. 2
木下香奈です、と少女は沓脱ぎ場で改めて丁寧にお辞儀をしてみせた。小学五年生で、父親は技術職で夜遅く母親もパートタイマーで夕方まで働いている。一人っ子の香奈は学校が終わり日が暮れるまでのあいだ、いつもひとりきりなのだという。
とても裕福な家庭なんだな、というのが桜が感じた最初の印象だった。玄関の床は大理石でできており、沓脱ぎには置き石がしてある。ホールには待ち合いのための椅子がいくつか置かれており、その脇の台には高価そうな花器に生け花が挿されていた。とても一般の家庭では行き届かない品々ばかりだ。
「見てみろよ、あの絵はシャガールじゃないか?」
嘉神が平坦な声で真山に呼びかける。
「え、ああ、そうみたいだね」
真山の反応は鈍い。きっとあの絵がシャガールの作品であることを知らなかったんだろう。
「それより嘉神先生、勝手に上がり込んで、まずいんじゃないですか?」
「香奈さんがいいっていってるんだから、だいじょうぶじゃない? 僕たちが何か悪さをするつもりなら別だけど」
桜は頷いてみせたが、やはり家主の了解を得ないで家の中に上がり込んだことに、少々の申し訳なさを感じた。
応接室のようなリビングは、綺麗なフローリングで、床には傷ひとつないほど手入れが行き届いている。中世のブルジョア階級のようなたたずまいだ。ソファの後ろに鎮座している年季の入った飾り棚の上には、ゴシック調で揃えられた調度品が平然と並べられていた。そのソファーにしても、そこらのインテリアショップで買ったものではないと一目でわかる形状だ。特注ものかもしれない。音楽のト音記号を思わせるような形をした背もたれに、緩やかなカーブを描いたクッション、肘置きの角も背もたれに合わせて流れるフォルムを演出している。
そこに座ってくださいと言われ、そのソファーに桜は腰を下ろしたが、触れたお尻がむずむずして一向に落ち着かない。これがお金持ちの家なんだなあ、と場違いな居心地の悪さを感じた。
一方で嘉神はそんなことはまったく気にするようすはなく、桜の隣にどかっと座り、背もたれに重心を乗せながら肘置きにもしっかり腕を乗せて背を伸ばしている。真山はまだ突っ立って周囲の調度品に視線を巡らせていた。。
部屋の奥にアップライトピアノが置かれ、その壁面には、抽象画が額縁にいれて飾られている。座っているソファーの正面の壁には大きな水槽が壁に沿うように置かれており、ビー玉の敷かれた底面から伸びる水草のあいだを、赤や黄色の熱帯魚が尾ひれを振りながら優雅に泳ぎ回っている。
「こりゃすごい、豪邸だ」
真山の率直な感想に、そんなことないです、と少女が恐縮そうに両手のひらを胸の前で振ってみせるが、きっとこの光景を見せられたら誰でもそう思うだろう。
「それで、猫の写真はあったのかい?」
嘉神が背もたれに腕を置き直しながら、ローテーブルの隣に立っている少女に訊いた。
「あ、はい」
そういって少女はポケットから携帯電話を取り出し、フラップを開いた。素早い手の動きでいくつかボタンを押して操作し、嘉神と桜の前に差し出した。
嘉神がそれを受け取り、ディスプレイに表示されている画像を見る。横から桜もそれを覗いた。
「かわいいね。まだ仔猫なんだ」
と嘉神は感想を口にした。それは室内ではなく外で撮られた写真のようだった。斜め上からのアングルで撮られた写真の中で、猫はしゃんとした姿勢でこちらを向いて静止している。目と耳の部分の毛は黒く、鼻の頭から口元を覆う部分の毛は白いため、その模様は色褪せた公孫樹の葉を思わせる。
「なんていう名前なんだい?」
真山がいつのまにかソファーの後ろから覗いていた。
「あ、えーと……マロンです」
