.*Thranduils*
四月三十日、午後五時。恭介はパイプ椅子を並べた上に横になっていた。
「恭介も横になってないで、探せよー。自分だけ楽しやがって」
智也が冗談交じりにののしってくる。恭介は眩暈を覚え、身体を休めているところだった。毎晩行なわれるバンド練習と、日中の肉体労働とで、恭介の身体は限界を迎えていた。目頭を軽く摘み、目をぎゅっと瞑る。こめかみに鈍い痛みが走るが、気のせいだと言い聞かせ、並べた椅子から身を起こす。
「お前がいけないんだぞ。途中で倒れたりするから」
智也が投げやりな言葉を投げつけてくる。しかしその言葉は笑みを含んでおり、体調不良のバンドメンバーに対する慰めも含まれているように感じられた。
練習の途中で恭介は貧血を起こしたのだった。曲が、サビに差し掛かったところで勢いに乗り声を張り上げたところで、疲労の塊が脳内で破裂した。視界が狭まり、平衡感覚を失い、その場にしゃがみこむようにして倒れ込んだ。
恭介は、椅子に深く座り、頭を深く垂れている。頭を起こすとふたたび視界が真っ白になり、眩暈が襲ってきそうな予感がした。
「すまない」
たった四文字の言葉を吐くのに大きな深呼吸が必要で、嘔吐感をもよおしてしまう自分の身体が憎くなった。
先日やっと、深夜のテレビ番組に出演の依頼が来たのだ。その収録が再来週の月曜日。そして、テレビ放送はさらに二ヶ月後だという。インディーズ・バンドに声をかけてくれた番組プロデューサーに感謝した。今まで小さな箱を借りてやってきた恭介たちにとっては、大きな宣伝の場である。友人をつてにチケットを売りさばいていた彼等が、チケット販売店にその業務を任せられることになるかもしれない大舞台と考えてよい。井のなかの蛙が大海に躍り出られるかどうかの分水嶺、とは言い過ぎか、と恭介はふっと笑う。
電話を受けたときの、番組プロデューサーのぎらついた声を思いだす。
――君たちの音楽は荒削りだが、魂に満ちている。
そう評価を口にされたときは素直に嬉しかった。
「音楽は目的ではなく、手段でしかない」これは以前バンドを組んでいたメンバー、祐介の言葉だ。
「音楽は目的にはなりえない。音楽が目的だとしたら、そいつは音楽を作っただけで人生が終わる。目的にしてしまった時点で、心を打つメロディなんて描けなくなっちまう。そこでジ・エンドだ。おれは音楽を目標だなんて思ってない。あくまで手段だ。なんの手段かって? 人の心を揺り動かす手段だよ。おれらの音楽で、人が右にも左にも揺れ動くんだ。そいつの人生の、それからを変えちまう力がある。そのための手段でしかないんだ。おれらは音楽で、他人の人生に渦を起こして、地面を揺らし、そして破滅へと導くんだ。面白いと思わないか?」
恭介をそう説き伏せた夜、酒を飲んでバイクに跨り、そのままガードレールに突っ込み、祐介は死んだ。その死をきっかけにバンドは一時解散し、恭介と智也は新たなメンバーを集めて再結成したのだった。
音楽は、恭介にとっても手段のひとつだった。祐介の言ったように人の心を揺さぶる手段であり、人を破滅へと導くためのものではなかったが、恭介にはさらに現実的な目的があった。曲を作り出すことは苦悩と共に、完成時と発表時には快感を伴う。しかし、ギターを弾き、メロディーに声を乗せる行為には、興奮を導く以外の目的があった。
この声を誰かに届けたい。テレビに映ることで、誰かに――その誰かは、恭介にははっきりと輪郭を持って映っていた――気づいてほしい。そんな想いが込められていた。恭介にとって、音楽は手段であると同時に、目的でもあった。
最初は違った。音楽を手段だと思ってやっていた。しかし、いつのまにか恭介には違う目標ができてしまっていた。自分たちが作り上げる音の連なりが、ひとつの手段であることには変わりない。だがそれだけではない。この音を通して、テレビに映ることで、見せたいものを思いついた。それが、恭介が音楽に目的を与えた瞬間だった。
「恭介、顔が真っ青じゃないか」
修司が中腰になって、椅子に座っている恭介を下から覗き込んでいた。その目は遠慮なく心配の色を浮かべていた。恭介は少しだけ瞳を左に流して修司の悲愴な面持ちから目を逸らした。
「リードボーカルのお前に倒れられたら、テレビ出演どころじゃなくなるんだからな。体調には気をつけてくれよ。バンドの顔なんだから、青褪めた表情で曲歌われたら、ロックなんか言えなくなっちまう」
そう言って、ぽんと恭介の肩をたたく。
もうひとりのバンドメンバーを、回復しだした平衡感覚のなかで彼は探した。わずかに右に首を傾げると、そこに桂子はいた。床に左頬をくっつけるようにしてスピーカーや音響器具、畳まれたパイプ椅子の下に次々と目を凝らしている。
「あれ、ないとまずいんだよね、恭ちゃん」
恭介のことをそう呼ぶのは桂子だけだった。恭介はうめき声とも取れるような声調で、ああ、とだけ返事をする。あれだけは失くすわけにはいかない。
しばらく経って、ようやく動けるようになった身体をひきずり、恭介も探しはじめる。スタジオのフローリングは冷たく、顔を近づけると冷気が漂ってくるようだった。恭介は倒れ込むようにして桂子とは反対の側の床に目を凝らしてみた。
そのとき、
「あった」
そう声を上げたのは、智也だった。そう言って床に這いつくばるようにしてベースドラムと床の細い隙間に右腕を突っ込み、顔をしかめながらしばらくがさごそとやって、腕を引き抜くと、人差し指と親指のあいだに恭介の探していたものがつままれていた。
恭介は胸をなで下ろし、糸が切れたように頭を垂れてその場に座り込んだ。
.*きのした*
雅一の息子で、柚木の孫の名前は、労することなく判明した。
柚木の夫の遺影に手を合わせたあと、トイレを借り、用を足して戸を開けようとしたとき、電話が鳴ったのだ。居間のテレビの脇に、今となっては珍しい黒電話があったのを思いだした。襖の奥からくぐもった、けたたましい音が鳴っている。柚木がどたどたと足音を立てて、仏間からトイレの前を経由して居間へと入っていった。その数秒後呼び出し音が止んで応答する柚木の声が壁を通して聞こえてくる。
おれはなにとはなしに襖の裏に立った。盗み聞きをするつもりはなかったが、他人が電話をしている場所に入ることがためらわれ、おれは襖の影に身を隠すようにして、柚木の電話が終わるまで突っ立っていた。
柚木の電話はそう長くはなかったが、おれに重要な情報を与えてくれた。
「いまね、孫が来とるんよ。え、いや、本当なんだよ」
嬉しそうな声だった。話しの相手は、ようすからして、旧友のようだ。
「そう、太一って言うんよ。太いに、数字の一って書いて太一。なに、初めて聞いた? 言っとらんかったかね。……ぬははは、そうやねえ。……そうそう――」
それを耳にした瞬間、おれの名前は決まった。柚木太一だ。これがおれの、柚木家での名前だ。忘れないように復唱する。ゆずきたいち、ゆずきたいち、ゆずきたいち……。手のひらにも何度も名前を書き試す。
「それじゃあ、またね。あたしより先に死んじゃあだめよ」
受話器が置かれたのを確認して、おれは襖を引き、ちゃぶ台の脇に腰を下ろした。さきほどは気にならなかったい草の匂いが、鼻に心地よい。緊張がほぐれてきたのを実感する。
「電話、誰だったの?」
柚木が向かいに座る。
「昔の友達だよ。ヨネちゃん。ほとんどはあっちに行っちゃってるから、最近は電話もとんと減ってねえ」
と言って、柚木は天井を指さす。あっち、というのが一瞬どこ指すのか分からなかったが、柚木の物憂げな微笑も手伝ってぴんときた。そうか、と少し心が痛む。
知人がだんだんと少なくなっていく心境とはどういうものだろうか。
孫が訪ねてきたら、嬉しいだろうな、とも思った。本当の孫ではないと分かったら柚木はどのくらい悲しむだろうか。その偽物の孫が、金品を奪って蒸発したら、どれだけの衝撃を受けるだろうか。
――人間が生きるのに必要なのは、希望だ。
ホームレスが言っていた言葉を思いだす。
