.*ゆずき*
五月も半ばを迎え、病室の窓から新緑の訪れを知らせる蒸し暑い陽気が吹き込み、カーテンをさらっている。
あの青年が最後に病院を訪れてから二日が経った。私はまだ病院にいた。念のための検査入院、ということだった。
私にできることはすべてやったつもりだった。もちろんそれが、過ぎ去った時に対する贖罪になるとは思っていない。
彼に、罪悪感を残してはいけない。彼の人生はまだこれからなのだ。病に冒された私とは違う。今はまだ彼に光は見えていないかもしれない。しかし、あの子は何の繋がりも持たない私に癒しを与えてくれた。たとえそれが偽物の孫であっても。それが痴れ言の演技であっても。太一。私が与えた名前だ。彼は悪人にはなりきれない。きっとこれからもそうだろう。
門扉の前にいた彼は、何かに怯えるように私を振り返った。彼が何を考えているのかすぐにわかった。人生何十年も生きていれば、ちょっとした悪意にも敏感になれるものだ。
かまを掛けてみると、すぐに馬脚を露わした。警察に通報しようかとも考えたが、彼の身なりがそれを引き止めた。何日も風呂に入っていないようすだった。髪は脂にまみれ、顔もかさかさに荒れ、服からは汗の乾いた臭いが発散していた。
私の昔の罪が、きっと彼に手をさしのべたのだろう。
太一の嘘に、とっさに嘘を重ねた自分がいた。嚆矢を得た嘘は二人のあいだで徐々に事実へと変化していった。私はそれを心地よく感じていたが、彼に矛盾した思いを抱かせてしまったことには申し訳なさが募るばかりだ。いっそのこと、私から打ち明けようかとも考えた。
しかし、それもできなかった。
彼を失うことが怖かったのだ。本物の孫のように接してくれる太一を、いつのまにか己の生きるよすがにしてしまっていた。
神様はそんな独りよがりな私を決して見逃さなかった。彼を解き放つ準備を、神様は着々と進めていたのだろう。私から視界を奪い、命の限りを報せてきた。
太一が自由になるのなら、私はその罰を喜んで受容する。私を失う哀しみなど、彼には人生の通過点に過ぎないのだ。私などに足を引っ張られていては、彼は彼自身の人生を歩むことはできない。
そろそろ私は、死ぬべきなのだ。
.*きのした*
インターネットで探している時間が、おれを徐々に絶望の淵へと追いやる。残された時間は待ってくれるのだろうか。病室のベッドにぐったりと横になっている姿を、最悪の事態を想像をして、ごくりと唾を飲む。
臓器移植。改正法。読み慣れない文章を目で追いながら、ひとつひとつ可能性が潰されていくのを感じた。なんとかして病室で過去をひきずっているあの老婆を助けたい。
財団法人。ドナーバンク。よくわからない言葉の群れに戸惑いながらもおれは少しずつ、自分のやろうとしていることが、不可能であることを理解しはじめた。一筋の光明が、周りを囲む暗闇にすこしずつ押しつぶされ、か細いものになっていく。悔しさが募るにつれて、腹の奥がさらにずきんと痛みだす。なにもできないまま、終わりを迎えてしまうのだろうか。
彼女の最期の運命を変えてやることができるのは、おれしかいない。あの偶然に気づいているのは、地上におれただひとりだろう。このままなら歯車はなにひとつ噛み合わずにすべてが終わってしまう。
自分に使命を感じていた。あのとき、あのホームレスにそそのかされたのは偶然ではない。おれに、この歯車を噛み合わさせるために、神様が巡り合わせたのではないか。
傍から見れば、おれは不幸な人生に見えるのだろう。その不幸な人生にも神様は大きな目標を与えてくれた。おれは自分のこの人生を不幸だとは思わない。いや、不幸にしないために、いまこうやって情報を集めているのだ。
ディスプレイに表示されたページを次々にプリントアウトする。プリンタから出力された紙を束ねて、個室に戻る。
四角く小さなテーブルに紙の束を重ね置き、うねりくる腹痛に耐えながらじっくりと目を通していく。
失明を逃れるには、移植手術が最適だろう。
印刷したパンフレットを手に取る。表紙に、『あなたの意思で救える命があります』と書いてあった。おれの気持ちを代弁してくれているように思えた。紙片の中央に『臓器移植に関するQ&A』。――臓器は誰でも提供できますか? 年齢の上限はありますか? ……費用や移植後の身体についても質問と回答が並んでいる。そこには計画に支障をきたすようなことは書かれていなかったし、費用は箪笥から掴んできた現金で補える額だった。
紙片を繰り、さらに内容を検める。そこに、数分前にパソコンのディスプレイで目にした、どうしても避けられない絶望的な問題が書かれていた。
『公平な分配・斡旋 ドナーの斡旋は、原則としてレシピエントの登録順によって行ないます』
先ほどディスプレイで見たときと同じようにおれは顔をしかめた。つまり、おれが柚木に目を提供したいと望んでも、その意思とは無関係に、おれの臓器は順番待ちの列の先頭にいる人物に回されるのだ。列の先頭の人には悪いが、おれはその待ち人に身体の一部を提供するために走り回ったり、資料を集めたり、ネットのなかを駆け回ったり、頭を悩ませているのではない。大きな壁が目の前にそびえたつさまが頭に浮かんだ。頭が真っ白になる。おれの願いはここで終わるのだろうかと、強く目を閉じてしまう。
……いや、確か――。おれは頭のなかでインターネットで見た情報を掘り返し、あたりに散乱した情報の土砂のなかから一片の紙を引き出した。
『親族優先二例目』
新聞の見出し記事だった。テーブルの上にたたきつけるように置き、入念に読み返す。要約すると、次のようなことが分かった。改正臓器移植法により、平成二十二年一月十七日より、親族に対し臓器を優先的に提供する意思を書面で示せば、親族への臓器優先提供が可能になる。
おれが、病院で待つあいつの親族であれば、おれの臓器をおれの意思通りに移植させることができる、ということだ。
しかし一緒に数ヶ月くらしただけの関係で親族であるはずがない。もともと見ず知らずの人間なのだ。何しろ施設育ちなのだから、そういった言葉にはよけい敏感になる。腹の奥がずきんと痛む。
おれはもう一度インターネットの総合検索サイトにアクセスし、し・ん・ぞ・く・スペース・ゆ・う・せ・ん・て・い・き・ょ・う、とキーボードをたたく。画面に並ぶ検索結果の上から二つ目のリンクをマウスでクリックした。
【親族への優先提供が行なわれる場合】
①ご本人が臓器を提供する意思表示に併せて、親族への優先提供の意思表示を書面により表示している。
②親族(配偶者※1、子ども※2、父母※2)が移植希望登録をしている。
③医学的な条件(適合条件)を満たしている。
頭にぱっとひらめいた。
養子縁組だ。