「ふーん。マロンちゃんはいつもお外に出て行くの?」
たしかにかわいいのだが、この家の豪勢な雰囲気とは少々似つかわしくないようにも思う。すこし泥をかぶった柔らかそうな茶色の布(毛布の切れ端かなにかだろうか)の上で、土埃にまみれたようすで映っていた。室外で遊び回った後なのだろうか。その周囲は砂利で、写真の端に赤い材木が見切れている。
「はい……けっこう、家から遊びに出て行きます」
しかし、これじゃまるで――。
「なるほど、それで……」
とは嘉神の声だ。
少女は緊張しているのだろう、回答は途切れがちだった。大人を三人も家にあげたことを早くも後悔しているのではないだろうか。
「ねえ、香奈ちゃん、猫がいなくなったことは、お母さんも知ってるの?」
桜は思い切って訊いてみた。
「……知らない、と思う」
「お母さんには相談してみた?」
香奈は首を横に振った。
「じゃあ、お母さんにまずは相談し――」
「だめ! お母さんに相談したらだめなの」
桜の言葉を切るように、香奈が顔を上げて言った。
「え、どうして……」
少女は少し黙った。それから独り言のようにつぶやくように言った。
「……ママなんか……ママが死んじゃえばいいのに……」
その言葉にぎょっとし、桜は何も言えなくなった。
「ところで、これはどこで撮った写真かな?」
嘉神が淡々と違う話題を香奈に向ける。
近所にあるN神社です、と少女はまるで先生に怒られたときの生徒のような、拗ねたふうな声で答えた。
「なるほど。そこで猫が遊んでいたときのものなんだね?」
そう言って嘉神が香奈を見て黙る。少女は答えない。
室内はしばらくのあいだ水を打ったように静まりかえった。水槽のエアーポンプのモーター音が次第に耳に響いてくる。
桜は少女の不安定なようすに、心が痛んだ。飼っていた猫が外へ飛び出していき、三日も帰ってこないとなると考えられるのは、何らかの理由で道に迷ったか、あるいは事故にあったかだろう。そして少女は後者の可能性もきっと頭の隅で考えている。少女は対面のソファーには座らず、ずっと嘉神の斜め前に立って、お腹の前で手を組んでいる。その立ち姿は、なにかに祈っているようにも見えた。
と、嘉神が唐突に視線をあげて、室内を見回した。そして、うーんとうなり、物思いに耽るように中空をいくらか見つめてから、香奈のほうにゆっくりと向き直った。
「よし、じゃあこの仔猫を探してあげよう」
「あ、ありがとうございます。それで、お金のことなんですけど……」
「いや」嘉神が右手のひらを見せて、制した。
「心配いらない。特別サービス、無料でいいよ。その代わり、」
嘉神が人差し指をぴんと立てて言った。
「仔猫が見つかったら、質問に答えてほしい」
少女が、一瞬きょとんとした表情になった。
「僕が猫を見つけてきたら、僕の質問に必ず答えること。いいね?」
香奈は疑問と不安が綯い交ぜになったような表情を数秒浮かべ、そのままゆっくり頷いた。
. 1
ドアの覗き穴から訪問客を見やると、ダッフルコートで着ぶくれした真山が、肘を抱いて突っ立っていた。
――なんだ、真山か――
お客ではなかった。真山は先生の旧友のひとりで、いつも忘れた頃に訪ねてくる。しかしここ軽井沢の事務所まで尋ねてくるのは初めてだった。
桜は玄関のドアをあけた。まだ高くない太陽が目に眩しい。
「あ、桜ちゃん、おはよう。嘉神《かがみ》、いるかな?」
だいぶ寒かったのだろう、上着の肩に雪を積もらせた真山の声は、震えを隠さない。
「いるのはいるんですけど……いま、ちょうど、えーっと、お客さん、と話し込んでるところなんですよ……」
と桜は少々面倒くささを声に含めてみたが、