柚木には、希望があるのだろうか。もしかしたら、おれがここにいることが希望なのかもしれない。減りゆく友人を偲び、いつ自分の番が来るか分からない環境のなか、若い肉親が訪ねてきてあれこれと相手をしてなんでもない話をすることが、目の前の老女にとっては何よりの喜びなのかもしれない。柚木の顔を見ていると、自分の行なうことが、はたして小さな迷惑で済むのだろうかと疑問に思えてきた。咽喉の奥がつんと痛くなり、気を許すと心が泣きそうになるのがわかった。
「なあ、おれがここに来るのって、どれくらいぶりになるかな」
素知らぬふりをして訊いてみた。
柚木の目が宙を泳ぎ、思案顔になる。目をつむり、考えだす。うーん、と唸り声が聞こえてくる。それだけでとりあえず長いあいだ会っていないことはわかった。
「歳を取ると、物忘れもひどくてねえ。困ったもんだ。あんたがいつ以来ここに来たのか覚えてないんだよ」
眉を八の字にしながらも、柚木は目顔で笑った。困ったもんだよ、本当に。お迎えが来る前兆かねえ。そう言いながら、柚木が目の端を指で撫でる。。
「何言ってんだよ、ばあちゃん。まだまだ人生長いんだから、しっかりしてくれよ」
おれは無邪気な笑みを浮かべてみせる。もし傍目から誰かが見ていたら、おばあさんとその孫が微笑ましい会話をしているようにしか見えないだろう。おれ自身、そうやって柚木と会話をしているときには、柚木を本当の祖母だと勘違いしているかのような錯覚を覚えることがあった。まだ長生きしてほしい。世間一般の孫が祖母に対して抱くだろう感情を、少なからずそのときは本当に心に浮かべてしまっていた。そして、ほんとにねえ、と柚木が満面の笑みを浮かべてこちらを見たとき、おれはなぜかほっとした。少し誇らしくもなるのだった。
が、その度におれはその光景がすべて舞台の上での出来事なのだということに立ちかえる。途端に笑顔が引き攣る。不随意に戸惑ってしまい、思わず顔を伏せてしまう。暢気に声を上げて笑っている柚木に、堪らなく申し訳ない気持ちが皮膚の内側にへばりついた。
――迷惑をかけずに生きるにはどうしたらいいんですか。
――金が有り余っているところから、少しだけ拝借すればいいのさ。
本当にそれでいいのだろうか。
同じ問いを頭で繰り返す。一度はむりやり納得した結論に、柚木の笑顔が疑問を呈する。無防備な年寄りから、少々の金を巻き上げることが、生きるためにとはいえ、やるべきことなんだろうか。ホームレスのあの男は本気でそう思って言ったのだろうか。
しかし、目の前に転がっている大きなチャンスを逃すことももったいないことだと頭の片隅で誰かが囁く。銀行通帳と印鑑があれば預金の解約が可能ではないだろうか。大金ならば、銀行員に疑われるかもしれない。動けない祖母の代理でやってきたと説明すれば、なんとか通じるかもしれない。目前に、比較的安全に大金を手に入れる手段が転がっている。これを利用しないで、お前はどうやって食いつないでいくつもりなんだ? 闇色の心が自分を脅迫する。腹の内に、どす黒い血液が溜まっていくような気持ちの悪さを覚える。
まあ、いいじゃないか、と中立的な声がした。当分おばあさんの孫を演じて、ここに住まわせてもらえばいいじゃないか。実行はいつでも可能なんだ。今やらなくてもお前が損するわけじゃない――。
おれは最後の声に賛成し、当分のあいだ柚木太一を演じることにした。その間に、新しいアイデアを思いつくかもしれない。
それでいい。そう思っていた。
柚木は縁側で庭の木々を鑑賞しながら、茶を飲むのが好きだった。おれにとっては退屈だったが、住まわせてもらってる駄賃代わりと思い、縁側に差し込む陽光に目を細めながら、柚木の話につきあった。木々のひとつひとつの説明を受けていると、隣りに腰を下ろして茶をすすっている老婆が少しずつ身近な存在に思えてくる。
クヌギの木には、夏にはカブトムシやクワガタが集まってくるのだとか、茶褐色の幹のケヤキがもうそろそろ花を咲かせるのだとか、嬉しそうに話した。
楽しそうな顔を目にするたびに、おれは柚木に心を許しそうになった。なるべく情が移らないように、いずれは目の前の老婆を裏切りここを出ていくのだと自分に繰り返し言い聞かせた。
散歩に出かけては、その道中でおれに説教じみたことをよく話してきた。友達は大切にしなさいだとか、親と金はいつまでもあるわけではないのだから親孝行と仕事だけはきちんとやりなさいだとか、そして仕事はなんでもいいから続けることが大事だだとか。うるさいなあ、とおれは邪魔くさく対応しつつも、孫のたしかな成長を守ろうとする柚木を騙している自分に、ずきずきと腹が痛んだ。
柚木は、夫ついてもよく話をした。柚木は自分の夫を、おじいさんと呼んだ。遺影で精悍な顔を見ていたおれは、その響きに慣れるのに時間がかかった。きっと柚木は、今でも夫と一緒に過ごしているつもりなのだろう。遺影に映った若者も今となってはおじいさんなのだ。柚木は顔の皺を深くしながら彼のことを、決して二枚目ではなかったが正直でまじめで、戦後復興期の日本を支えていたのだと、まるで自分の手柄のように語った。がむしゃらに働いていた夫は身体の不調に気づかず、腎不全で倒れたときには手の施しようがなかったらしい。
柚木は思いついたような顔をして卓袱台に手をついて立ち上がり、箪笥の抽斗を開けた。細い腕で中を探ると、指環を取り出してみせた。
「これがおじいさんの唯一の形見だよ」
おれが通帳などとともに抽斗で見つけたあの指環だった。春の強い日差しのもとで見る平打ちのそれは細かい瑕が目立ったが、少し黒みがかった凛々しい指環だった。孫としての役割がそう思わせたのだろうか、おれはその指環をどこかで見たことがあるような懐かしささえ覚えた。しかしその懐かしさは、頭の片隅で明確な輪郭を持っているように思える。どこで見たのだったろうか。つかみ所のない岩場の頂上を目指しているような、そんな感覚が脳裏に過ぎった。
柚木は、定期的に病院へ行った。どこか悪いのかと訊ねると、眼が見えなくなるんだよ、と返ってきた。驚いてくわしく聞いてみると、柚木は角膜変性症という疾病におかされており、いずれ失明するらしい。最寄の総合病院で診てもらっているが、経過を観察するしかできず、既に角膜ドナーの順番待ちに並んでいるのだという。詳しい症状や失明するまでの期間は明確にはわからないが、徐々に柚木の目は暗闇に蝕まれていくということだった。
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、あるいは哀れむべきなのか、もやもやとした気持ちが胸の内側を煙らせた。目が見えなくなれば、いつ金目のものを盗み出し逃げ出すのかに頭を悩ませる必要はなくなる。しかしそのときおれは暗闇の世界に閉じ込められた独りの老婆を残していくという、卑劣な行為に身を落とすことになる。真っ白な未来に墨を塗りたくられたような気分だった。
初夏まで時が流れると、柚木の目は明らかな異常を示した。
ちゃぶ台の上に自分で置いた湯のみを見失ったり、鉛筆で手紙をしたためるのに、顔を左右に傾けたりした。視野の中心部に濁りが生じてしまい、目の前のものがはっきりと見えなくなっているのだろう。不安定な心細さが浮き出すかのように、手紙の字面はアンバランスに左右に歪んでいた。
卓袱台で便せんにペンを走らせていたが、背後におれの気配を感じたのか、ふとこちらを振り返り、額に汗を浮かべた真っ青な顔をおれに見せた。そして柚木はこちらを向いたまま片手で手紙をくしゃくしゃに握り潰した。
「字もまともに書けなくなってきたよ、歳はとりたくないんもんだねえ」
眼鏡を外しながら目を伏せて息をつく柚木の言葉に、いつもの強がりはなかった。
柚木の通院に、おれが付き添うことが必要となった。ひとりで路地を歩かせるのが危険なほど、柚木の目はその機能を失っていた。少しずつ暗闇の世界に支配されていく柚木を考えると、胸が押し潰されそうだった。
柚木はなにも知らないのだ。おれが本当の孫ではなく、卑怯な犯罪者であることも知らず、偽りの安心と偽物の会話のなかでゆっくりと闇に侵食されていく。それが柚木の人生の最後を飾る事件になるのだと思うと、自分を罵り唾を吐きかけたくなった。おれが柚木の希望であり続けられるなら、おれは柚木の孫であることを押し通そうかという考えが頭をもたげていた。
