済南事件
1.日本人にとって忘れてはならない事件でネットでは「日本軍と蒋介石の国民党軍の衝突事件で、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時を含む中国人外交官・職員16名が殺害され、双方に犠牲者が出た。日中戦争以前の衝突で、中国国民の反日感情を増幅させた」といった記述が見られるが、とんでもな記述だ。そもそもこの時代に「中国人」はいない。一時期のソマリアと同じで、この頃のチャイナには、ちゃんとした行政機能を持った国そのものがない。清朝もなくなっていたし、中華民国も12年前に消滅していた。チャイナ内には暴力勢力がはびこっていた時代で、加えてこの事件で被害を受けた日本人は、居留民2,160人のうち、被害者約400人(虐殺280名、他に暴行侮辱を受けた女性30名余名、掠奪被害戸数136戸)という惨状だった。
*済南事件(さいなんじけん)は、1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蔣介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。
2.チャイナでは国民党によって嘘の宣伝がなされた結果、なるほど反日感情に結びついた事件となったが、遥かに大きな被害を受けた日本側は、それでも、チャイナの民衆が安心して暮らせる時代のために働いていた。どのような情況であったのか、当時の流れを順を追って観てみる。この事件の11年前である大正6年(1917年)にロシア革命が起きた。この後、世界を共産主義支配下に置こうとするいわゆる世界共産主義革命が開始された。当時のチャイナは、この事件の16年前の明治44年(1912年)に清朝が倒れた。この年の1月1日に、中華民国臨時政府が樹立され、南京で孫文が臨時大総統職に就任した。孫文は日本に留学して知恵を得た男。混迷する当時のチャイナで多くの信頼を勝ち得たものの、あくまで口舌大砲と呼ばれる口述の徒であって、武力、つまり暴力を持たない。チャイナの民衆にしてみれば、口舌大砲よりも、暴力集団が現実に怖い。結果、北京軍閥を取り仕切っていた袁世凱に大統領職を譲る。袁世凱に民主的大統領など興味がない。袁世凱は翌大正4年(1915年)末には「中華帝国」樹立を宣言し、自身が皇帝に収まった。つまり、袁家による易姓革命にしようとした。
3.ところがその「中華帝国」も、樹立から僅か4ヶ月、大正5年(1916年)3月には、帝政の取消し声明が出されて消滅。その後は、各地方ごとの軍閥が、地方ごとの「自治政府」を名乗る時代へと進む。これもまた「政府」とは名ばかりで、行政機能は持たない。ただの軍閥、つまりヤクザの集団でしかない。現在の中華人民共和国について、これまたネットなどでは明治43年(1911年)の辛亥革命で成立したなどと、わけのわからないことを言うセンセイがいるが、中華人民共和国の実際の成立は、日本の戦後にあたる1949年(昭和24年)だ。大正年間のこうした不穏な空気の中で、大正9(1920)年に起こったのが「尼港事件(にこうじけん)」。ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、Korean、Chinese約4千のならず者たちが、共産パルチザンを名乗って、黒竜江(アムール川)の河口にある尼港(現・ニコライエフスク)を襲った事件。この事件では、石田領事を含む約700名の日本人居留民が虐殺された。この事件において、もともとの共産パルチザンの標的は白系ロシア人たちだ。けれどニコライエフスクにいた日本人は、眼の前で白系ロシア人たちが大虐殺されていく様子に抗議し、結果、日本人居留民まで虐殺されるという事態を招いた。