「おかしいなー、嘉神には今日訪ねるって言っといたんだけど。急な来客かな?」
真山にはそれが一切伝わっていないようだ。なるほど、一応のアポは取ってあるのね、と桜は久しぶりに真山に感心した。
おー、さぶ、と真山は言って口の端を下げ、ちらっと桜のほうを見た。
「じゃあ、リビングで待ちます?」
桜は笑顔を貼りつけた顔を真山に向けると、真山は、忙しいときにごめんね、と言って玄関に入ってくるのだった。
「そういえばお土産を買ってきたんだった」
と、真山が右腕にかけていたコンビニ袋を桜に差し出した。ありがとうと言って中を覗くと、カップ入のアイスクリームが三つ。雪の降るなか買ってきたお土産が冷たいアイスクリームとは、真山はやはりちょっとずれている。桜は顔がひきつらないように注意してにこやかにお礼を言った。
真山をリビングに通して紅茶を淹れてあげると、しばらくして廊下から玄関へと向かう足音が二つ聞こえ、嘉神が客に挨拶する声が聞こえた。その声が途切れたのを見計らって桜は嘉神を呼びに行った。
「おお、真山くん、お久しぶり。元気だったかい? しかし、よくこんな山奥まで来てくれたね」
くすんだ色ののセーターに地味なチノパンという出で立ちだが、嘉神が着るとなにかしら上品に見えるから不思議だ。すらりとした体型と整った顔立ちが影響しているのだろう。桜はキッチンへ向かい、三人分のコーヒーを淹れる。
嘉神は軽井沢と文京区に事務所を構えているのだが、なぜか極寒の一月から三月にかけて毎年、軽井沢の支所に詰めている。理由を本人に訊ねても、いつもごまかされるのだ。彼の性格は、その髪の毛といっしょで少々癖がある。
「ここ、近くにスキー場がそろってるでしょ? 最近ウィンタースポーツに凝ってて、雪山を滑ろうと思ってね。宿を一泊とってあるんだよ。それでついでに旅行がてらに旧友の顔でも見ていこうかと」
真山が背を伸ばしながら言う。
「へえ、作家は時間に融通が利いていいねえ」
仕事がないだけだよ、とソファーに座った真山が謙遜したような言葉を返したが、おそらくそれが事実なのだろう。真山の名前が小説雑誌に出ているのはほとんど見たことがない。
桜は真山の前にコーヒーカップを置き、次いで嘉神の前に置いた。自分の分は嘉神の横に置く。
「で、さっきの客は、どんな依頼だったんだい?」
「捜しものさ」
へえ、と真山がわかったのかわからないのか判然としない調子で言い、カップに口をつけた。
「で、なにを探してほしいんだって?」
「猫、だよ」
「猫?」
「そう、猫。まだ仔猫なんだってさ」
「へえ、そんな仕事も受けるんだね」
真山の声はあどけなくも聞こえるから不思議だと、桜は思う。
「嘉神のことだから、もっと大きな依頼を受けてるのかと思ったよ」
「この辺りは平和だからね。身辺調査や浮気調査なんて全然ないよ。殺人や強盗はおろか泥棒すら、私がここに事務所を開いてからは一度もないんじゃないかな。なあ、桜くん」
「ええ、そうですね」
桜が『嘉神研一総合解決事務所』に世話になるようになったのは、嘉神が二十八で、彼女が十八のときのある事件がきっかけだった。その事件で、桜は嘉神に命を助けられたといっても過言ではない。身寄りのなかった桜は、嘉神のもとで働かせてもらえないかと頼みこんだのだ。自分の事務所では給料がまともに払えるかわからないと、最初は言下に断られた。しかし必死の願い出で、嘉神を押し負かすようにして勤めさせてもらえることになったのだった。
桜の主な仕事は書類の整理や、掃除、お茶汲みなどの雑用だが、仕事の片端をやらせてもらえることもある。
『総合解決事務所』と言う名称に、桜も最初はとまどった。