「――なにを考えているんだい?」
病院を斜向かいに構えた交差点に差し掛かったところで、柚木が唐突に言った。こちらを窺ったようすはなかった。おれがあまりに無言でいたことを不自然に思ったのだろうか。答えに窮してしまう。
「……ええと、ばあちゃんの目は、どうやったら治るんだろうな」
決して意図して発した言葉じゃなかったが、気づいたときにはもう遅かった。訊いてはいけない質問だと後悔した。失態を犯した自分を心の内で殴りつける。柚木にとっては絶望的な回答しか残されていないじゃないか。
「そうだねえ。もうきっと、治らないんだろうねえ」
胡瓜の詰まった箱を抱えて台所へどしどしと足を運んでいた柚木の面影はもう跡形もなかった。腰を丸め、もともと低い身長をさらに低くして歩く彼女は、枯れ果てた樹木のように生気を失っていた。
「あ、あのさ、家の表札、剥がれてるだろ。あれ、おれが作ってやろうか?」
門柱に埋め込まれていた表札が取れていたことを思いだした。話題を変えたかった。
「おまえにゃ無理だよ。おまえには、ね」
柚木はこちらを振り返りもせず、笑って声を返してきた。
施設に居た頃、木彫り細工をよくやった。机に座って鉛筆を動かすことは苦手だったが、小刀や彫刻刀で木片を削ることだけは上手くやれた。木彫りは上手くできるんだ、と伝えようとしたが、柚木がなにごとかをつぶやいて遮った。その声は小さく淀んでいて、結局聞き取れなかった。
信号が青になる。柚木の右手を握りしめ、無力なおれは押し黙って横断歩道を渡った。
「……角膜の中心に濁りが生じています。中心視野が欠けてしまい、通常の生活に支障をきたす段階まできています」
診察室で担当医は穏やかに、丁寧に説明を続け、それでも誠心誠意で柚木に生じるショックを和らげようとしているのがわかった。柚木に目を移すと、医者の努力も虚しくそれまで信じたくなかったであろう絶望が姿をあらわし柚木の表面をすべて覆ったかのように見えた。白く四角い無機質な診察室に感情を吸い取られたかのように柚木は口を閉じ、黙った。親戚のかたに連絡をとりましょうか、と医師がすすめる。たしかにこれ以上症状が深刻さを増せば、一人暮らしを続けるのは困難だろう。息子がいるのなら一緒に生活するべきだとはわかる。しかしそれは、つまりおれが柚木のそばにはいられなくなるという事態につながる。
遅かれ早かれこのような事態になることは想像していた。しかし現実に離別が迫ってくるとおれの心は動揺していた。おれの心はいつのまにか、柚木と離れたくないと願っていた。
「お孫さんですか?」
白衣を着た目の前の男が訊いてくる。
「はい……」
突然の問いかけに声が震える。
「柚木太一といいます」
「へえ、それはまた珍しい……」
孫が病院に付き添うのは確かに珍しいことなのかもしれない。おれは慎重にうなずいた。嘘をつくとき、人は多弁になる。以前の失敗を省みて、おれは名前を言っただけで黙ることにした。嘘がばれるはずはない。そうわかっていても、体がこわばる。柚木の肩に置いた手に自然と力が入る。その手に、柚木が大きく息を吐くのが伝わってきた。
どういう表情をするのが正しいのかわからなかった。視界を奪われ失意に沈む老婆。偽物の孫。作りものの家族。
医者が視線を上げておれの顔を眺め、それから柚木の肩に置いたおれの手に視線を落とした。彼は几帳面な顔の上に怪訝さを彫り込んで、少々のあいだ目をつむり、なにごとか考えているようだった。おれのなかに言いしれぬ不安が過ぎる。ばれるはずはない。じっとりとした空気が唾を飲み込むことさえ禁じてくる。鼓動が少しずつ速度をあげる。
と、白衣の男が目をあけて言った。
「ちょっと、二人だけで話をできますか」
柚木と医者が、二人で話をするのだと思ったら、違った。医者が指名したのは、おれのほうだった。ずきずきとした緊張が背中を走る。ばれるはずがない。それは分かっていてもその不安はぬぐい去れなかった。柚木をゆっくりと診察室の外に連れ出し、苔色をした樹脂カバーのベンチに座らせ、大丈夫だよ、と根拠のない声をかけてから診察室に戻る。
ほんのちょっと前まで柚木が座っていた椅子に腰を下ろし、膝に手をついて眼前の医者に視線を向ける。彼はおれの目をじっくりと見つめ返す。まさかおれの嘘を見破ったのではないかと、少しだけ目を逸らしたくなる。しかし、ここで視線を外すのも不自然に思え、なんの遠慮もなく突き刺さってくる視線を冷静に受け止めることにする。
彼の瞳孔は緊張を含んだ色を浮かべていた。彼は視線を斜め下に落とし、何かを逡巡しているようだった。医者は散々おれを待たせてから顔を上げると、いくつかおれに質問をした。そして腹を決めたように、こう言った。
――一緒にお住まいなのであれば、お伝えしておくべきですね。
そして、おれは知らされた。
柚木とおれとのあいだに残された時間は、残り少ないということを。
おれはその日、その事実を柚木に知らせることができなかった。失明の危機があるうえに、そんな事実を伝えれば、彼女が落胆することは目に見えている。
柚木を家に連れ戻し、おれはふたたび外に出た。柚木をひとりにすることは不安だったが、それ以上に考えなければならないことがあった。
眼科医の診断が必ずしも正しいとは限らない。他の病気である可能性も残っている。溢れそうになる涙をこらえて、暮色に染まった路地を、ひとり歩き続けた。
昼の陽気は影をひそめ黒い雲が空を覆い出している。民家の塀から突き出すようにして枝を伸ばすコナラは傾いた太陽の日差しと薄い月明かりを同時に受けて、濡れたように青々と茂っている。その木の間をそよ風が吹き抜け、おれの皮膚の表面を容赦なく冷やしていった。
.*きのした*
広い玄関には傘立てや自転車や庭の畑仕事に使うのだろうか鋤やスコップなどの耕作具も置かれていた。湿気った土にまみれており、現在進行形で使われていることが見てとれる。この老婆が庭を耕しているのだろうか。電灯には紙漉の四角い笠が誂えられており、広い玄関を控えめに照らしつけており、玄関からまっすぐに伸びた廊下の表面は、年代を感じさせる木板が仄暗い照明を反射し艶やかに黒光りを返している。外観に裕福さの面影を出さないぶん、家内の趣の深さはより深く感じられた。
「そういえば」
ばあさんが不意に振り返り、おれは身を硬直させる。
「あんた、名前なんていったっけ」
急激に心拍数が上がる。心臓が送り出す血液の量が増加し、胸、脇の下、膝、指先までもが鼓動にあわせてびくびくと震え出す。
「もう何年も会ってないだろ。歳を重ねると親戚の名前も忘れちまう。悲しいもんだねえ」
廊下をよたよたと進みながら、ばあさんは背中を見せて飄々と訊ねてくる。
「お、おれの名前、忘れちゃったの?」
冒頭の文句が少しだけ震えてしまう。どう答えればいいのかわからない。
「昨日の晩、何食ったかも覚えてないんだよ。すまないね」
ばあさんは申し訳なさを微塵も見せず平板な調子で言った。おれは顔も知らない雅一の息子の名前を真剣に考える。なにかヒントになるものがないか、細長い廊下に目を泳がせる。廊下に掛けられた額縁。柿を描いた水彩画。鉛筆で殴り書きのような書き込みがある白地のカレンダーがその脇にピン留めされている。足下に視線を落とすと、板目に直径二センチほどの穴が空いていた。木目にある丸い年輪のような部分が経年劣化し、腐って抜け落ちたのだろうか。孫の名前を思いつかないおれは、その穴の暗闇に吸い込まれてしまいたい気持ちになる。
「ああ、ところで今日は、何でまたこんな田舎までやってきたんだい?」
ばあさんがふたたび話題を変える。名前の詮索はとりあえず中断されたようで、ほっと胸をなで下ろす。そこに座ってな、とおれは畳敷きの居間に通された。
台所から出てきたばあさんが、居間に湯飲みを二つ運んできた。おれは黙ってちゃぶ台の脇に腰を下ろす。ばあさんはおれの左手の側に座った。
もうここに何をしにきたのか自分でも分からなくなるほど頭の中は忙しく思考を繰り返していた。どうやってこの場を凌いだらいい?
