『光る君へ』女院詮子 VS 中宮定子 次期関白を巡る嫁姑バトルと一条帝の折衷案

1.大河ドラマ『光る君へ』では、関白・藤原道隆の死が波乱を巻き起こした。次期関白候補は、道隆の息子である藤原伊周と道隆の弟である藤原道兼。宮中に渦巻く思惑とその顛末をみる。次期関白の座を巡る女院詮子と中宮定子の思惑 。伊周は父・道隆が摂政に就任した後に急速に出世する。道隆が摂政になった正暦元年(990)に右近衛中将・蔵人頭、正暦2年(991)正月の除目で参議に任じられて公卿の一員となると、同年夏には従三位に昇る。さらに秋には権中納言となった。そして翌正暦3年(992)には正三位・権大納言、そして正暦5年(994)には叔父である藤原道長(柄本佑)を越えて内大臣の位に就く。この時、弱冠20歳だった。 伊周だけでなく、道隆の身内贔屓が過ぎる人事は、他の公卿らの反感をかった。また、伊周はあまりにも若すぎる上に、プライドが高く人望がなかった。

 

2.ただ、伊周には強いカードがあった。妹であり一条天皇の中宮・定子(高畑充希)。この時点で2人の間に子はいなかったものの、一条帝の寵愛は深く、それゆえに伊周・隆家兄弟も一条帝の覚えはめでたかった。定子にしても、父・道隆が他の姫君の入内を阻んでいたお陰で子がおらずとも帝の寵愛を一身に受けられたことをよく理解していたし、自身の後ろ盾として兄が関白の座についてくれれば安泰だった。道隆はどうしても嫡男・伊周に関白職を引き継いでほしいと願い、病床にありながら必死で一条天皇に奏上している。執拗な求めに困り果てた一条帝は、ひとまず関白が病気の間は伊周を「内覧」の職に就けることを例外的に了承した。内覧とは関白に準じる役職で、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見ることができた。

 

3.一方、何としても伊周の関白就任を阻みたかったのが、藤原詮子(吉田羊)だ。円融法皇崩御後は弟・道長のもとに身を寄せ「東三条院」と称された。彼女にとって、亡き道隆の血筋が代々関白職を継承していくことにメリットはあまりない。そこで、道兼を推すことにした。詮子としては道長を可愛がっていたようだが、さすがにこの時点で権大納言の位にある道長を強引に関白に推すことはできなかった。その道兼は兄・道隆が摂政に就いた後、内大臣、次いで右大臣と昇進していた。道隆死去時点で伊周より上位にいたのはこの道兼だ。結局、一条帝は長徳元年(995)4月27日に道兼に関白宣旨を下す。しかし、道兼は5月8日に享年35歳で死去。在任期間が数日だったことから「七日関白」と呼ばれるようになった。『栄華物語』には、道長とは親しく、道兼の死に際して道長が深く悲しみ、葬儀に赴いたという記述が残されている。さて、こうして関白の座を巡る争いが再び勃発。しかし、今度は一条帝の心は伊周に傾いていたという。義兄弟の仲でもあるし、一条帝にしてみれば愛する定子の後ろ盾として伊周を関白に就けておきたいという思いもあった。

 

4.対する詮子が推したのが道長。なんと詮子は一条帝の寝所を尋ねて涙ながらに道長を関白に就けるよう懇願したという。『大鏡』には、東三条院で詮子の戻りを待っていた道長に対して、泣きはらした顔をしながらも「あはや宣旨下りぬ(ああやっと宣旨がくだりました)」と満足気に笑ったという逸話が残されている。道兼の死から3日後の5月11日、一条帝は道長に内覧宣旨を下した。道長はまもなく右大臣に就任し、藤原氏長者宣下を受けている。道長を関白に就けなかったのは、一条帝が母と愛妻の板挟みとなりながら苦悩の末に出した折衷案だったというわけだ。 <参考>

『歴史人』2024年2月号「藤原道長と紫式部」

『紫式部と藤原道長』 (講談社現代新書)

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