相談ごとはできる限りすべて引き受け解決に導く、という趣旨の事務所方針を表わしたものらしいが、なぜそんな事務所を開設したのかは嘉神自身にしか知るよしはない。
依頼の種類はさまざまだ。しかし東京の事務所ならさておき、軽井沢の支所で受ける依頼は迷い猫や迷い犬、つまり迷子になったペット探しがほとんどだ。猫や犬といった動物から、蛇やトカゲやカメレオンまで、いままで様々な動物を桜は捜索してきた。なかには「飼っていた蜘蛛を探してほしい」というおよそ理解しがたい依頼もあったが、さすがにそれは嘉神が断った。どうやって飼われていた蜘蛛を識別したらいいのかわからなかったから、というのが理由である。区別できるのなら探すつもりでいたという嘉神にはぞっとしたが、蜘蛛嫌いの桜はほっと胸をなでおろした出来事だった。
「それで、その捜索は受けることにしたの?」
真山が淡々と聞く。
嘉神は、もちろん、と言ってコーヒーを一口すすった。
「ただ、迷い猫の依頼をしにきたというのに、その猫の写真を家に忘れてきたらしいんだよ」
それで依頼者は急いで家にとって返ったということだった。
「また来てもらうには忍びないから、いまから依頼者の家に向かうことにしたんだけど、せっかくだし真山くんも付き合わないか? 小説のネタにでもなるかもしれないし。なに、歩いて五分くらい、依頼主の家はすぐだよ」
真山は、そうだなあ、と面倒くさそうな表情を浮かべたが、その声からは好奇心があふれているようすがありありと伝わってきた。この男なら本当に小説のネタにしかねない。
「よし、決まりだ。二宮くん、もちろん君もいっしょだぞ」
はい、と言って桜は軽く弾む気持ちを抑えながら首を縦に振って立ち上がり、コートハンガーにかけた黒のコートをとって嘉神に渡した。
依頼者が嘉神の事務所の存在を知ったのは、以前にこのマンションの前を通ったことがあったかららしい。マンションの前に『嘉神研一総合解決事務所』と矢印の書かれた申し訳程度の小さな看板が立てられている。風の噂でここが『何でも屋』のようなところだということを依頼人は耳にしたことがあったそうで、それで思い切って相談してみようと事務所を訪ねたのだという。
軽井沢のペンションが点在するだけの、およそ人けのない丘の一角にそびえるマンションに事務所を構えているため、客足は少ないが、ひとつの仕事が片付くころにはきちんと新しい仕事が舞い込んでくる。
今回も、あるオーナーから受けた留守中のペンションの掃除という仕事を終わらせたところにちょうど入ってきた仕事だった。
しかし……――。
桜は、依頼者の身なりにちょっと驚いた。
来客を応対したのは桜だった。いらっしゃいませとお辞儀をしてスリッパを勧め、廊下を先導し、応接室のソファーに座ってもらい、桜は嘉神を書斎に呼びに行った。書斎は応接室と開き戸で隣接している。ノックして、先生、と呼びかると嘉神はすぐに出てきた。どうやら客の存在には気づいていたらしい。が、客を見るなり、嘉神も首を突き出した。そして、桜のようすを横見でちらりとうかがったのだった。
マンションの玄関を出ると、さっき真山が来たときよりも雪が強くなっていた。桜はコートの襟を両手で絞る。
「猫がいなくなって三日が経つらしい」
白い息を吐きながら、嘉神が言った。
「なにもこんな寒い中、外に飛び出さなくてもいいのにねえ」
雪道を踏みながら、真山はあいかわらず暢気な調子だ。
が、雪道を歩くのはなかなかの重労働で、依頼者の家にたどり着く頃には桜はうっすらと汗をかいていた。真山や嘉神のほうを見ると、顔に少々赤みが差し、家を出たときよりも吐息の白が濃くなっている。