沈黙が苦痛になる前に、お茶をすする。熱い茶が食道から胃に染みわたり、身体の芯が温まる心地がした。冷や汗が引っ込み、暑さによる正常な汗が滲み出てくるのを感じた。
ばあさんが正面に見える庭に眼をやり、おれと同じように茶を口にする。
そのあいだにおれは、何を話すべきかどう切り出すべきか頭の中のいろんな抽斗をひっくり返していた。お金が欲しい。騙しとる。もう一度湯飲みを手に取り、熱い茶に口を火傷したふりをして時間を稼ぎながら、どんな話を持ち出したらよいのか考えた。
「実は、ちょっと困ったことになって……」
世の先人達は、このための理由に様々なことを思いついた。交通事故を起こして示談金を求められている。会社の営業で大失敗をしでかし会社から損害賠償を訴えられている。借金の保証人になったら友人が蒸発した。金を横領していたら今日監査が入ることになった、このままでは横領がばれてしまう。不倫相手の子を妊娠してしまった。奥さんから慰謝料を請求されている――。
ほかにも理由は腐るほどあるが、その目的は、善良な老人が溜め込んでいる銀行預金や箪笥預金を、悪意の満ちた銀行口座に振り込ませることにある。金額は数万円から数百万円。現実的で、支払いが可能な額を請求する。おれは、そんな悪逆非道な手段をとっさに口にしてしまっていた。
「……おれの友人が学費を払えなくて、親に内緒で、いわゆるヤミ金ってやつ? そこからお金を借りてたんだけど、そいつが身体壊してバイトできなくなって、そんで、おれが保証人になってたんだけど、おれもそんなに余裕があるわけでもないし。で、おばあちゃんにちょっとのあいだだけ肩代わりしてもらえないかと思って……」
まくし立てるように口が回った。嘘をつくときに人は多弁で早口になるというが、おれはそれをまさに体現していた。あらためて冷や汗が額に浮き出てくる。脂と濁った水分が混ざり合った液体が目尻を伝い、頬へと垂れ、後ろめたさの粒が全身から噴き出してくる。
伏せていた目をゆっくり上げてみると、目の前のしわくちゃの顔が、目と口をまんまるに開けていた。
「そりゃまあ、あんた、大変なことになったもんだね。やっちまったことは仕方ないけどな、おまえ、簡単に保証人の判子、押したらいけんよ。金の切れ目が縁の切れ目って言うてね。どんなに困ったことになったってねえ、いくら友達だからってねえ、お金の相談には乗ったらいけん。あんたの友達のためにも言っとるんよ。自分で持て余してしまうようなお金に手を出したらいけんのよ。不相応な事をするから、困ることになる。あらまあしかし、そりゃ困ったことになったねえ」
ばあさんは身振り手振りを交えて、驚きと困惑に声を上擦らせながら、これまた一気にまくし立てるようにしゃべった。
台の上の湯飲みを両手で囲むようにして、おれは緑色濁った液体をに目を落とした。こんな話が本当に通用しているのだろうか、ばあさんは話しに乗ったふりをして、おれがぼろを出すのを実は待っているのかもしれない、とは思わなかった。きっと、ばあさんはおれの話しを信頼している。それが逆に心を締め付けた。咽喉の奥を絞られたような居心地の悪さがした。
「いくらだい?」
ばあさんが、湯飲みを置いて訊ねてくる。音もなく湯飲みが置かれたのを見て、おれは罪悪感を少しだけそぎ落とすことに成功した。湯飲みの底に手を添えて静かに置くさまが、いかにも上品だったからだ。少々金を奪われても大して困らない、上流の人間に見えた。
いや、そう見たかっただけかもしれない。少しくらい金をせしめても正当化されるというねじ曲がった論理が、おれの背中を押す。しかし――
「……まだ、いくらかは、分からないんだ」
押された背中を何かが引き戻した。この一線を越えたら何かを失ってしまうような気がした。言いしれぬ不安におれは具体的な金額を示すことを口にすることを邪魔され、一方で自分の口から出た言葉に安堵したのも確かだった。
煮え切らない返事にばあさんが苦い口調でなにか言ったが、小さい声だったため聞き取れなかった。
翌朝、ばあさんの家の床の間で目を覚ました。なぜおれがばあさん、否、柚木家にまだ居座っているのかを説明するには、夕べのことを話さなければならない。
昨日、結局おれの振込め詐欺擬きは未遂に終わった。あのあとも、ばあさんはちょぼちょぼと話しかけてきたが、頭のなかはこれまでの自分の行為を振り返ることに逡巡していて、何と答えたか覚えていない。
ちゃぶ台の脇に腰をおろして、テレビに興じるばあさんの隣で所在なげに嘆息しているときだった。呼び鈴がなった。ビービー、と警告音にも似た音だった。老人は高い音が聞こえないというから、ばあさんにはちょうど良い音響なのかもしれない。
「ゆずきさんよー、いるかーい?」
玄関から大声が響いてくる。呼び鈴を押す意味はあったのだろうか。しかしそれを聞いて、この小さな老婆の姓が柚木なのだと知った。漢字は当て推量だが当分問題ないだろう。おれはその来客に心の中で小さく感謝した。
柚木はいそいそと立ち上がり、襖をあけて玄関に出ていった。
テレビの正面に座りなおし、おれは両手を後ろについて柚木があけた襖のほうに目をやった。襖の向こうにガラスの格子戸が見える。向かいが台所なのだろう。居間は畳の六畳間で、真んなかにちゃぶ台が置いてあり、襖と対面する側には下段に磨りガラスがはめられた障子戸が張られ、その向こうにモザイクがかけられたうようにぼやけた縁側が見えた。いつか映画で見た、昭和時代の映画に出てくる日本家屋そのものだと思った。庭があり、雨戸があり、縁側があり、襖に囲まれた居間で家族が団欒を楽しむ――。ここにひとりで住むのは寂しくないのだろうか。
玄関のほうから叫びに近い音量の声が聞こえてくる。年寄りどうし、耳が遠いのだろう。まるで街頭で募金を呼びかける学生のように、声を張り上げている。
「畑で胡瓜が取れたから、お裾分け」
おすそわけ、の部分は、ひとつひとつ言葉を区切るように、より一層、声に力が込められた。
ありがとね、と柚木も負けじとがなる。
――最近は腰があがらなくなってね。
――畑仕事のやりすぎじゃないかね。
――柚木さんは腰、やっとらんかね。
――あたしゃあまだまだ大丈夫だよ。
――元気だからって油断すっでねぞ。
――無理しとるあんたに言われたかねえよ。
犬を追い払うように手を振って、笑う柚木の姿が目に浮かんだ。対面では強がりな姿勢を崩さない性質を持っているようだった。おれと柚木はまだ二日しかともにしていないのに、それでもしわくちゃのその老婆が腰をたたいて息をついている姿は何度も眼にした。
柚木が玄関に行っている間に、居間で孫の名前を探した。襖戸の向かって右側、おれの正面には腰高くらいの、年代物の桐箪笥が置かれてあり、その上に淡い紫色の布が敷かれ、写真立てがいくつか飾ってあった。柚木とその夫と思われる人物の白黒写真が、木枠の写真立てのなかで笑っていたり、男性の顔が大きく映った、背景が薄い水色で染められたものもあった。昔テレビか何かで同じ雰囲気の写真を見たことがある。写真立ての表面の硝子には埃ひとつ浮いていなかった。
