東大総長山川健次郎

1.陸軍に山川東大総長(1854~1931)が押し掛けてきて「日露戦争に一兵卒として従軍させろ」と申し出た。地位も名誉も関係ない。国のために一命を捧げる。それだけの心で押しかけた山川健次郎に、陸軍の人事担当者は困りはてた。山川は会津藩の国家老だった山川重固の次男で、少年期の15歳に白虎隊に入隊。いよいよ戦いというとき、会津藩は健次郎を含む15歳の年少組を外した。あまりに不憫であったからだ。慶応4(1868)年8月22日、官軍によって国境の母成峠が破られた。いよいよ城下での決戦と知った健次郎の親友の家では、母、祖母、兄嫁、姉、妹の5人が、互いの首を刺して命を絶った。他の家でも同じだった。

 

2.城主の松平容保は覚悟の武士たちを従えて滝沢峠に向かった。白虎隊も滝沢口まで行ったが、ここで15歳以下の年少組は待機を命ぜらた。滝沢村での戦いは激戦となった。の飯守山(いいもりやま)で城が黒煙を上げているのを見て「城が落ちた。もはやこれまで」と、出撃した少年たちは互いの喉を刀で突き刺した。20人中19名がその場で絶命したが、通りがかった老婆に、飯沼貞吉(いいぬま さだきち)ひとりだけが助けられた。戦いに敗れた会津藩は下北半島に移封になった。会津藩士秋月悌次郎は長州藩の参謀奥平謙輔に会って、会津の少年2名を書生に使ってほしいと頼み込んだ。我が国では戊辰戦争のときもそうだし、日清日露の頃も同じで、第一次世界大戦のあとも、復員した日本の兵士たちは、決して奢ることも僻むこともなく、全力で、十代の若者なら学問に精を出し、成人者なら仕事に打ち込んでいる。このなかのひとりが健次郎で、それは会津の再建を次の世代に託そうとした心からだ。

 

3.優秀だった健次郎は、明治4年(1871)北海道開拓使の次官・黒田清隆が汽船「じゃぱん号」に乗って渡米する際に、同行を命ぜられた。このことが健次郎の未来を変えた。船が太平洋の真ん中を航海中のこと、船内に張り紙が掲示され「明日朝、本船は日本に向かって航海する太平洋郵便会社の船に出会う。日本に手紙を出したい者は用意するように」。このとき健次郎は、西洋の科学技術の凄味を実感した。サンフランシスコに到着したあと、列車で大陸を横断した。煙を吐く巨大な機関車に健次郎は仰天し「会津藩は漢学による道徳教育に偏り過ぎていたのかもしれない。科学技術を軽視したために自分たちは負けたといえる。」このように考えた健次郎は、米国内で科学技術を徹底的に学ぼうと決意した。

 

4.健次郎は名門エール大学への進学を目指し、そのためには、米国人と同等以上の語学力、会話力、読解力、知識が必要となる。語学力を身につけるため、日本人のいないところに住むことを決意し、エール大学から北に45キロほど行ったノールリッチという人口1万人の小さな町で下宿し、不眠不休で猛勉強した。時には会津を思い浮かべ、死んでいった先輩たちのためにも、これからの会津の人達のためにも、自分がここでくじけるわけにいかない。会津藩は下北半島と岩手県の県境あたりに移封になって極寒の地で土地はやせ、米もとれない。健次郎の家族もいて、手紙で、このことを知り声を出して泣いた。会津の人々の苦境を思ったら、自分は負けたり逃げたりするわけにいかない。

 

5.念願のエール大学に一発合格した。日本と米国との国力の差は、日本人の科学軽視にあると感じ物理学を専攻した。日本国内では明治新政府の財政が逼迫し、国庫が破産の危機に見舞われた。各藩が競って送りだした留学生への国費支出があまりにも高額に上るとの問題が浮上し、健次郎にも帰国命令が出された。あと一年半で卒業というところで、帰朝命令を無視しようとした。しかし経済的な問題は避けて通れない。このとき健次郎の友人ロバート・モリスの伯母のハルドマン夫人が、学資援助を申し出てくれた。条件は大学を卒業して帰国したら、専ら国のために尽すこと」。