「……この手の依頼主は、私が出るより、二宮くんが出てもらったほうがいいかもしれないな」
門柱にあるインターフォンを押してから嘉神が言った。桜は頷いてインターフォンに向き直った。あまり気が進まなかったが、男性よりは幾分話しやすいだろう。
「……はい」
「あ、嘉神総合解決事務所のものですが……」
「あ、はい、開いてますから、玄関まで来てください」
どうやら依頼人本人が出たようだった。真山が不思議そうな顔をする。おそらく自分が最初に事務所で見せた表情もこんな感じだったんだろうな、と桜は苦笑した。
玄関のドアがひらいて、依頼人が顔を見せた。
「先ほどは失礼しました。いま、お母さんもお父さんも出かけてるから、どうぞ……」
「依頼人って、この子なの?」
真山が桜の後ろで嘉神に耳打ちしているのが聞こえた。
「ああ、そうだけど?」
嘉神がごく自然な成り行きのように答えている。
桜も最初は驚いた。まだ小学生らしき女の子が、ドアの前に立っていたのだから。
ドアの覗き穴から訪問客を見やると、ダッフルコートで着ぶくれした真山が、肘を抱いて突っ立っていた。
――なんだ、真山か――
お客ではなかった。真山は先生の旧友のひとりで、いつも忘れた頃に訪ねてくる。しかしここ軽井沢の事務所まで尋ねてくるのは初めてだった。
桜は玄関のドアをあけた。まだ高くない太陽が目に眩しい。
「あ、桜ちゃん、おはよう。嘉神《かがみ》、いるかな?」
だいぶ寒かったのだろう、上着の肩に雪を積もらせた真山の声は、震えを隠さない。
「いるのはいるんですけど……いま、ちょうど、えーっと、お客さん、と話し込んでるところなんですよ……」
と桜は少々面倒くささを声に含めてみたが、
「おかしいなー、嘉神には今日訪ねるって言っといたんだけど。急な来客かな?」
真山にはそれが一切伝わっていないようだ。なるほど、一応のアポは取ってあるのね、と桜は久しぶりに真山に感心した。
おー、さぶ、と真山は言って口の端を下げ、ちらっと桜のほうを見た。
「じゃあ、リビングで待ちます?」
桜は笑顔を貼りつけた顔を真山に向けると、真山は、忙しいときにごめんね、と言って玄関に入ってくるのだった。
「そういえばお土産を買ってきたんだった」
と、真山が右腕にかけていたコンビニ袋を桜に差し出した。ありがとうと言って中を覗くと、カップ入のアイスクリームが三つ。雪の降るなか買ってきたお土産が冷たいアイスクリームとは、真山はやはりちょっとずれている。桜は顔がひきつらないように注意してにこやかにお礼を言った。
真山をリビングに通して紅茶を淹れてあげると、しばらくして廊下から玄関へと向かう足音が二つ聞こえ、嘉神が客に挨拶する声が聞こえた。その声が途切れたのを見計らって桜は嘉神を呼びに行った。
「おお、真山くん、お久しぶり。元気だったかい? しかし、よくこんな山奥まで来てくれたね」
くすんだ色ののセーターに地味なチノパンという出で立ちだが、嘉神が着るとなにかしら上品に見えるから不思議だ。すらりとした体型と整った顔立ちが影響しているのだろう。桜はキッチンへ向かい、三人分のコーヒーを淹れる。
嘉神は軽井沢と文京区に事務所を構えているのだが、なぜか極寒の一月から三月にかけて毎年、軽井沢の支所に詰めている。理由を本人に訊ねても、いつもごまかされるのだ。彼の性格は、その髪の毛といっしょで少々癖がある。
「ここ、近くにスキー場がそろってるでしょ? 最近ウィンタースポーツに凝ってて、雪山を滑ろうと思ってね。宿を一泊とってあるんだよ。それでついでに旅行がてらに旧友の顔でも見ていこうかと」
真山が背を伸ばしながら言う。
「へえ、作家は時間に融通が利いていいねえ」