施設にいたころ、まだおれが小学生くらいだったころだろうか。おれより小さい子供らが里親にもらわれていくのをよく目にした。昨日まで一緒に遊んでいた子が、見知らぬ男女に迎えられ、連れられて施設を出ていった。その度に胸に穴が空いたような気持ちになったのを覚えている。
施設から仲間が消える寂しさには慣れていたし、仲間を奪っていく里親に負の感情を持ったわけでもない。きっと、親という存在を知らなかったからだろうと、今になって思う。おれの母親は、おれが産まれると同時に死んだらしい。父親はもともといなかった。つまり、通りすがりの仲に産まれた子だった。母親と父親の愛情など想像することもできなかった。新たな家族を得て施設を出て行く彼らに、おれはどんな感情を抱いていいのかわからなかった。きっと、うまく咀嚼できない感情が、おれの胸に空虚な空間を作り出していたのだろう。
そんなことを思いだしていたら、おれは紙片の端を摘み上げたまま口を半開きにして人形のように固まっていた。過去に浸っている場合ではない、と自分を叱咤する。おれがあのばあさんの子どもになり、柚木に優先提供したい意思を書面にしておけば、あいつの目は助かるのだ。もしかしたら彼女を長年の罪悪感から救うことができるかもしれない。彼女の人生から、後悔という二文字を取り除くことができるかもしれないのだ。
いままで闇に押し包まれていた視界が急に拓けた気がした。急いで用紙に目を戻し、注釈の※2を見る。期待と不安が胸の内で拮抗し、全身が震えるほど鼓動が高鳴る。
※2 実の親子の他、特別養子縁組による養子及び養父母を含みます。
やった! 薄暗い個室のなかで、おれは思わず小さく声を上げていた。
おれが養子になればすべてが解決するのだ。細く暗い道を満身創痍で這い進んでいたおれに、急に力が湧いてきてガソリン満タンの車を与えられた気がした。
ゴールが見えた気がして一息つくと、そういえば、と思いだした。あのバンド名を検索してみる。「Thranduils」。何度も目にしたCDジャケットの記憶を頼りにアルファベットを並べ、検索ボタンをクリックする。それらしきサイトがすぐに見つかった。
そのバンドのサイトは、黒を基調としてゴシック風に装飾され、死をイメージさせた。更新情報の欄を眺めているとバンド名の読み方が分かった。「スランドゥイルズ」と読むらしい。画面に浮かぶ彼らは自然体で、ダメージジーンズにラフなシャツといったあっさりしたファッションを呈示しており、殺風景ともいえる印象を受けた。この人たちがあの激しい心を揺さぶるようなメロディーや、心を締めつけて離さないバラードを創り出しているとは思えないほど、身近な存在に思えた。
おれはバンドメンバーのプロフィールのページに移り、目を通した。
福原恭介(リードボーカル・ギター)
黒瀬智也(ベース)
道端桂子(ギター)
尾崎修司(ドラム)
自然体なファッションに似つかわしく、そこには本名が載っていた。知らないうちにおれは笑みを浮かべていた。施設の子供たちだけでなく、どうやらおれも自分で気づかないうちに、このバンドのファンになっているらしかった。そして、そのメンバーの一人の名前に目を惹かれずにはいられなかった。
福原恭介。頭のなかで、パズルのピースがかちりとはまる音がした。
おれと同じ施設育ちのアーティスト。ボーカルとギターをこなす、ブレイク寸前のバンドのリーダー。おれは全身から湯気が立つような、誇らしい気持ちになった。思わず笑顔が浮かんでいた。
恭介、お前はやっぱりヒーローだよ。
おれはそう呟いていた。
.*きのした*
その翌日もばあさんは家に戻らなかった。病院に電話すると、「念のため、もう数日、入院させる」のだと聞かされた。
卓袱台に両肘をついて頭をかかえていると、電話が鳴った。長いあいだ呼び出し音が止まなかったため、しょうがなくおれは受話器を取り上げ、耳に当てた。
「やっと出た。あんたどこまで耳が遠くなったんだい。死んだのかと思ったよ」
電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。死んだ、という言葉に過敏に心が反応する。
「この前はどうしたのかと思ったわ。いきなり孫の話なんかはじめて。もうあんな与太話聞きたくないからね」
あのときの、電話の相手らしかった。たしか、旧友だと言っていた気がする。
「あの、その、おれが、その孫なんですが……」
「は? あんたが?」
心底驚いたようすだった。いやまあてっきりゆずきが呆けちまったのかと思ったよ、と受話器から拡声器を使って話しているような大声が飛んでくる。
「ほんとに孫がいたのかい。こりゃ驚いた。てっきり空言が口をついて出たんだと思ってたよ。ほら、ずっと昔に息子さん、家を出て行ったって柚木が言ってたもんでさあ。いやいや、あんたのお父さんは今どうしてたんだい?」
やはりそうか、とおれは哀しくなった。
「……おれは、何も知りません」
おれは喉の奥を絞るようにして声を出した。
「え、どういうことだい?」
おれは真実を聞き出すために、すべてを正直に話した。おれが孫を偽っていること。おれがここにいる理由。この家の主と数ヶ月を共に過ごしていること。柚木が失明しかけていること――。
そして、おれはここに住む老婆の肉親のことを知った。
思っていたとおりだった。
おれにここに長居することを勧めたのも、学校が始まっているはずの五月になっても、おれに一筋の疑いの言葉もかけなかったことにも、納得せざるをえなかった。
本当の息子や孫など、やはりあの老婆には存在しなかったのだ。いや、存在するのかもしれないが、近しい関係ではなくなっていた。
おれは、自分が予想していた以上に冷静に、受話器から聞こえてくる話を聞いていることに驚いた。
やはりあの老婆は最初からすべてを知っていた。おれが本当の孫ではないこと。おれが孫だと偽ったこと。そしてあの家に居座り続けた理由すら――。すべてを見透かされていた。
あいつは、おれを、本当の孫だと思いたかった。いや、もはや本当の孫でなくてもよかったのかもしれない。おれを助けることで、過去の罪を償いたかったのではないか。息子を棄てた罪を。罪の意識に手を引かれて、おれを家にとどめさせたのだろう。いま病院で眠っている老女は、かすかに光る運命を信じたかった。
哀しくて、悔しかった。希望を失った柚木に、なにもしてあげることができない。せっかく買ってきた音楽も――そういえば、買ったCDはどこへやったか。そういえば、財布を取り出そうとしたときに箪笥のなかにしまったのだったと思いだす。それが遠い過去のことのように思えた。
ゆっくりと抽斗をあけ、落ち着いてなかを覗く。CDケースは、中心に置かれた直方体の物体に寄りかかるようにして立っていた。自分の影が邪魔になり見えない。ばあさんが倒れた日は、気が急いていて、その存在に気づかなかった。おれはその直方体の物体に手を延ばす。特有のインクの匂いが鼻をついた。