 

6.健次郎は、エール大学を3年の最短期間で卒業した。帰国後、東京大学の前身である東京開成学校の教授補に就職した。明治12年、日本人として最初の物理学教授。明治19(1886)年、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学と名称を変更した。この大学は、文科、理科、医科、工科、法科の5つの単科大学で構成された。健次郎は明治26年、40歳の若さで理科大学長に就任した。健次郎は自分の研究で成果がでると、その成果を惜しげもなく弟子たちに譲った。そのため、いつのまにか弟子のほうが有名になることがよくあった。手柄など誰のものであっても良い。自分の研究成果がその人の成功体験となって、学問の普及促進に拍車がかかるなら、そっちのほうがはるかに望ましいことだ。

 

7.こうして山川健次郎の弟子として、物理学者の田中館愛橘(たなかだて あいきつ)や長岡半太郎、そしてその弟子にはノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎などが陸続と輩出されるようになる。明治34(1901)年、健次郎は48歳で東京帝国大学総長に就任した。薩長政権下において、朝敵となった会津藩から最高学府の総長が就任した。異例のことで、旧会津藩の関係者たちは、健次郎の就任に涙を流して喜んだ。日露戦争のあと、東京帝国大学の教授処分をめぐって、文部省と帝大が衝突するという事件が起きた。それが「七博士事件」。東京帝大教授戸水寛水をリ一ダーとする七博士が、時の宰相桂太郎に、対露即時開戦論を建議し、奉天戦後には、ロシアに対してバイカル湖以東の割譲を要求しろと主張した。当時のメディアは、戸水教授らをバイカル博士と褒めあげて喝采した。しかし実際にはこのとき日本軍は疲弊しきって、戦闘を継続するだけの余力は残っていなかった。政府は文部省を通じて東大に7教授の処分を求めた。世論もようやく「対露強硬論」がいかに空論にすぎなかったかを理解した。七博士の言論は、勇ましいけれど中身がない空理空論にすぎないものであったことが世間にも知れた。東大総長であった健次郎も、戸水教授ら7博士の意見に反対した。しかし学問の自由を守ることと、意見の対立は別な問題。健次郎は城を大学に、刀を信念に置き替えて文部省を相手に戦い、一歩も引かず、ついに7博士の処分を聞き入れなかった。そして事件解決後、健次郎は全ての責任をとって東大総長を辞任した。教授、学生などは東大全学をあげて、健次郎を慰留した。総長としての健次郎の勇気ある行動に、誰もが共感した。しかし東大教授ともあろう者が、軽々に世論の誘導に乗って国運を衰亡させることなど、あってはならないことだから健次郎は、東大総長として一切の責任をとった。

 

8.東大総長を辞任した健次郎に、貴族院議会から声がかかった。こうして健次郎は51歳で貴族院議員となった。そして58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び東京帝国大学総長に就任。このときも、九州帝大の学生たちが総立ちになって健次郎の慰留をした。彼が信望を集めたのは、彼の教育への情熱ばかりではなく、彼の持つ厳しさ、清貧、学生たちへのやさしさにあった。健次郎の娘は、彼を評して「それは厳しく神にも等しい人でした」と語っている。

健次郎は、その後61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4(1915)年に男爵となり、昭和6(1931)年6月、恩師である長州の奥平謙輔の書が飾ってある自宅で永眠した。享年77歳。ひとりの人間の成長には、多くの人の支えと、歴史がある。人はひとりで生きているわけではない。それぞれの家や郷土、故国の歴史の中に生き、友や仲間に支えられて生きている。そういう自覚こそ人を育てるものである。