●わが道の光(4)●<創世記19~23章> | いこいのみぎわ

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牧師であり家庭教師である摩周遍里の、ときにまじめに聖書的、ときに脱線して、飼い犬のユテコくんも笑い出す、つれづれブログです。

●わが道の光(4)●
<創世記19~23章>


 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。」(18:20)……アブラハムの必死のとりなしにもかかわらず、ソドムとゴモラは滅ぼされます。アブラハムの甥のロトの家族は、滅ぼしに来た天使たちによって守られ、ツォアルという町まで避難しましたが、「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(19:26)のでした。
 ロトがソドムとゴモラから救い出されたのは、ただ神様の憐れみにほかなりません。神様によって、私たちもまた、どこから救い出されたのかを知らなければなりません。けれども、ロトの妻は救い出された元の罪の世界を凝視したのです。それは、元の罪の世界を慕って戻ってしまい、自らに滅びをもたらす危険を伴っていました。私たちもまた、何に目をとめて生きるのかが問われます。私たちが何に目をとめているかが、私たちの未来を決めるのです。
 21章で、ついに約束の子どもイサクが誕生しました。アブラハムは、そのとき百歳でした。アブラハムとサラのまわりは、喜びの笑いで満たされたのです。
 けれどもそれは、アブラハムが女奴隷ハガルによって生ませたイシュマエルが、世継ぎの子の権利を失うことも意味しました。ハガルとイシュマエルは、アブラハムのところから出されることになります。砂漠をさまよい、皮袋の水は尽き、イシュマエルの命も尽きようというそのとき、神の使いはハガルに言います。「恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。」……神様が聞かれたのは、泣き叫ぶ母親ハガルの声よりも、瀕死の状態で声も出なかったイシュマエルの「声」でした。あなたが苦しんで、祈ることもできないそのとき、神様はあなたの心のうめきを聞き取ってくださいます。
 そして、アブラハムに生涯最大の試練がやってきます。「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(22:2)……それはまぎれもなく神様の声でした。でも、神様からのものと思えない、そして父親として受け入れがたい要求を、神様はアブラハムにしたのです。
 その要求に、不思議なくらいアブラハムは淡々と従っていきます。そしていよいよイサクに刃を突き立てようとしたそのとき「その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(22:12)と、神様はストップを命じたのです。
 アブラハムとイサク、そして、父なる神と御子イエス・キリスト……イサクをささげる場面では、これら二つの親子関係がオーバーラップするのです。アブラハムはイサクを殺すことをストップされましたが、父なる神様は「自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないで」、人類の救いの計画のために御子イエス・キリストを十字架につけられたのです。
 妻サラが亡くなったとき、アブラハムはその墓のための土地を通り相場で買い求めました。本来その土地も含めて、広大な土地がアブラハムとその子孫のものになると約束されていたのに、アブラハムが生きている間に手に入れた土地は、そのマクペラの墓の土地だけでした。「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)



◎今週のQT……創世記22章
・なぜ、アブラハムは神様の命令に淡々と従うことができたのか?……ヘブル11:17-19をあわせて読みながら、考えてみよう。
・「神への従順」「不可能を信じる」というテーマで、アブラハムの体験とご自分の体験を比較してみよう。そして、何が今ご自分に神様から求められているのかを考えよう。



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