おれはこの数日で、何度驚けばいいのだろう。
一昨日まで無かった札束が、積んであった。
両手に持てるほどの量があった。札束を全部取り上げると、底に預金通帳が見えた。箪笥の上に札束を放り、通帳を開く。一昨日、数百万円の預金が下ろされ、残高の桁が一つ変わっていた。それほどの大金がいま、箪笥の上に乗っかっている。
通帳の残高を表す数値の下に、書き込みがあった。鉛筆で書かれた、筆圧の弱い、蛇のようにうねった字であったため、それが文章であることに気づくのに時間がかかった。それは不安定でアンバランスな、柚木の字だった。
『短いあいだだったけれども、太一、あなたと一緒に暮らせた時間が幸せでした。あなたはこれから、好きに生きなさい。先の短い私から離れて、あなたの人生を、幸せに生きることを目指してください。いままでどうもありがとうね』
読み終えた瞬間、鋭い痛みが背中から腹をつらぬいた。
後悔と感謝と申し訳なさとが一気に胸を締めつける。呼吸ができないほどの嗚咽が、咽喉の奥からせりあがってくる。鼻の奥がつんと痛み、その痛みが目頭に伝わり、冷たい哀しみが淀みなく頬を流れた。
柚木は、世界が狭まり、自分の死を予感してなお、おれの心配をしていたのだ。
憎まれるだろうと、恨まれるだろうと恐れていた。しかし、柚木が怒り、泣き崩れるだろうことのほうが、おれに口を噤ませつづけた。死ぬまで彼女を騙しつづけようと心に決めていた。しかし、彼女は何もかもを見透かしていたのだ。哀しみの表情も、憎しみの欠片も見せずに。
もうおれには金など必要なかった。
気づくとおれは何度もありがとう、ありがとう、と泣きじゃくりながら何かのまじないのように唱えていた。
そのとき、カタ、と乾いた音がした。抽斗のなかで何かが倒れたようだった。手の甲で目を拭い、顔を抽斗に戻す。抽象的なグラデーションのCDジャケットが抽斗の中に見えた。おれが買ったCDだった。
結局、柚木がこれを聞くことはなかった。ジャケットを裏返すと、あのボーカルの、振り上げた右拳がどアップで映っていた。その右拳を悄然と眺めながら、ふと、おれはひとつの偶然に思い至った。これは――? 抽斗にあるものと見比べる。
世の中に、偶然とはどれくらい転がっているのだろうか。おれと柚木が出会ったのは偶然と言えるのだろうか。あのホームレスが、おれをここに導いたのは、偶然だったのだろうか。おれは悪人になれない。そう言った彼の言葉には、どこか確信めいたものがあった。それは果たして、単なる思い違いだったのだろうか。目の前のCDジャケットがおれにそう語りかけてくる――。
おれはいても立ってもいられなくなった。残り少ない時間をどう使うべきか、脳をフル回転させる。情報が足りなかった。おれは札束をひと掴みして、バッグに投げ込むと、そのバッグをつっかけて玄関を飛び出す。そのまま止まることなく突っ走り、駅前のインターネットカフェに入る。息があがっているようすを店員が訝ったみたいだったが、気にしている暇はない。受付で偽の住所と名前を書き、インターネットの接続されたパソコンのある個室に駆け込む。とっかかりが欲しかった。自分がなにをしたらいいのか知りたかった。無我夢中でキーボードをたたき、情報を掻き集める。
腹の奥で、なにかがずきんと痛んだ。
おれは二度とあの家に戻ることはできないと思った。あの家の主と顔を合わせてはいけない。おれと会ってもその絶望は深くなるだけだ。本当の孫ではないのだと気づいてしまっているのだから。そして、通帳にか細い文字で書かれた短い手紙を、おれが読んでしまったのだから――。
あいつはいま、己の死を確信している。だからおれを、孫を演じる役から解き放つ準備を終わらせていたのだろう。
あいつを助けることができないだろうか。期待を裏切ることになっても、一筋の望みのために、おれはあの家から札束を盗むことしかできなかった。
その翌日もばあさんは家に戻らなかった。病院に電話すると、「念のため、もう数日、入院させる」のだと聞かされた。
卓袱台に両肘をついて頭をかかえていると、電話が鳴った。長いあいだ呼び出し音が止まなかったため、しょうがなくおれは受話器を取り上げ、耳に当てた。
「やっと出た。あんたどこまで耳が遠くなったんだい。死んだのかと思ったよ」
電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。死んだ、という言葉に過敏に心が反応する。
「この前はどうしたのかと思ったわ。いきなり孫の話なんかはじめて。もうあんな与太話聞きたくないからね」
あのときの、電話の相手らしかった。たしか、旧友だと言っていた気がする。
「あの、その、おれが、その孫なんですが……」
「は? あんたが?」
心底驚いたようすだった。いやまあてっきりゆずきが呆けちまったのかと思ったよ、と受話器から拡声器を使って話しているような大声が飛んでくる。
「ほんとに孫がいたのかい。こりゃ驚いた。てっきり空言が口をついて出たんだと思ってたよ。ほら、ずっと昔に息子さん、家を出て行ったって柚木が言ってたもんでさあ。いやいや、あんたのお父さんは今どうしてたんだい?」
やはりそうか、とおれは哀しくなった。
「……おれは、何も知りません」
おれは喉の奥を絞るようにして声を出した。
「え、どういうことだい?」
おれは真実を聞き出すために、すべてを正直に話した。おれが孫を偽っていること。おれがここにいる理由。この家の主と数ヶ月を共に過ごしていること。柚木が失明しかけていること――。
そして、おれはここに住む老婆の肉親のことを知った。
思っていたとおりだった。
おれにここに長居することを勧めたのも、学校が始まっているはずの五月になっても、おれに一筋の疑いの言葉もかけなかったことにも、納得せざるをえなかった。
本当の息子や孫など、やはりあの老婆には存在しなかったのだ。いや、存在するのかもしれないが、近しい関係ではなくなっていた。
おれは、自分が予想していた以上に冷静に、受話器から聞こえてくる話を聞いていることに驚いた。
やはりあの老婆は最初からすべてを知っていた。おれが本当の孫ではないこと。おれが孫だと偽ったこと。そしてあの家に居座り続けた理由すら――。すべてを見透かされていた。
あいつは、おれを、本当の孫だと思いたかった。いや、もはや本当の孫でなくてもよかったのかもしれない。おれを助けることで、過去の罪を償いたかったのではないか。息子を棄てた罪を。罪の意識に手を引かれて、おれを家にとどめさせたのだろう。いま病院で眠っている老女は、かすかに光る運命を信じたかった。
