのかというと、日本古来の神道が、「道」であって、「教え」ではないことによる。受験に例えるなら、大学合格までの「道」がある。その道を歩むにあたり、受験生は良い教師に付いたり、よい教材を教わったりして、より確実な合格を目指して努力する。神道(かんながらの道)もこれと同じで、縄文以来、我々は神様になるために生まれてきたのだから、そのために必要な良い教えであれば、仏教であれ道教であれ、ヒンズー教であれ、キリスト教であれ儒教や易経であれ、良いと思われる「教え」は、なんでも採り入れる。

 

5.日本人の目的意識は、よりよく生きるようとするところにある。教えそのものは目的ではない。そこに日本的思考、日本的価値観の特徴がある。こうした文化的土壌の背景にあるのが日本神話だ。日本書紀によれば、イザナギとイザナミがこの世界を作ったのは、「豈国(あにくに)」つまり、「よろこびあふれる楽しい国」を作ろうとしたのだとある。されに言えば、イザナギとイザナミから生まれ、高天原を知らすことになられた天照大御神は、孫のニニギの天孫降臨に際して「中つ国においても、高天原と同じ統治をしなさい」と語られたと、神話に記されている。高天原というのは、全員が神々の国。その高天原と同じ統治をするということは、臣民のひとりひとりを、すべて神々の御分霊として尊重しなさいということだ。

 

6.ここから更に、我々人間は神々の御分身である霊(ひ)が本体、肉体はその乗り物に過ぎないという思考が生まれる。神々の御分霊であるのは、ひとりひとりに備わった霊(ひ)であって、肉体ではないからだ。これは、神社と神様の関係と同じだ。神社は神様のおわすところであって、神様そのものではない。言い換えれば、肉体が神社のお社(やしろ)、その神社(肉体)に宿っているのが、神様である霊(ひ)だ。だからどんな人でも大切にしなければならない。たとえ悪人であっても、罪は憎むが、人は憎んではならない。そうした日本的思考の大本になっているのが、そうした霊(ひ)の思考だ。

 

7.そして日本は、日のもとの国。日は、霊(ひ)であり、天照大御神を意味する。そうすることで、日のもとの国は、高天原と同じ統治という形を目指していることが明確になる。日のもとの国は、臣民みなが「よろこび溢れる楽しい国」を目指す国だとされてきた。政治機構も、まさにそのためにある。だから国の統治は、神々と直接つながる祭祀の長を上におき、政治の実務を司る政治の長をその下に配置した。このとき祭祀の長が、民を「おほみたから」とする。すると政治の長にとっての最大の仕事は「おほみたから」である民衆が、豊かに安全に安心して暮らせるよろこび溢れる楽しい国を築くことに焦点が絞られることになる。これを「知らす」という。人類が生んだ、最高の、そして究極の民主主義がここにある。

 

8.喜び溢れる楽しいクニ、社会、人生を実現するために、良いと思う教えなら、なんでも採り入れる。目的がそこにあるから、キリスト教を学んでいる人であっても、「踏み絵」を踏まなければ殺すぞと言われれれば、何の迷いも躊躇もなく、これを踏む。それが日本人のしたたかさであり、日本人の強さの根源だ。保守系の識者の方で「自分は世間からさんざん批判されている」と悲劇のヒーローを気取る方がいる。世の中の常識と違うことを言い出せば、それをわかっているのは自分だけだから、世間から「あんた、何言ってんの?」と思われるのがあたりまえだ。世間の常識となっていることや、誰かの二番煎じの発言をしていれば、世間からは非難されない。けれど、言い出しっぺの言うことは、その時点では誰も知らないことを述べているのだから、必ず批判されたり叩かれたりするのがあたり前だし、誰も知らないのだから、再生回数もあがらないのが当然だ。支持してくれる人がまだいないのだ。

 

9.自分のためではなく、皆さんのために始めたのなら、それは自分を捨てるということだから、自分が批判されても、それは捨てたゴミを批判されているに過ぎない。つまり、いっさい気にする必要がないことということだ。勿論、批判の声に耳を傾け、ちゃんとした批判には、それに耐えうるだけの論拠を固めていく努力は必要だ。それがあたり前なのであって、悲劇ぶるのは、自分が可愛いからだ。自分が可愛いなら、他の批判などしてはいけない。それが日本の常識だ。「韓信の股くぐり」くらい、何でもない。日本男児にとって「恥は一時、志は一生」なのだ。