4.この尼港事件で味をしめた共産パルチザンは、満州や北支方面でのゲリラ活動を激化させ、あちこちで乱暴狼藉をした。一方、昭和2年頃にの日本国内は、大正デモクラシーの影響で、日本の思想界、言論界、政界、財界、メディアとも、極端な平和主義と反軍主義に偏った時代。これには、日本が安全保障理事国を務めた国際連盟の平和思想や、欧米列強の軍縮の呼びかけなどの影響もあったものと思うし、日本に強くなってもらいたくない外国の工作活動もあった。この時代の日本は、まるで戦後のどこかの国と同じで、日本の軍隊の存在自体を悪だと決めつけるような風潮にあった。「日本の軍傭を縮少し、チャイナや欧米に対して、萎縮外交をせよ」「内需経済にこそ、歳費を注ぐべきだ」という新聞見出しが踊った。そして同じ時期、チャイナで、日本に対する露骨な排日侮日運動が行われはじめた。当時の日本には軍があったし、政友会や一部の新聞においても、満蒙の邦人擁護のために日本は軍事力を行使すべし、という主張はあった。ところがこの時代の日本は、政友会と民政党の「二大政党」の時代で、
二大政党制というのは、米国と同じ素晴らしい政治形態だと思っていたり、実際にそのような発言をする人たちがいるが、現実には今の米国と同じで、たとえば「政友会が主張することを民政党は全否定」「民政党が主張することを政友会は全否定」という形だ。この否定は本当に極端な否定で、当時の鉄道は、政友会が鉄道大臣なら駅名が全部右書き、民政党が鉄道大臣になると、それが全部左書きに変えられるといったありさまで、更に全国の交番は、政友会系交番と民政党系交番というように、各地に二つずつあった。
5.このような極端な対立関係だから、議員たちの関心は、議員としての生き残りのために、もっぱら国内の政争の行方ばかりを見ている。海の向こうの大陸で何があろうが、知ったことではない。それによって、当地に住む日本人がどうなろうが、選挙に関係ない。そんな中で起きたのが、昭和3(1928)年5月3日の「済南事件」だ。済南というのは、山東省にある商業都市で、当時、日本人をはじめ、多くの外国人が居住していた。その済南で「チャイナの軍閥同士の大規模な衝突」が起こった。日本陸軍は日本人居留民保護のために、同年4月下旬には済南に派兵した。けれど極めて少数の派兵で、しかも済南城の外にある商埠地にバリケードを築くというだけのもの。けれど日本軍は少数でも強い。だから国民党派閥の総司令であった蒋介石は「治安は国民党軍が確実に確保する。日本は(バリケードを)撤去して欲しい」と日本軍に要請してきた。治安が崩壊しているから、日本が派兵しているのだ。そんな中で、バリケードを取り去るなどということは、あり得ないことで、当然日本側はこれを拒否した。ところが日本国内にある日本政府は、蒋介石と波風を立てないように「撤去せよ」と命令してきた。こうして5月2日にバリケードが撤去された。そして事件が起こった。
6.5月3日、蒋介石の国民党軍の兵士が、満州日報の取次販売店を襲撃して掠奪を行ないはじめた。アチラの掠奪というのは、今でも同じだが、兎に角そこにあるものなら、全て持ち去ってしまうというすさまじいものだ。しかもその略奪を働くのは、下級兵士だけではない。軍の幹部から、警察官、役所の職員まで全部が、いきなり略奪をする暴徒に変わるのだ。要するに、これはいまでもそうだが、チャイナにおいては、「暴徒とヤクザと軍隊と公務員は全て同じものである」ということだ。しかもそうした連中が、武器を手にしている。ひとたび火がつけば、そこにいるすべてのチャイニーズが暴徒に早変わりする。それがチャイナそのものだ。今の日本には、多数のチャイニーズが暮らしているが、平時はまだ良い。非常時になると彼らは豹変することを、我々日本人は歴史に学ぶべきだ。済南では、暴徒たちが駆けつけた日本人の巡査にも、多数で暴行を加えた。知らせを受けた日本陸軍が救援部隊を現場に急行させると、暴徒たちは、たちまち遁走した。そして隠れた場所が国民党の兵舎だ。今度は軍として、日本軍に銃撃を加えてきた。やむなく日本軍はこれに応戦した。すると今度は、市内のあちこちで乱射や掠奪、暴行がはじまった。日本側は全体の治安維持のために、冷静に国民党軍に停戦を呼びかけた。実はここに事態の履き違えがある。その暴徒が国民党軍の軍服を着ていて、国民党の総裁の蒋介石が「責任を持つ」と約束している。その約束に基いて、日本側はバリケードを撤去している。いったん約束したら、それを最後までちゃんと守ろうとするのが日本人だ。