哀しくて、悔しかった。希望を失った柚木に、なにもしてあげることができない。せっかく買ってきた音楽も――そういえば、買ったCDはどこへやったか。そういえば、財布を取り出そうとしたときに箪笥のなかにしまったのだったと思いだす。それが遠い過去のことのように思えた。
ゆっくりと抽斗をあけ、落ち着いてなかを覗く。CDケースは、中心に置かれた直方体の物体に寄りかかるようにして立っていた。自分の影が邪魔になり見えない。ばあさんが倒れた日は、気が急いていて、その存在に気づかなかった。おれはその直方体の物体に手を延ばす。特有のインクの匂いが鼻をついた。
おれはこの数日で、何度驚けばいいのだろう。
一昨日まで無かった札束が、積んであった。
両手に持てるほどの量があった。札束を全部取り上げると、底に預金通帳が見えた。箪笥の上に札束を放り、通帳を開く。一昨日、数百万円の預金が下ろされ、残高の桁が一つ変わっていた。それほどの大金がいま、箪笥の上に乗っかっている。
通帳の残高を表す数値の下に、書き込みがあった。鉛筆で書かれた、筆圧の弱い、蛇のようにうねった字であったため、それが文章であることに気づくのに時間がかかった。それは不安定でアンバランスな、柚木の字だった。
『短いあいだだったけれども、太一、あなたと一緒に暮らせた時間が幸せでした。あなたはこれから、好きに生きなさい。先の短い私から離れて、あなたの人生を、幸せに生きることを目指してください。いままでどうもありがとうね』
読み終えた瞬間、鋭い痛みが背中から腹をつらぬいた。
後悔と感謝と申し訳なさとが一気に胸を締めつける。呼吸ができないほどの嗚咽が、咽喉の奥からせりあがってくる。鼻の奥がつんと痛み、その痛みが目頭に伝わり、冷たい哀しみが淀みなく頬を流れた。
柚木は、世界が狭まり、自分の死を予感してなお、おれの心配をしていたのだ。
憎まれるだろうと、恨まれるだろうと恐れていた。しかし、柚木が怒り、泣き崩れるだろうことのほうが、おれに口を噤ませつづけた。死ぬまで彼女を騙しつづけようと心に決めていた。しかし、彼女は何もかもを見透かしていたのだ。哀しみの表情も、憎しみの欠片も見せずに。
もうおれには金など必要なかった。
気づくとおれは何度もありがとう、ありがとう、と泣きじゃくりながら何かのまじないのように唱えていた。
そのとき、カタ、と乾いた音がした。抽斗のなかで何かが倒れたようだった。手の甲で目を拭い、顔を抽斗に戻す。抽象的なグラデーションのCDジャケットが抽斗の中に見えた。おれが買ったCDだった。
結局、柚木がこれを聞くことはなかった。ジャケットを裏返すと、あのボーカルの、振り上げた右拳がどアップで映っていた。その右拳を悄然と眺めながら、ふと、おれはひとつの偶然に思い至った。これは――? 抽斗にあるものと見比べる。
世の中に、偶然とはどれくらい転がっているのだろうか。おれと柚木が出会ったのは偶然と言えるのだろうか。あのホームレスが、おれをここに導いたのは、偶然だったのだろうか。おれは悪人になれない。そう言った彼の言葉には、どこか確信めいたものがあった。それは果たして、単なる思い違いだったのだろうか。目の前のCDジャケットがおれにそう語りかけてくる――。
おれはいても立ってもいられなくなった。残り少ない時間をどう使うべきか、脳をフル回転させる。情報が足りなかった。おれは札束をひと掴みして、バッグに投げ込むと、そのバッグをつっかけて玄関を飛び出す。そのまま止まることなく突っ走り、駅前のインターネットカフェに入る。息があがっているようすを店員が訝ったみたいだったが、気にしている暇はない。受付で偽の住所と名前を書き、インターネットの接続されたパソコンのある個室に駆け込む。とっかかりが欲しかった。自分がなにをしたらいいのか知りたかった。無我夢中でキーボードをたたき、情報を掻き集める。
腹の奥で、なにかがずきんと痛んだ。
おれは二度とあの家に戻ることはできないと思った。あの家の主と顔を合わせてはいけない。おれと会ってもその絶望は深くなるだけだ。本当の孫ではないのだと気づいてしまっているのだから。そして、通帳にか細い文字で書かれた短い手紙を、おれが読んでしまったのだから――。
あいつはいま、己の死を確信している。だからおれを、孫を演じる役から解き放つ準備を終わらせていたのだろう。
あいつを助けることができないだろうか。期待を裏切ることになっても、一筋の望みのために、おれはあの家から札束を盗むことしかできなかった。
.*ゆずき*
その男を家にあげたのは、罪悪感からだった。あれから数十年が経つが、それでも年頃の青年を見かけると深い罪悪感に胸を刺される。罪と罰が作り上げた、持病のようなものだ。
息子を棄てた罪は一生消えることはないだろう。自分が産み落とした人間を見捨てるという所為は、どういう理由があったとしても肯定されない。人道にあるまじき行為なのだ。当時もそのことは理解していた。理解していたが、仕方なかった。戦後夫の死を報された私は金も身よりもすべてを失い、子どもを育てるどころの事態ではなかった。いや、それが言い訳に過ぎないことは痛いほどに分かっている。私は、児童養護施設の門の前に息子を棄てた。そばにいられない私のせめてもの身代わりにと、はめていた結婚指環を指から抜いて紙に包み、泣きわめく息子とともに置き去りにした。
二十八のときに産んだ命は、生きていれば今頃、五十過ぎになる。もしその息子に孫ができているとしたら、手足の伸びきった青年になっているはずだろう。
息子はきっと私のことを恨んでいるだろう。自分を棄てた親を憎まないですむはずがない。息子に謝りたい。自分の犯した過ちにひとつの結末を与えたい。しかしどこにいるのかも分からない相手にどうやって謝罪の意を伝えられようか。
その報いが、とうとう訪れたのだろう。その男は、太一と名乗った。私がヨネと電話で話した空言を、期待どおり間に受けてくれたようだ。彼がそう名乗った今となっては、その青年の本名を私が知ることはできない。息子の顔も知らない私が、孫の名前を知るはずもない。孫? いや、そもそも孫が存在することすら知れないのだ。少なくとも、私を慕う孫など、この世にはいない。
先日、太一が病院に連れ添ってくれたときのことを思いだす。太一と担当医が私を置いて二人で話をしていた。盗み聞きするつもりはなかったが、彼らの話がかすかに廊下に漏れ聞こえた。
――まだはっきり…………いや、そういうわけでは……可能性として……。
医師の声を受ける太一の声は、ぼそぼそとしており、うまく聞き取れなかった。しかし、焦るように早口なのがわかった。
覚悟はしていた。歳を重ねるということは、人生の残り時間をすり減らしていくということだ。そのときが近づいているということだろう。私は自分の命が明日消えようと、覚悟はできている。