息子や孫と思われる者の写真は見当たらなかった。夫との写真を飾るくらいなので、孫の幼い頃の写真が一枚くらいあってもよさそうなのに、とおれは舌打ちをした。が、そのような写真はないほうがよいのだと気づき、逆に胸をなでおろした。本物の孫の写真と自分を見比べられたら、いくら歳を取っているとしても、あまりの面影のなさに疑いを持つかもしれなかったからだ。
木枠の写真立ての脇に、小さな蹴鞠のような置物も転がっている。さらにその隣に、柚木が作ったのだろうか、紙で折られた鶴や兜が無造作に並んでいた。柚木と訪問客の大声が聞こえているうちに、霧箪笥の抽斗を下から順に中身をひとつひとつ検めた。が、そこには着物の入った木箱や洋服や靴下や、何に使うのかわからない麻の生地などがあるだけで、やはり孫の名前に辿りつくとっかかりは見つからなかった。
玄関の会話はまだ終わるようすはない。
箪笥のいちばん上の段はちょうどおれの腰の高さで三つの抽斗に分かれていた。おれは右端から取っ手を掴み、引いてみる。
目の前にあるものを見て心臓が跳ねた。
銀行通帳らしき冊子とキャッシュカード、印鑑、それに結婚指環だろうか、手前の隅に金属製の輪っかが転がっている。他にもなにやら仰々しい書体で契約書などと表された書類が置かれていた。
呼吸が苦しいことに思い至る。無意識に息を止めていたことに気づく。はあっ、と息を吐き出し、玄関のほうに聴覚を集中する。柚木らはまだ玄関で話している。おれはゆっくりと、銀行通帳に手を伸ばした。
――客がきてるのかい?
瞬間、息が詰まる。きっと三和土に転がった薄汚いスニーカーにでも気づいたのだろう。おれは通帳に伸ばした手をぴたりと止める。
――いや、客でねえよ。孫だ。孫が遊びに来とる。
あらあらそれは邪魔をしたね、と言う声が聞こえ、それじゃ、と続き、さらに客の足音が遠のいていった。柚木が玄関を閉める音が聞こえると、俺は急いで抽斗から手を引いて足音を立てないように気をつけながら、もといた場所に腰を下ろす。おれがしゃがむと同時に、柚木が段ボールを抱えて居間に戻ってきた。段ボールの上からこちらを覗くしわくちゃの顔に、びくっと震えてしまった。どうかしたかい、とばあさんが言う。おれはぶるぶると首を横に振って答えた。ふん、それならいいが――と、柚木は抱えた箱を傾けて中身を見せてきた。
「ほれ、いい色しとるじゃろ」
おれの心臓の鼓動はまだおさまっておらず、咽喉や脇が鼓動に合わせて微動している感覚があった。冷静さをよそおい、顎を上げて段ボールの中を覗き込むと、胡瓜が無造作に並んでいた。表面に傷があったり、見慣れない太さや短いものも多く、スーパーの傷物セールで売られている野菜たちを段ボールごと買い取ってきたものではないかと思えた。
「隣のチエコさんだよ。いつもこうやって庭で獲れた野菜を持ってきてくれるんだよ」
ああそうなんだ、とだけ生返事を返す。ばあさんの平静なようすに、やっと冷や汗が引いていく。
糠に漬けとこうかね。そう言って柚木は回れ右をして、向かいのガラス格子戸を足でつまんでがらがらとスライドさせ、身体を揺すりながらどしどしと台所へと踏み入っていった。
大丈夫だ。
柚木はおれが箪笥のなかを検めたことに当然気づいていない。深呼吸して心臓のあるあたりの胸をの右手で撫でる。
ガラス戸がふたたびあいて、柚木が戻ってきた、と思ったら廊下で立ち止まる。ああ、そういえば、と呟くように言うと、柚子がおれを見下ろした。
「そういえば、まだ線香をあげてなかったね。着いておいで」
そう言って柚木は家の奥へと向かった。おれは立ち上がり、柚木の後を追う。台所と居間に挟まれた廊下を奥に進むと、左手が水場になっており、おれは右手の部屋に請じ入れられた。床の間、兼仏間のようだ。四畳半くらいの狭い部屋で、庭に面する腰窓は、空気の入れかえをしていたのだろうか、あけっ放しになっていた。柚木に見つかっていなかったら、きっとここから進入することになっていただろう。
入って左に床の間があり、その奥に仏壇が配置してある。床の間には、日に焼けた水墨画の掛け軸が掛けられており、床に敷かれた藍色の敷物の上には薄紅色をした花瓶のような円柱の陶磁器が飾られていた。お金に余裕のある家なのだとおれは確信した。後ろめたい安堵感が胸をもたげる。
柚木が観音開きの戸をあけると、金色の仏壇が顔を出した。焼香皿の奥、中段の左右に、彼女が採ってきたのだろうか、パステル色の花弁の花が数本ずつ活けられており、その脇に位牌が鎮座している。左右には灯籠のようなものが置かれていた。
柚木が座布団に正座して下段の棚からマッチ箱を取り出し、赤い蝋燭に仄かな火を与えると内側に貼られた金箔が一斉に輝き出した。
「ほら、あんたもやりな」
とおれを誘いながら蝋燭の火で線香の先を焚きつけている。あたりに白檀の古典的な香りが拡がり、細い煙が筋雲のようにたなびく。
おれは誰とも知らない仏に向かって線香を立てた。二度鈴が弾かれ、りーんという独特の音色の余韻のなか、柚木は数珠を手に取り、頭を垂れて手のひらを擦り合わせるようにして拝んだ。しばらくの静寂の後、あんたもじいさんに手を合わせてやっとくれ、と数珠を渡された。数珠は意外に重く、おれは慌てて左手を添えた。先ほどまで柚木がしていたように座布団に座り、数珠を掛けた手を合わせ、目を閉じる。
自分は何をしているんだろうか。見知らぬ人の家に上がり込み、誰のためとも知らずに目をつむり手を合わせ祈っている。しかし、両手が互いに温もりを確かめ合うように合掌して視界を閉ざしていると、何もかもがどうでもよいようにも思えて、気が安らいでいった。仏壇、白檀の香り、鈴の余韻。何か超自然的なやわらかい力に包まれているような、穏やかな気分に襲われていた。
心に、慣れない新たな感覚が生じているのを感じた。暖かく濃密なスープに身を浮かべているような満ち足りた気分だった。自分に親がいたら、親が死んだら、こんな気持ちで合掌するのだろうか。
目の前の故人のこと、自分の境遇、おれの本当の両親や祖父母、そして自分が今行なっている愚行。様々な思いが瞼の裏を染める。
ふと、庭に面した窓から一筋のそよ風が吹き込み、おれの睫を撫でた。それを合図に、おれは瞼を上げ、我に返った。
違う。違う。違う。
おれは目の前に映るおじいさんの孫でもなければ、その彼に義を尽くしにこの屋敷を訪ねたわけでもない。自分が生きのびるために姑息な手段をとろうとしている下劣な人間なのだ。先ほどの暖かな空気は霧と消え、胃に鉛の塊を投げ込まれた気分になる。目の前に扉を開いている仏壇に途端に申し訳なさを感じた。
見ていると涙が出そうで、おれは反射的に目を逸らした。逸らした視線の先で柚木は開いた腰窓を背に腕を組み、しんみりとしたようすで立っていた。泣き顔と微笑みをむりやり重ね合わせたような、そんな表情をしていた。何も言わず、おれと柚木はそのままじっとしていた。吹き込む風だけが、時の流れがあることをおれに教えてくる。
先に動いたのは柚木だった。深くため息をついて、するすると窓を閉め、外の音が遠のいた。背中を見せたままの姿勢で柚木が言った。