7.けれどチャイナでは、約束は相手に守らせるものであって、自分たちは守る必要がない。何故なら、相手を全員殺してしまえば、後からいくらで正統化できるからだ。チャイナ兵は、白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使さえも射殺した。戦時国際法も何もあったものではない。市内全域はたちまちのうちに修羅場と化し、各所で多数の日本人居留民の男女が、暴兵の手で惨殺された。この事件で、日本人女性が両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた写真などが現在でも残っている。この事件で被害にあった男性は両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなど、およそ人間のすることとは到底思えないような残酷さで12名が凄惨な殺され方をし、その他約四百余名が暴行、強姦、掠奪によって重軽傷を負う被害を受けた。ちなみに女性の写真は、間違いなく済南事件のときの新聞報道写真であり、被害者の女性も日本人、横に立っている男性も間違いなく日本人医師だが、いまの中共政府はこの写真を「日本陸軍七三一部隊による人体実験の犠牲者の写真」として流用し、さらに同じ写真を南京事件のチャイニーズの被害者として流用し、展示している。
8.この尼港事件から斉南事件までの流れについて「もし当時の日本が早期に徹底した武力を用いてチャイナの反日勢力に対して徹底的な弾圧と報復を行っていたら、事態はここまで深刻にならずに済んでいたのではないか」という意見がある。何故そういえるのかというと、同じ時期、英米仏蘭独伊などは、チャイニーズに襲われていないからだ。何故なら彼らは、たったひとりでも自国民にケガ人が出ようものなら、徹底的な反撃と打撃をChineseたちに与えていたからだ。だから彼らは、白人は怖くて手が出せなかった。更に日本だけが標的にされたのには、もうひとつの裏の事情があるといわれている。それが漢人と朝鮮族の関係だ。清王朝の時代には、朝鮮族は漢族から見た蛮族。清王朝は、一番上が満州族、次が漢族、それ以外の周辺部族は、すべて蛮族という位置づけだった。ところがこの時代、清王朝時代に下層の蛮族としてこき使われていた朝鮮族が、日韓併合によって日本人になっていた。「ウリたちは日本人だ。日本人は世界最強だ。お前たち漢族よりも偉いんだ」とばかり、漢族の家を襲撃して財物を奪い、漢族の女性を次々と強姦し、その証拠隠滅のために命を奪い、最後には被害者宅に火を付けて燃やしてしまうという事件が、チャイナ内で多発していた。そのようなことをするのは、ごく一部の不心得者で、大多数のコリアンたちは、まじめに普通に暮らそうとしていた。けれど国際社会では、たったひとりでも、おかしな行動をすれば、「○○人は」と言われてしまう。そのおかしな行動が、強姦や殺人などの凶悪犯であればなおのことだ。漢族たちも、こうした犯罪に手をこまねいていたわけではない。彼らは、徒党を組んで犯人のあぶりだしをした。すると悪事が露見して、ヤバイと感じた不逞コリアンは、そのたびに「ウリは日本人だ。チャイニーズに襲われて危険だ」といって日本の軍隊に保護を求めた。日本軍としては、形式上、彼らは「日本人」だから保護せざるを得ない。そしてチャイニーズたちの言い分も聞くのだけれど、コリアンとチャイニーズでは、言っていることがまるで違っている。結局、日本軍としては、とりあえずコリアンの身柄を保護し、チャイニーズたちには引きさがってもらうしかなかった。済南事件も、通州事件も、その原因をたどれば、不逞コリアンに行き当たる。そのことが、結果として、彼ら朝鮮族を庇護した日本軍への怨嗟となり、漢族の日本人への恨みとなって、チャイナに派兵していた11カ国の中で、日本だけが標的になるという事態を招いたという事実もある。済南事件は、日本人が、絶対に忘れてはならない事件だ。