ただひとつ気がかりなのは、太一のことだ。
私が死んだら、太一は、どうやって生きていくつもりなのだろう。
若者が名前を偽って、年寄りに優しくする理由はひとつしかない。年寄りの財産といえば、知識か金だ。そして彼は私に知識など求めていない。きっと太一は、そろそろ金目のものをこっそり持ち出しそのまま姿を消すだろう。彼に味方するように、私の目もほとんど見えなくなってきた。私はそれを見とがめることすらできまい。
これが、天が私に与えた罰なのだろう。命が尽きる前に不幸な若者をよこし、私が棄てた息子の代わりに彼に将来を支えてやれ、と。わかりやすい結末を用意してくれたものだと神様に感謝するべきだろうか。太一の人生を、私の金が支えることになるとして、それが果たしてよいことなのだろうか。棄てた息子は、それで私の大罪を許してくれるのだろうか。
「――ばあちゃん、そろそろ病院に行く時間じゃないか?」
ちゃぶ台の向かいに座る太一が窺うように私の顔を覗き込んでくる。その声はいつにも増して陽気さに満ちていた。余計なことを、と思いながらも私は微笑を浮かべる。年寄りは、若者の親切を素直に受けて感謝するべきなのだ。
「そうかい、そろそろ時間かい。考え事をしていたら時間なんかあっという間に過ぎちまうもんだね。――それにしても、おまえなんかあったのかい? 今日はえらく元気がいいじゃないか。仲のいい女でもできたのかい?」
それが空元気だとわかっていて意地悪な質問を返してみる。
そんなんじゃねえよ、と否定する太一。
本当かい? と舌を見せて応えてみる。
「嘘ついてもしかたねえぞ?」
「だから、違うって言ってるだろ」
ムキになって否定する太一が可愛かった。そんな、何でもないやりとりが、私にとってはかけがえのないことのように思えた。
外の光を取り込もうと障子少しだけ開けると、庭の木々に清々しいほどの緑が芽吹いていた。隙間から射しこむ強い日差しが畳にくっきりとした細い線を走らせ、私と太一を別けた。
――そう。太一はひとつ、大きな勘違いをしている。
.*きのした*
「ばあちゃんは音楽とか聞かねえのか?」
失明が近いことを宣告されたあの日、おれは家へ帰る道すがら、柚木に軽い気持ちで訊ねてみた。目の不自由な人が楽しめるものは、たとえば耳から入るものではないかという単純な考えだった。
「昔はレコードを聞いていたけどねえ。美空ひばりはいい声をしていたねえ。透き通るような気持ちのよい声だよ、あれは」
「いまはもう聞かねえのか?」
「いまの音楽は、耳にうるさいだけだよ」
柚木は迷惑そうに手を振った。
「……ロックバンドとかのことか?」
「そうそう。それだ。叫ぶばっかりで、全然なっちゃいない。音楽というのはねえ……と、やめておこう。年寄りの趣味の話なんざ、太一は聞きたくないだろう?」
柚木が自嘲気味に口を閉じる。
「そんなことねえよ。そういえば、ばあちゃんの趣味、聞いたことなかったな。おれが趣味に合った音楽を買ってきてやるよ。どんなのがいいんだ?」
おれは柚木の言葉から、ひとつのロックバンドのことを思い浮かべていた。ホームレスの話していた、あのバンドだ。シャウトするように歌い上げるさまが、十代の若者に熱狂的な人気を得ていた。施設のリビングにあったテレビから、彼らの曲が流れると、女子たちの目はテレビに釘付けになり、男子らも無意識に体を揺らして扇情的な歌詞を口ずさんでいたのを覚えている。
――おれの声は届いているか!
ボーカルの男性は、間奏の際にそう叫び、右手を振り上げ、手の甲を高くかざす。高く掲げられるマイクを持った大きな拳にカメラが寄っていき、次第に画面に大きく映るとともに、聴衆のうねるような歓声も大きくなっていく。そのやりとりを、施設の子供らテレビの前で真似ていたのを覚えている。拳を振り上げて。うおー、と子供たちが大声でテレビのなかのスターに応える。そしてシスターが、静かに! と大声をあげるのだった。
施設の子たちが彼らのファンになったのは、きっとボーカルが児童養護施設の出身だということを告白しているのをいつかのテレビで見ていたからだろう。ブレイク前のアーティストを紹介する、五分程度の番組だったと思う。
そのボーカルは、母子家庭で育ったが、まだ彼が五歳のうちに母も病気でこの世を去った。父はすでに離婚し蒸発していたため、施設に預けられたのだとブラウン管の中で彼は告白していた。
夕暮れが薄く陽を沈める頃に家に着いた。おれが先に上がり框に上り、柚木の手を引いているときだった。
「太一がいいと思う音楽を聞かせておくれ。なるべく静かなものがいい」
と柚木が言った。柚木は居間へ向かうとおもむろに桐箪笥の右端の抽斗から財布を取り出して千円札を数枚おれに握らせた。
金を渡された次の日、おれは街まで出た。電車賃をけちるために、歩いた。柚木からもらったお金で、とも考えたが、なんとなくためらわれ、やめた。
彼らのバンドが作り出す音楽は、激しいものばかりではなかった。美空ひばりのやわらかさ、とまではいかないが、アコースティックギター片手にボーカルが弾き語りをするような、素朴で優雅な曲調のものもあった。施設にいたころから聞きなじみのあるそれを、柚木に聞かせたいと思った。
さいわい、柚木の家にはCDプレイヤーがあったため、CDさえ買えば音楽を聞かせることができる。駅前に乱立するテナントビルのひとつに店を構えた大型CDショップ店で、おれは目当てのアーティストを探し歩いた。一階から五階までのフロアは広く、二階に構えられたJポップのジャンルから彼らのバンドを探すだけで、おれの足は棒になった。
フロアの柱に張り出された「来年ブレイクするアーティストランキング」の上位に彼らのバンド名が書かれていた。アルファベットで構成されたバンド名に、ふりがなはなく、昔見ていたテレビ番組で司会者がバンド名を紹介する場面を何度も見ているはずだが、記憶にない。おれは、そのバンド名をなんて読んだらいいかわからず、そして曲名を見てもそれが自分の求めているものかもちろんわからなかった。
試聴コーナーを見つけ、そこに目当てのCDが設置されてないかを視線を振って探すと、すぐに見つかった。バンドメンバーの写真入りポップが、試聴コーナーの柱にでかでかと貼られていた。さすがランキング上位に位置するだけある、と感心した。ヘッドフォンを耳に当て、アルバムの一曲目から順に聴いていく。……違う。次の曲。違う。次。聴いたことがあるがこれも違う。次。……これだ。おれはヘッドフォンを外して叩きつけるように戻すと、試聴用プレイヤーの右に置かれたCDジャケットを手にとった。荒々しい曲に似合わず極彩色のグラデーションが縦に流れた抽象的なジャケット写真だった。裏には、あの有名な右拳が堂々と大きく映っていた。売れ筋だからか少々値が張ったが、柚木から渡されたお金に比べれば安いものだった。