「こんな時期にここに来るってことは、どうせやることもなく暇なんだろう? せっかくだから長居していきな」
やることにくわえて家もなかったおれは、そんな柚木の誘いに乗ることにしたのだった。そのときの柚木の思いに気づくことができたのは、彼女との別れが決定的になってからだった。
広い玄関には傘立てや自転車や庭の畑仕事に使うのだろうか鋤やスコップなどの耕作具も置かれていた。湿気った土にまみれており、現在進行形で使われていることが見てとれる。この老婆が庭を耕しているのだろうか。電灯には紙漉の四角い笠が誂えられており、広い玄関を控えめに照らしつけており、玄関からまっすぐに伸びた廊下の表面は、年代を感じさせる木板が仄暗い照明を反射し艶やかに黒光りを返している。外観に裕福さの面影を出さないぶん、家内の趣の深さはより深く感じられた。
「そういえば」
ばあさんが不意に振り返り、おれは身を硬直させる。
「あんた、名前なんていったっけ」
急激に心拍数が上がる。心臓が送り出す血液の量が増加し、胸、脇の下、膝、指先までもが鼓動にあわせてびくびくと震え出す。
「もう何年も会ってないだろ。歳を重ねると親戚の名前も忘れちまう。悲しいもんだねえ」
廊下をよたよたと進みながら、ばあさんは背中を見せて飄々と訊ねてくる。
「お、おれの名前、忘れちゃったの?」
冒頭の文句が少しだけ震えてしまう。どう答えればいいのかわからない。
「昨日の晩、何食ったかも覚えてないんだよ。すまないね」
ばあさんは申し訳なさを微塵も見せず平板な調子で言った。おれは顔も知らない雅一の息子の名前を真剣に考える。なにかヒントになるものがないか、細長い廊下に目を泳がせる。廊下に掛けられた額縁。柿を描いた水彩画。鉛筆で殴り書きのような書き込みがある白地のカレンダーがその脇にピン留めされている。足下に視線を落とすと、板目に直径二センチほどの穴が空いていた。木目にある丸い年輪のような部分が経年劣化し、腐って抜け落ちたのだろうか。孫の名前を思いつかないおれは、その穴の暗闇に吸い込まれてしまいたい気持ちになる。
「ああ、ところで今日は、何でまたこんな田舎までやってきたんだい?」
ばあさんがふたたび話題を変える。名前の詮索はとりあえず中断されたようで、ほっと胸をなで下ろす。そこに座ってな、とおれは畳敷きの居間に通された。
台所から出てきたばあさんが、居間に湯飲みを二つ運んできた。おれは黙ってちゃぶ台の脇に腰を下ろす。ばあさんはおれの左手の側に座った。
もうここに何をしにきたのか自分でも分からなくなるほど頭の中は忙しく思考を繰り返していた。どうやってこの場を凌いだらいい?
沈黙が苦痛になる前に、お茶をすする。熱い茶が食道から胃に染みわたり、身体の芯が温まる心地がした。冷や汗が引っ込み、暑さによる正常な汗が滲み出てくるのを感じた。
ばあさんが正面に見える庭に眼をやり、おれと同じように茶を口にする。
そのあいだにおれは、何を話すべきかどう切り出すべきか頭の中のいろんな抽斗をひっくり返していた。お金が欲しい。騙しとる。もう一度湯飲みを手に取り、熱い茶に口を火傷したふりをして時間を稼ぎながら、どんな話を持ち出したらよいのか考えた。
「実は、ちょっと困ったことになって……」
世の先人達は、このための理由に様々なことを思いついた。交通事故を起こして示談金を求められている。会社の営業で大失敗をしでかし会社から損害賠償を訴えられている。借金の保証人になったら友人が蒸発した。金を横領していたら今日監査が入ることになった、このままでは横領がばれてしまう。不倫相手の子を妊娠してしまった。奥さんから慰謝料を請求されている――。
ほかにも理由は腐るほどあるが、その目的は、善良な老人が溜め込んでいる銀行預金や箪笥預金を、悪意の満ちた銀行口座に振り込ませることにある。金額は数万円から数百万円。現実的で、支払いが可能な額を請求する。おれは、そんな悪逆非道な手段をとっさに口にしてしまっていた。
「……おれの友人が学費を払えなくて、親に内緒で、いわゆるヤミ金ってやつ? そこからお金を借りてたんだけど、そいつが身体壊してバイトできなくなって、そんで、おれが保証人になってたんだけど、おれもそんなに余裕があるわけでもないし。で、おばあちゃんにちょっとのあいだだけ肩代わりしてもらえないかと思って……」
まくし立てるように口が回った。嘘をつくときに人は多弁で早口になるというが、おれはそれをまさに体現していた。あらためて冷や汗が額に浮き出てくる。脂と濁った水分が混ざり合った液体が目尻を伝い、頬へと垂れ、後ろめたさの粒が全身から噴き出してくる。
伏せていた目をゆっくり上げてみると、目の前のしわくちゃの顔が、目と口をまんまるに開けていた。
「そりゃまあ、あんた、大変なことになったもんだね。やっちまったことは仕方ないけどな、おまえ、簡単に保証人の判子、押したらいけんよ。金の切れ目が縁の切れ目って言うてね。どんなに困ったことになったってねえ、いくら友達だからってねえ、お金の相談には乗ったらいけん。あんたの友達のためにも言っとるんよ。自分で持て余してしまうようなお金に手を出したらいけんのよ。不相応な事をするから、困ることになる。あらまあしかし、そりゃ困ったことになったねえ」
ばあさんは身振り手振りを交えて、驚きと困惑に声を上擦らせながら、これまた一気にまくし立てるようにしゃべった。
台の上の湯飲みを両手で囲むようにして、おれは緑色濁った液体をに目を落とした。こんな話が本当に通用しているのだろうか、ばあさんは話しに乗ったふりをして、おれがぼろを出すのを実は待っているのかもしれない、とは思わなかった。きっと、ばあさんはおれの話しを信頼している。それが逆に心を締め付けた。咽喉の奥を絞られたような居心地の悪さがした。
「いくらだい?」
ばあさんが、湯飲みを置いて訊ねてくる。音もなく湯飲みが置かれたのを見て、おれは罪悪感を少しだけそぎ落とすことに成功した。湯飲みの底に手を添えて静かに置くさまが、いかにも上品だったからだ。少々金を奪われても大して困らない、上流の人間に見えた。
いや、そう見たかっただけかもしれない。少しくらい金をせしめても正当化されるというねじ曲がった論理が、おれの背中を押す。しかし――
「……まだ、いくらかは、分からないんだ」
押された背中を何かが引き戻した。この一線を越えたら何かを失ってしまうような気がした。言いしれぬ不安におれは具体的な金額を示すことを口にすることを邪魔され、一方で自分の口から出た言葉に安堵したのも確かだった。
煮え切らない返事にばあさんが苦い口調でなにか言ったが、小さい声だったため聞き取れなかった。
翌朝、ばあさんの家の床の間で目を覚ました。なぜおれがばあさん、否、柚木家にまだ居座っているのかを説明するには、夕べのことを話さなければならない。
昨日、結局おれの振込め詐欺擬きは未遂に終わった。あのあとも、ばあさんはちょぼちょぼと話しかけてきたが、頭のなかはこれまでの自分の行為を振り返ることに逡巡していて、何と答えたか覚えていない。