仕事がないだけだよ、とソファーに座った真山が謙遜したような言葉を返したが、おそらくそれが事実なのだろう。真山の名前が小説雑誌に出ているのはほとんど見たことがない。
桜は真山の前にコーヒーカップを置き、次いで嘉神の前に置いた。自分の分は嘉神の横に置く。
「で、さっきの客は、どんな依頼だったんだい?」
「捜しものさ」
へえ、と真山がわかったのかわからないのか判然としない調子で言い、カップに口をつけた。
「で、なにを探してほしいんだって?」
「猫、だよ」
「猫?」
「そう、猫。まだ仔猫なんだってさ」
「へえ、そんな仕事も受けるんだね」
真山の声はあどけなくも聞こえるから不思議だと、桜は思う。
「嘉神のことだから、もっと大きな依頼を受けてるのかと思ったよ」
「この辺りは平和だからね。身辺調査や浮気調査なんて全然ないよ。殺人や強盗はおろか泥棒すら、私がここに事務所を開いてからは一度もないんじゃないかな。なあ、桜くん」
「ええ、そうですね」
桜が『嘉神研一総合解決事務所』に世話になるようになったのは、嘉神が二十八で、彼女が十八のときのある事件がきっかけだった。その事件で、桜は嘉神に命を助けられたといっても過言ではない。身寄りのなかった桜は、嘉神のもとで働かせてもらえないかと頼みこんだのだ。自分の事務所では給料がまともに払えるかわからないと、最初は言下に断られた。しかし必死の願い出で、嘉神を押し負かすようにして勤めさせてもらえることになったのだった。
桜の主な仕事は書類の整理や、掃除、お茶汲みなどの雑用だが、仕事の片端をやらせてもらえることもある。
『総合解決事務所』と言う名称に、桜も最初はとまどった。
相談ごとはできる限りすべて引き受け解決に導く、という趣旨の事務所方針を表わしたものらしいが、なぜそんな事務所を開設したのかは嘉神自身にしか知るよしはない。
依頼の種類はさまざまだ。しかし東京の事務所ならさておき、軽井沢の支所で受ける依頼は迷い猫や迷い犬、つまり迷子になったペット探しがほとんどだ。猫や犬といった動物から、蛇やトカゲやカメレオンまで、いままで様々な動物を桜は捜索してきた。なかには「飼っていた蜘蛛を探してほしい」というおよそ理解しがたい依頼もあったが、さすがにそれは嘉神が断った。どうやって飼われていた蜘蛛を識別したらいいのかわからなかったから、というのが理由である。区別できるのなら探すつもりでいたという嘉神にはぞっとしたが、蜘蛛嫌いの桜はほっと胸をなでおろした出来事だった。
「それで、その捜索は受けることにしたの?」
真山が淡々と聞く。
嘉神は、もちろん、と言ってコーヒーを一口すすった。
「ただ、迷い猫の依頼をしにきたというのに、その猫の写真を家に忘れてきたらしいんだよ」
それで依頼者は急いで家にとって返ったということだった。
「また来てもらうには忍びないから、いまから依頼者の家に向かうことにしたんだけど、せっかくだし真山くんも付き合わないか? 小説のネタにでもなるかもしれないし。なに、歩いて五分くらい、依頼主の家はすぐだよ」
真山は、そうだなあ、と面倒くさそうな表情を浮かべたが、その声からは好奇心があふれているようすがありありと伝わってきた。この男なら本当に小説のネタにしかねない。
「よし、決まりだ。二宮くん、もちろん君もいっしょだぞ」
はい、と言って桜は軽く弾む気持ちを抑えながら首を縦に振って立ち上がり、コートハンガーにかけた黒のコートをとって嘉神に渡した。
依頼者が嘉神の事務所の存在を知ったのは、以前にこのマンションの前を通ったことがあったかららしい。マンションの前に『嘉神研一総合解決事務所』と矢印の書かれた申し訳程度の小さな看板が立てられている。風の噂でここが『何でも屋』のようなところだということを依頼人は耳にしたことがあったそうで、それで思い切って相談してみようと事務所を訪ねたのだという。