しかし、その音楽を柚木に聞かせることは叶わなかった。
日が暮れて玄関の引き戸をあけると、柚木が玄関に倒れていた。
上がり框に頭を預け三和土に座り込むようにして意識を失っていた。すぐに駆け寄り柚木の体温を確かめ、脈をとり、呼吸を確認する。脈は弱く、浅い呼吸がおれの頬に当たる。
すぐに救急車を呼び、柚木を担ぎ上げて居間に布団を敷き柚木を横たえた。呼吸は落ち着いてきたが意識は戻らない。
おれは柚木の財布の中身を確認することにした。金をくすねるためではない。診療費用やもしかしたら入院費用が必要になるだろうと思ったからだ。健康保険証も財布に入っているだろうか。布団を回り込み抽斗をあけ、財布を検める。黒の長財布を手に持つと、ずしりと重い。中を開くと、右側にカードが並び、左側にお札を入れるポケットがある。
おれは一万円札が何枚か入っていることと、カードポケットに健康保険証があることを確かめて財布をたたもうとした。
そのとき。
衝撃的な違和感が、全身を走った。
もう一度、健康保険証を取り出す。そこに浮かぶ文字を確かめる。
心臓を殴りつけられたように、激しい鼓動が胸を打つ。
身体中の血液が、今までの記憶とともに逆流しだす。
柚木の言葉。旧友との電話。医者の言動……。
――家の表札、剥がれてるだろ。
――お前にゃ無理だよ。
――柚木太一といいます。
――それはまた珍しい……。
どうして。
まさか。
全身に、次々と疑問がぶつかってきた。その塊は、おれの体に相容れることなく皮膚の表面で跳ね返り、柚木とおれを包み込む空間にふわふわと漂い続ける。なぜ。どうして。まさか。それらの言葉が繰り返し脳内を駆け巡った。
愕然としていると、救急車のサイレンが聞こえてきた。はっと我に返り、おれは財布を急いでたたんだ。いま見たことを忘れようとする。うまくいかず、泣きそうになる。サイレンの音がうるさいほどに近くなり、唐突に消えた。泣いている場合ではない、と腕に力を込めて柚木を担ぎ玄関へと向かった。
玄関のチャイムが鳴る。開いています、と答えると玄関が勢いよく開かれ水色の服を着た救急隊員が入ってきた。昼の陽気が嘘のように完全な闇が外を覆っていた。
救急隊が柚木を担架にのせているあいだに、発見したときのようすを手短に伝える。柚木は意識を取り戻すことなく、そのまま救急車に乗せられた。おれは財布を掴みサンダルをつっかけて、一緒に救急車に乗った。頭の中は混乱し、心臓はばくばくと脈打ったままだった。
通っていた総合病院の救急に柚木は回された。
おれは病院の薄暗い照明に照らされたベンチに座り込んで、ベージュ色をした床に視線を落とし、無事であることを祈った。額に押し付けた手のひらにじっとりと汗が滲み、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
あまりに動転していたためか、その足音が近くで鳴り止み、視界に人影が差すまで人の接近に気づかなかった。おれの足元に白衣から伸びる二本の脚が見え、ふと顔をあげると見知った顔の医師が立っていた。彼はボサボサの髪にしなびた表情を浮かべていた。
白衣の男はおれの正面に立ち、そしておれの両肩に手を置いた。
白衣が、諭すようにゆっくりと口を動かす。彼の口から発せられる音声が、おれの耳孔を通り、鼓膜を揺らす。その振動は、鼓膜から脳に伝わるまでのあいだに大きく増長し、深い振幅を帯びておれの脳をぐらぐらと揺さぶった。なにもかもが、おれを見放したように思った。残された時間が幾許もないことを報された。
おれは病院を出て、家にとって返した。一人になりたかった。
何もかもが崩れていくようだった。
財布のなかの金は、柚木の寝かされたベッドのサイドテーブルに置いてきた。健康保険証も看護師に頼んでコピーを置いてきた。
おれは居間の畳にへたりこみ、柚木が横たわっていた布団を見る。敷布団は薄く、枕と尻の当たる部分が、長年の重みに凹んだままになっていた。柚木の寝姿が自然と目に浮かんできた。やがて、その寝姿が滲み、おれは目をこすった。
何をすればいいのだろうか。次々と露わになる事実に、おれの頭は嵐に遭ったように掻き回されていた。
いつのまにか卓袱台に伏せて意識を失っていた。翌朝、日が高く昇る前に電話が鳴り、おれは目を覚ました。柚木の意識が戻ったということだった。ひとまずおれは安心して受話器を置き、部屋を見渡す。
何も変わっていない現実がそこにあった。考えなければならないことはたくさんある。しかし、それらを解決する手段は何一つ思い浮かばなかった。
病棟の側壁はすべての陽光を受けとめ、白く反射していた。
柚木の病室は、二階の一室だった。四人部屋で、右奥の窓側のベッドに身を横たえていた。広い病室に寝かされた柚木は、家にいるときよりも一段と小さく見えた。おれはベッドに寝たままの、黙り込んだその老婆に、近所の人が倒れているところを見つけて病院に連絡をいれてくれたようだと嘘をついた。名前を訊ねなかったためそれが誰なのかはわからない、とも言い添えた。それに対して何も言及してこなかったのが、逆に怖かった。
おれが説明を終えると、彼女はベッドの背にもたれるようにして体を起こし、小さな声で言った。
「どうせ、私はもう長くないんだろう?」
ずきんと腹が痛む。
「そんなことねえよ。貧血でちょっと意識を失っただけだったんだろう? 病は気からだぜ。弱気なことこと言うなよ」
眼の奥がじんと熱くなる。目の前の年老いた女性が、身体を萎ませるようにして希望を失っている事実が、耐えがたい哀しみをおれに浴びせた。
その男を家にあげたのは、罪悪感からだった。あれから数十年が経つが、それでも年頃の青年を見かけると深い罪悪感に胸を刺される。罪と罰が作り上げた、持病のようなものだ。
息子を棄てた罪は一生消えることはないだろう。自分が産み落とした人間を見捨てるという所為は、どういう理由があったとしても肯定されない。人道にあるまじき行為なのだ。当時もそのことは理解していた。理解していたが、仕方なかった。戦後夫の死を報された私は金も身よりもすべてを失い、子どもを育てるどころの事態ではなかった。いや、それが言い訳に過ぎないことは痛いほどに分かっている。私は、児童養護施設の門の前に息子を棄てた。そばにいられない私のせめてもの身代わりにと、はめていた結婚指環を指から抜いて紙に包み、泣きわめく息子とともに置き去りにした。
二十八のときに産んだ命は、生きていれば今頃、五十過ぎになる。もしその息子に孫ができているとしたら、手足の伸びきった青年になっているはずだろう。
息子はきっと私のことを恨んでいるだろう。自分を棄てた親を憎まないですむはずがない。息子に謝りたい。自分の犯した過ちにひとつの結末を与えたい。しかしどこにいるのかも分からない相手にどうやって謝罪の意を伝えられようか。