ちゃぶ台の脇に腰をおろして、テレビに興じるばあさんの隣で所在なげに嘆息しているときだった。呼び鈴がなった。ビービー、と警告音にも似た音だった。老人は高い音が聞こえないというから、ばあさんにはちょうど良い音響なのかもしれない。
「ゆずきさんよー、いるかーい?」
玄関から大声が響いてくる。呼び鈴を押す意味はあったのだろうか。しかしそれを聞いて、この小さな老婆の姓が柚木なのだと知った。漢字は当て推量だが当分問題ないだろう。おれはその来客に心の中で小さく感謝した。
柚木はいそいそと立ち上がり、襖をあけて玄関に出ていった。
テレビの正面に座りなおし、おれは両手を後ろについて柚木があけた襖のほうに目をやった。襖の向こうにガラスの格子戸が見える。向かいが台所なのだろう。居間は畳の六畳間で、真んなかにちゃぶ台が置いてあり、襖と対面する側には下段に磨りガラスがはめられた障子戸が張られ、その向こうにモザイクがかけられたうようにぼやけた縁側が見えた。いつか映画で見た、昭和時代の映画に出てくる日本家屋そのものだと思った。庭があり、雨戸があり、縁側があり、襖に囲まれた居間で家族が団欒を楽しむ――。ここにひとりで住むのは寂しくないのだろうか。
玄関のほうから叫びに近い音量の声が聞こえてくる。年寄りどうし、耳が遠いのだろう。まるで街頭で募金を呼びかける学生のように、声を張り上げている。
「畑で胡瓜が取れたから、お裾分け」
おすそわけ、の部分は、ひとつひとつ言葉を区切るように、より一層、声に力が込められた。
ありがとね、と柚木も負けじとがなる。
――最近は腰があがらなくなってね。
――畑仕事のやりすぎじゃないかね。
――柚木さんは腰、やっとらんかね。
――あたしゃあまだまだ大丈夫だよ。
――元気だからって油断すっでねぞ。
――無理しとるあんたに言われたかねえよ。
犬を追い払うように手を振って、笑う柚木の姿が目に浮かんだ。対面では強がりな姿勢を崩さない性質を持っているようだった。おれと柚木はまだ二日しかともにしていないのに、それでもしわくちゃのその老婆が腰をたたいて息をついている姿は何度も眼にした。
柚木が玄関に行っている間に、居間で孫の名前を探した。襖戸の向かって右側、おれの正面には腰高くらいの、年代物の桐箪笥が置かれてあり、その上に淡い紫色の布が敷かれ、写真立てがいくつか飾ってあった。柚木とその夫と思われる人物の白黒写真が、木枠の写真立てのなかで笑っていたり、男性の顔が大きく映った、背景が薄い水色で染められたものもあった。昔テレビか何かで同じ雰囲気の写真を見たことがある。写真立ての表面の硝子には埃ひとつ浮いていなかった。
息子や孫と思われる者の写真は見当たらなかった。夫との写真を飾るくらいなので、孫の幼い頃の写真が一枚くらいあってもよさそうなのに、とおれは舌打ちをした。が、そのような写真はないほうがよいのだと気づき、逆に胸をなでおろした。本物の孫の写真と自分を見比べられたら、いくら歳を取っているとしても、あまりの面影のなさに疑いを持つかもしれなかったからだ。
木枠の写真立ての脇に、小さな蹴鞠のような置物も転がっている。さらにその隣に、柚木が作ったのだろうか、紙で折られた鶴や兜が無造作に並んでいた。柚木と訪問客の大声が聞こえているうちに、霧箪笥の抽斗を下から順に中身をひとつひとつ検めた。が、そこには着物の入った木箱や洋服や靴下や、何に使うのかわからない麻の生地などがあるだけで、やはり孫の名前に辿りつくとっかかりは見つからなかった。
玄関の会話はまだ終わるようすはない。
箪笥のいちばん上の段はちょうどおれの腰の高さで三つの抽斗に分かれていた。おれは右端から取っ手を掴み、引いてみる。
目の前にあるものを見て心臓が跳ねた。
銀行通帳らしき冊子とキャッシュカード、印鑑、それに結婚指環だろうか、手前の隅に金属製の輪っかが転がっている。他にもなにやら仰々しい書体で契約書などと表された書類が置かれていた。
呼吸が苦しいことに思い至る。無意識に息を止めていたことに気づく。はあっ、と息を吐き出し、玄関のほうに聴覚を集中する。柚木らはまだ玄関で話している。おれはゆっくりと、銀行通帳に手を伸ばした。
――客がきてるのかい?
瞬間、息が詰まる。きっと三和土に転がった薄汚いスニーカーにでも気づいたのだろう。おれは通帳に伸ばした手をぴたりと止める。
――いや、客でねえよ。孫だ。孫が遊びに来とる。
あらあらそれは邪魔をしたね、と言う声が聞こえ、それじゃ、と続き、さらに客の足音が遠のいていった。柚木が玄関を閉める音が聞こえると、俺は急いで抽斗から手を引いて足音を立てないように気をつけながら、もといた場所に腰を下ろす。おれがしゃがむと同時に、柚木が段ボールを抱えて居間に戻ってきた。段ボールの上からこちらを覗くしわくちゃの顔に、びくっと震えてしまった。どうかしたかい、とばあさんが言う。おれはぶるぶると首を横に振って答えた。ふん、それならいいが――と、柚木は抱えた箱を傾けて中身を見せてきた。
「ほれ、いい色しとるじゃろ」
おれの心臓の鼓動はまだおさまっておらず、咽喉や脇が鼓動に合わせて微動している感覚があった。冷静さをよそおい、顎を上げて段ボールの中を覗き込むと、胡瓜が無造作に並んでいた。表面に傷があったり、見慣れない太さや短いものも多く、スーパーの傷物セールで売られている野菜たちを段ボールごと買い取ってきたものではないかと思えた。
「隣のチエコさんだよ。いつもこうやって庭で獲れた野菜を持ってきてくれるんだよ」
ああそうなんだ、とだけ生返事を返す。ばあさんの平静なようすに、やっと冷や汗が引いていく。
糠に漬けとこうかね。そう言って柚木は回れ右をして、向かいのガラス格子戸を足でつまんでがらがらとスライドさせ、身体を揺すりながらどしどしと台所へと踏み入っていった。
大丈夫だ。
柚木はおれが箪笥のなかを検めたことに当然気づいていない。深呼吸して心臓のあるあたりの胸をの右手で撫でる。
ガラス戸がふたたびあいて、柚木が戻ってきた、と思ったら廊下で立ち止まる。ああ、そういえば、と呟くように言うと、柚子がおれを見下ろした。
「そういえば、まだ線香をあげてなかったね。着いておいで」
そう言って柚木は家の奥へと向かった。おれは立ち上がり、柚木の後を追う。台所と居間に挟まれた廊下を奥に進むと、左手が水場になっており、おれは右手の部屋に請じ入れられた。床の間、兼仏間のようだ。四畳半くらいの狭い部屋で、庭に面する腰窓は、空気の入れかえをしていたのだろうか、あけっ放しになっていた。柚木に見つかっていなかったら、きっとここから進入することになっていただろう。
入って左に床の間があり、その奥に仏壇が配置してある。床の間には、日に焼けた水墨画の掛け軸が掛けられており、床に敷かれた藍色の敷物の上には薄紅色をした花瓶のような円柱の陶磁器が飾られていた。お金に余裕のある家なのだとおれは確信した。後ろめたい安堵感が胸をもたげる。
柚木が観音開きの戸をあけると、金色の仏壇が顔を出した。焼香皿の奥、中段の左右に、彼女が採ってきたのだろうか、パステル色の花弁の花が数本ずつ活けられており、その脇に位牌が鎮座している。左右には灯籠のようなものが置かれていた。