軽井沢のペンションが点在するだけの、およそ人けのない丘の一角にそびえるマンションに事務所を構えているため、客足は少ないが、ひとつの仕事が片付くころにはきちんと新しい仕事が舞い込んでくる。
今回も、あるオーナーから受けた留守中のペンションの掃除という仕事を終わらせたところにちょうど入ってきた仕事だった。
しかし……――。
桜は、依頼者の身なりにちょっと驚いた。
来客を応対したのは桜だった。いらっしゃいませとお辞儀をしてスリッパを勧め、廊下を先導し、応接室のソファーに座ってもらい、桜は嘉神を書斎に呼びに行った。書斎は応接室と開き戸で隣接している。ノックして、先生、と呼びかると嘉神はすぐに出てきた。どうやら客の存在には気づいていたらしい。が、客を見るなり、嘉神も首を突き出した。そして、桜のようすを横見でちらりとうかがったのだった。
マンションの玄関を出ると、さっき真山が来たときよりも雪が強くなっていた。桜はコートの襟を両手で絞る。
「猫がいなくなって三日が経つらしい」
白い息を吐きながら、嘉神が言った。
「なにもこんな寒い中、外に飛び出さなくてもいいのにねえ」
雪道を踏みながら、真山はあいかわらず暢気な調子だ。
が、雪道を歩くのはなかなかの重労働で、依頼者の家にたどり着く頃には桜はうっすらと汗をかいていた。真山や嘉神のほうを見ると、顔に少々赤みが差し、家を出たときよりも吐息の白が濃くなっている。
「……この手の依頼主は、私が出るより、二宮くんが出てもらったほうがいいかもしれないな」
門柱にあるインターフォンを押してから嘉神が言った。桜は頷いてインターフォンに向き直った。あまり気が進まなかったが、男性よりは幾分話しやすいだろう。
「……はい」
「あ、嘉神総合解決事務所のものですが……」
「あ、はい、開いてますから、玄関まで来てください」
どうやら依頼人本人が出たようだった。真山が不思議そうな顔をする。おそらく自分が最初に事務所で見せた表情もこんな感じだったんだろうな、と桜は苦笑した。
玄関のドアがひらいて、依頼人が顔を見せた。
「先ほどは失礼しました。いま、お母さんもお父さんも出かけてるから、どうぞ……」
「依頼人って、この子なの?」
真山が桜の後ろで嘉神に耳打ちしているのが聞こえた。
「ああ、そうだけど?」
嘉神がごく自然な成り行きのように答えている。
桜も最初は驚いた。まだ小学生らしき女の子が、ドアの前に立っていたのだから。
初めまして。
このブログでは、小説を書き連ねていきます。
一回の更新で5,000字くらいをアップしていくつもりです。
発表する小説は、どれも、そのときの最善をもって面白いものを書き上げます。
普段は一社会人として、パソコンのディスプレイに映るたくさんの数字を足したり引いたり、最近は無駄に難解な日本語(本当に無駄です。こんな日本語をよく作ったな、と感心するほどです)を解読する仕事をしています。
どうぞお見知りおきを。
伊原碧
このブログでは、小説を書き連ねていきます。
一回の更新で5,000字くらいをアップしていくつもりです。
発表する小説は、どれも、そのときの最善をもって面白いものを書き上げます。
普段は一社会人として、パソコンのディスプレイに映るたくさんの数字を足したり引いたり、最近は無駄に難解な日本語(本当に無駄です。こんな日本語をよく作ったな、と感心するほどです)を解読する仕事をしています。
どうぞお見知りおきを。
伊原碧