その報いが、とうとう訪れたのだろう。その男は、太一と名乗った。私がヨネと電話で話した空言を、期待どおり間に受けてくれたようだ。彼がそう名乗った今となっては、その青年の本名を私が知ることはできない。息子の顔も知らない私が、孫の名前を知るはずもない。孫? いや、そもそも孫が存在することすら知れないのだ。少なくとも、私を慕う孫など、この世にはいない。
先日、太一が病院に連れ添ってくれたときのことを思いだす。太一と担当医が私を置いて二人で話をしていた。盗み聞きするつもりはなかったが、彼らの話がかすかに廊下に漏れ聞こえた。
――まだはっきり…………いや、そういうわけでは……可能性として……。
医師の声を受ける太一の声は、ぼそぼそとしており、うまく聞き取れなかった。しかし、焦るように早口なのがわかった。
覚悟はしていた。歳を重ねるということは、人生の残り時間をすり減らしていくということだ。そのときが近づいているということだろう。私は自分の命が明日消えようと、覚悟はできている。
ただひとつ気がかりなのは、太一のことだ。
私が死んだら、太一は、どうやって生きていくつもりなのだろう。
若者が名前を偽って、年寄りに優しくする理由はひとつしかない。年寄りの財産といえば、知識か金だ。そして彼は私に知識など求めていない。きっと太一は、そろそろ金目のものをこっそり持ち出しそのまま姿を消すだろう。彼に味方するように、私の目もほとんど見えなくなってきた。私はそれを見とがめることすらできまい。
これが、天が私に与えた罰なのだろう。命が尽きる前に不幸な若者をよこし、私が棄てた息子の代わりに彼に将来を支えてやれ、と。わかりやすい結末を用意してくれたものだと神様に感謝するべきだろうか。太一の人生を、私の金が支えることになるとして、それが果たしてよいことなのだろうか。棄てた息子は、それで私の大罪を許してくれるのだろうか。
「――ばあちゃん、そろそろ病院に行く時間じゃないか?」
ちゃぶ台の向かいに座る太一が窺うように私の顔を覗き込んでくる。その声はいつにも増して陽気さに満ちていた。余計なことを、と思いながらも私は微笑を浮かべる。年寄りは、若者の親切を素直に受けて感謝するべきなのだ。
「そうかい、そろそろ時間かい。考え事をしていたら時間なんかあっという間に過ぎちまうもんだね。――それにしても、おまえなんかあったのかい? 今日はえらく元気がいいじゃないか。仲のいい女でもできたのかい?」
それが空元気だとわかっていて意地悪な質問を返してみる。
そんなんじゃねえよ、と否定する太一。
本当かい? と舌を見せて応えてみる。
「嘘ついてもしかたねえぞ?」
「だから、違うって言ってるだろ」
ムキになって否定する太一が可愛かった。そんな、何でもないやりとりが、私にとってはかけがえのないことのように思えた。
外の光を取り込もうと障子少しだけ開けると、庭の木々に清々しいほどの緑が芽吹いていた。隙間から射しこむ強い日差しが畳にくっきりとした細い線を走らせ、私と太一を別けた。
――そう。太一はひとつ、大きな勘違いをしている。
.*きのした*
「ばあちゃんは音楽とか聞かねえのか?」
失明が近いことを宣告されたあの日、おれは家へ帰る道すがら、柚木に軽い気持ちで訊ねてみた。目の不自由な人が楽しめるものは、たとえば耳から入るものではないかという単純な考えだった。
「昔はレコードを聞いていたけどねえ。美空ひばりはいい声をしていたねえ。透き通るような気持ちのよい声だよ、あれは」
「いまはもう聞かねえのか?」
「いまの音楽は、耳にうるさいだけだよ」
柚木は迷惑そうに手を振った。
「……ロックバンドとかのことか?」
「そうそう。それだ。叫ぶばっかりで、全然なっちゃいない。音楽というのはねえ……と、やめておこう。年寄りの趣味の話なんざ、太一は聞きたくないだろう?」
柚木が自嘲気味に口を閉じる。
「そんなことねえよ。そういえば、ばあちゃんの趣味、聞いたことなかったな。おれが趣味に合った音楽を買ってきてやるよ。どんなのがいいんだ?」
おれは柚木の言葉から、ひとつのロックバンドのことを思い浮かべていた。ホームレスの話していた、あのバンドだ。シャウトするように歌い上げるさまが、十代の若者に熱狂的な人気を得ていた。施設のリビングにあったテレビから、彼らの曲が流れると、女子たちの目はテレビに釘付けになり、男子らも無意識に体を揺らして扇情的な歌詞を口ずさんでいたのを覚えている。
――おれの声は届いているか!
ボーカルの男性は、間奏の際にそう叫び、右手を振り上げ、手の甲を高くかざす。高く掲げられるマイクを持った大きな拳にカメラが寄っていき、次第に画面に大きく映るとともに、聴衆のうねるような歓声も大きくなっていく。そのやりとりを、施設の子供らテレビの前で真似ていたのを覚えている。拳を振り上げて。うおー、と子供たちが大声でテレビのなかのスターに応える。そしてシスターが、静かに! と大声をあげるのだった。
施設の子たちが彼らのファンになったのは、きっとボーカルが児童養護施設の出身だということを告白しているのをいつかのテレビで見ていたからだろう。ブレイク前のアーティストを紹介する、五分程度の番組だったと思う。
そのボーカルは、母子家庭で育ったが、まだ彼が五歳のうちに母も病気でこの世を去った。父はすでに離婚し蒸発していたため、施設に預けられたのだとブラウン管の中で彼は告白していた。
夕暮れが薄く陽を沈める頃に家に着いた。おれが先に上がり框に上り、柚木の手を引いているときだった。
「太一がいいと思う音楽を聞かせておくれ。なるべく静かなものがいい」
と柚木が言った。柚木は居間へ向かうとおもむろに桐箪笥の右端の抽斗から財布を取り出して千円札を数枚おれに握らせた。
金を渡された次の日、おれは街まで出た。電車賃をけちるために、歩いた。柚木からもらったお金で、とも考えたが、なんとなくためらわれ、やめた。
彼らのバンドが作り出す音楽は、激しいものばかりではなかった。美空ひばりのやわらかさ、とまではいかないが、アコースティックギター片手にボーカルが弾き語りをするような、素朴で優雅な曲調のものもあった。施設にいたころから聞きなじみのあるそれを、柚木に聞かせたいと思った。
さいわい、柚木の家にはCDプレイヤーがあったため、CDさえ買えば音楽を聞かせることができる。駅前に乱立するテナントビルのひとつに店を構えた大型CDショップ店で、おれは目当てのアーティストを探し歩いた。一階から五階までのフロアは広く、二階に構えられたJポップのジャンルから彼らのバンドを探すだけで、おれの足は棒になった。
フロアの柱に張り出された「来年ブレイクするアーティストランキング」の上位に彼らのバンド名が書かれていた。アルファベットで構成されたバンド名に、ふりがなはなく、昔見ていたテレビ番組で司会者がバンド名を紹介する場面を何度も見ているはずだが、記憶にない。おれは、そのバンド名をなんて読んだらいいかわからず、そして曲名を見てもそれが自分の求めているものかもちろんわからなかった。
試聴コーナーを見つけ、そこに目当てのCDが設置されてないかを視線を振って探すと、すぐに見つかった。バンドメンバーの写真入りポップが、試聴コーナーの柱にでかでかと貼られていた。さすがランキング上位に位置するだけある、と感心した。ヘッドフォンを耳に当て、アルバムの一曲目から順に聴いていく。……違う。次の曲。違う。次。聴いたことがあるがこれも違う。次。……これだ。おれはヘッドフォンを外して叩きつけるように戻すと、試聴用プレイヤーの右に置かれたCDジャケットを手にとった。荒々しい曲に似合わず極彩色のグラデーションが縦に流れた抽象的なジャケット写真だった。裏には、あの有名な右拳が堂々と大きく映っていた。売れ筋だからか少々値が張ったが、柚木から渡されたお金に比べれば安いものだった。
しかし、その音楽を柚木に聞かせることは叶わなかった。
日が暮れて玄関の引き戸をあけると、柚木が玄関に倒れていた。
上がり框に頭を預け三和土に座り込むようにして意識を失っていた。すぐに駆け寄り柚木の体温を確かめ、脈をとり、呼吸を確認する。脈は弱く、浅い呼吸がおれの頬に当たる。
すぐに救急車を呼び、柚木を担ぎ上げて居間に布団を敷き柚木を横たえた。呼吸は落ち着いてきたが意識は戻らない。
おれは柚木の財布の中身を確認することにした。金をくすねるためではない。診療費用やもしかしたら入院費用が必要になるだろうと思ったからだ。健康保険証も財布に入っているだろうか。布団を回り込み抽斗をあけ、財布を検める。黒の長財布を手に持つと、ずしりと重い。中を開くと、右側にカードが並び、左側にお札を入れるポケットがある。
おれは一万円札が何枚か入っていることと、カードポケットに健康保険証があることを確かめて財布をたたもうとした。
そのとき。
衝撃的な違和感が、全身を走った。
もう一度、健康保険証を取り出す。そこに浮かぶ文字を確かめる。
心臓を殴りつけられたように、激しい鼓動が胸を打つ。
身体中の血液が、今までの記憶とともに逆流しだす。
柚木の言葉。旧友との電話。医者の言動……。
――家の表札、剥がれてるだろ。
――お前にゃ無理だよ。
――柚木太一といいます。
――それはまた珍しい……。
どうして。
まさか。
全身に、次々と疑問がぶつかってきた。その塊は、おれの体に相容れることなく皮膚の表面で跳ね返り、柚木とおれを包み込む空間にふわふわと漂い続ける。なぜ。どうして。まさか。それらの言葉が繰り返し脳内を駆け巡った。
愕然としていると、救急車のサイレンが聞こえてきた。はっと我に返り、おれは財布を急いでたたんだ。いま見たことを忘れようとする。うまくいかず、泣きそうになる。サイレンの音がうるさいほどに近くなり、唐突に消えた。泣いている場合ではない、と腕に力を込めて柚木を担ぎ玄関へと向かった。
玄関のチャイムが鳴る。開いています、と答えると玄関が勢いよく開かれ水色の服を着た救急隊員が入ってきた。昼の陽気が嘘のように完全な闇が外を覆っていた。
救急隊が柚木を担架にのせているあいだに、発見したときのようすを手短に伝える。柚木は意識を取り戻すことなく、そのまま救急車に乗せられた。おれは財布を掴みサンダルをつっかけて、一緒に救急車に乗った。頭の中は混乱し、心臓はばくばくと脈打ったままだった。
通っていた総合病院の救急に柚木は回された。
おれは病院の薄暗い照明に照らされたベンチに座り込んで、ベージュ色をした床に視線を落とし、無事であることを祈った。額に押し付けた手のひらにじっとりと汗が滲み、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
あまりに動転していたためか、その足音が近くで鳴り止み、視界に人影が差すまで人の接近に気づかなかった。おれの足元に白衣から伸びる二本の脚が見え、ふと顔をあげると見知った顔の医師が立っていた。彼はボサボサの髪にしなびた表情を浮かべていた。
白衣の男はおれの正面に立ち、そしておれの両肩に手を置いた。
白衣が、諭すようにゆっくりと口を動かす。彼の口から発せられる音声が、おれの耳孔を通り、鼓膜を揺らす。その振動は、鼓膜から脳に伝わるまでのあいだに大きく増長し、深い振幅を帯びておれの脳をぐらぐらと揺さぶった。なにもかもが、おれを見放したように思った。残された時間が幾許もないことを報された。
おれは病院を出て、家にとって返した。一人になりたかった。
何もかもが崩れていくようだった。
財布のなかの金は、柚木の寝かされたベッドのサイドテーブルに置いてきた。健康保険証も看護師に頼んでコピーを置いてきた。
おれは居間の畳にへたりこみ、柚木が横たわっていた布団を見る。敷布団は薄く、枕と尻の当たる部分が、長年の重みに凹んだままになっていた。柚木の寝姿が自然と目に浮かんできた。やがて、その寝姿が滲み、おれは目をこすった。
何をすればいいのだろうか。次々と露わになる事実に、おれの頭は嵐に遭ったように掻き回されていた。
いつのまにか卓袱台に伏せて意識を失っていた。翌朝、日が高く昇る前に電話が鳴り、おれは目を覚ました。柚木の意識が戻ったということだった。ひとまずおれは安心して受話器を置き、部屋を見渡す。
何も変わっていない現実がそこにあった。考えなければならないことはたくさんある。しかし、それらを解決する手段は何一つ思い浮かばなかった。
病棟の側壁はすべての陽光を受けとめ、白く反射していた。
柚木の病室は、二階の一室だった。四人部屋で、右奥の窓側のベッドに身を横たえていた。広い病室に寝かされた柚木は、家にいるときよりも一段と小さく見えた。おれはベッドに寝たままの、黙り込んだその老婆に、近所の人が倒れているところを見つけて病院に連絡をいれてくれたようだと嘘をついた。名前を訊ねなかったためそれが誰なのかはわからない、とも言い添えた。それに対して何も言及してこなかったのが、逆に怖かった。
おれが説明を終えると、彼女はベッドの背にもたれるようにして体を起こし、小さな声で言った。
「どうせ、私はもう長くないんだろう?」
ずきんと腹が痛む。
「そんなことねえよ。貧血でちょっと意識を失っただけだったんだろう? 病は気からだぜ。弱気なことこと言うなよ」
眼の奥がじんと熱くなる。目の前の年老いた女性が、身体を萎ませるようにして希望を失っている事実が、耐えがたい哀しみをおれに浴びせた。