柚木が座布団に正座して下段の棚からマッチ箱を取り出し、赤い蝋燭に仄かな火を与えると内側に貼られた金箔が一斉に輝き出した。
「ほら、あんたもやりな」
とおれを誘いながら蝋燭の火で線香の先を焚きつけている。あたりに白檀の古典的な香りが拡がり、細い煙が筋雲のようにたなびく。
おれは誰とも知らない仏に向かって線香を立てた。二度鈴が弾かれ、りーんという独特の音色の余韻のなか、柚木は数珠を手に取り、頭を垂れて手のひらを擦り合わせるようにして拝んだ。しばらくの静寂の後、あんたもじいさんに手を合わせてやっとくれ、と数珠を渡された。数珠は意外に重く、おれは慌てて左手を添えた。先ほどまで柚木がしていたように座布団に座り、数珠を掛けた手を合わせ、目を閉じる。
自分は何をしているんだろうか。見知らぬ人の家に上がり込み、誰のためとも知らずに目をつむり手を合わせ祈っている。しかし、両手が互いに温もりを確かめ合うように合掌して視界を閉ざしていると、何もかもがどうでもよいようにも思えて、気が安らいでいった。仏壇、白檀の香り、鈴の余韻。何か超自然的なやわらかい力に包まれているような、穏やかな気分に襲われていた。
心に、慣れない新たな感覚が生じているのを感じた。暖かく濃密なスープに身を浮かべているような満ち足りた気分だった。自分に親がいたら、親が死んだら、こんな気持ちで合掌するのだろうか。
目の前の故人のこと、自分の境遇、おれの本当の両親や祖父母、そして自分が今行なっている愚行。様々な思いが瞼の裏を染める。
ふと、庭に面した窓から一筋のそよ風が吹き込み、おれの睫を撫でた。それを合図に、おれは瞼を上げ、我に返った。
違う。違う。違う。
おれは目の前に映るおじいさんの孫でもなければ、その彼に義を尽くしにこの屋敷を訪ねたわけでもない。自分が生きのびるために姑息な手段をとろうとしている下劣な人間なのだ。先ほどの暖かな空気は霧と消え、胃に鉛の塊を投げ込まれた気分になる。目の前に扉を開いている仏壇に途端に申し訳なさを感じた。
見ていると涙が出そうで、おれは反射的に目を逸らした。逸らした視線の先で柚木は開いた腰窓を背に腕を組み、しんみりとしたようすで立っていた。泣き顔と微笑みをむりやり重ね合わせたような、そんな表情をしていた。何も言わず、おれと柚木はそのままじっとしていた。吹き込む風だけが、時の流れがあることをおれに教えてくる。
先に動いたのは柚木だった。深くため息をついて、するすると窓を閉め、外の音が遠のいた。背中を見せたままの姿勢で柚木が言った。
「こんな時期にここに来るってことは、どうせやることもなく暇なんだろう? せっかくだから長居していきな」
やることにくわえて家もなかったおれは、そんな柚木の誘いに乗ることにしたのだった。そのときの柚木の思いに気づくことができたのは、彼女との別れが決定的になってからだった。
.*きのした*
翌朝、おれは公園のベンチの上で目覚めた。早い時間帯ではまだ春風が冷たい。かさかさに乾いた頬をこすりながら、公園の水飲み場へと向かう。蛇口から流れ出る水に口をつけて咽喉を潤し、顔を洗った。タオルで顔を拭っていると、緑色の金網フェンスの向こうをスーツ姿のサラリーマンや小学生らが歩いているのが見えた。今から、おれは彼らと違う道を歩むつもりのだと思うと、不安な反面楽しみに似た興奮を覚えた。
太陽が高くなる前にリュックを手に取り、公園を出た。おれは人気の少ない路地を探し歩いた。公園は県道沿いにあるが、県道から一つ角を曲がれば、細い路地が住宅地を縫うように張り巡っている。たとえば高いブロック塀に囲まれた民家、そして一人暮らしの老人が最適だろう。留守中を狙えば人体に危害を加える必要もない。
なるべく裕福そうな家屋を狙う。少しくらいお金を拝借しても、その後の人生に多大な影響を与えることがないように。少しだけおれが生き延びることになっても、何の迷惑も被らないような、別次元に住んでいる人を対象にするために。
本気なのか、と何度も自分に問いかけた。
他人の家に土足で踏み込み、どこかに大事にしまってある金品を家人に知られぬように勝手に持ち出して消費してしまうのだ。すぐに首を思い切り振り回し、現実的な問題を頭から飛ばす。考えてはいけない。そう、生きるためには考えてはいけないんだ。自家撞着に陥っている自分に、もうどうにでもなれと捨て鉢になる。さらに興奮がそれを後押しする。
左右に視線を巡らせて目的に合う物件がないかを探す。
福嶋に、少ない情報をもらっていた。県道をひとつ奥に入った道沿いに、駐車場として使用されている砂利敷きの空き地があり、その隣に煉瓦塀の古ぼけた民家がある。老婆がひとりでそこに住んでいるのだという。どこでそのような情報を仕入れたのだろうかと疑問に思ったが、きっとホームレスとして生きるための情報網のひとつがそう作用したのだろうと考えた。彼にとって、生きるための道具をひとつだけおれに与えてくれたのだと、その老婆に後ろめたさを感じつつも福嶋に感謝した。
はたしてその民家は発見された。あのホームレスの言葉どおり、駐車場の角を右に曲がり車一台がぎりぎり通れるような隘路を進むと、ところどころ苔が生している赤茶けた煉瓦塀が見えてきた。古参の者の邸宅の上から篩を使って綿埃を振り掛けたような、古ぼけてはいるが由緒ある趣を備えた家だった。
石柱の門扉には表札が剥がれた跡が長方形に窪みを浮かべており、手で触れると、細かい砂がざらざらと地面に零れ落ちた。鉄格子のような扉は、押すと、キイキイと寂しい声を上げて鳴き、その格子の向こうには、玄関まで飛び石が敷かれている。庭にはクヌギやケヤキが悠々と葉を茂らせており、門柱には松が枝葉を伸ばしていた。ぼろい家屋とは対照的に庭の木々には手入れが行き届いているようだった。玄関の右手には窓を隔てて縁側が連なっているのが見え、以前は家庭菜園でもあったのだろうか、細いビニルロープで仕切られて背の低い雑草で支配された空間が望める形になっていた。
剥がれた表札の隣に、横に長い長方形の空洞が空いており、郵便受けになっているようだった。おれは左右に目を泳がせ、道端に誰もいないことを確認して、そっと郵便受けを覗いた。暗く小さな空間に、いくつかの茶封筒とうるさい配色をしたチラシが静かに置かれていたが、暗くて宛名は見えない。
郵便物がそれほど溜まっていないということは、今もこの家に誰かが存在し、日常的に郵便受けを確認しているということだ。ひとりの老婆が玄関からこちらに歩いてきて、この郵便受けの裏の取っ手を引き、中を確認しているようすを想像する。気の弱そうな白髪の老女が、手を伸ばして郵便物を取り出している。指に高価そうな指環をはめているといい。安直な古着ではなく、糊の利いた着物姿であればいい。おれとはなるべく違う世界に住んでいてほしい。
「あのう」
突然身体の右側に人の声が響き、思わずおれは両肩をびくつかせた。おそるおそる右に振り返ると、間近に老女がひとり立っていた。
「私の家に、なにか、ご用ですか」
声は高く、文節をしっかりと区切るようにして訊ねる口調は、丸い顔に浮かべられた薄色の笑顔とあいまって落ち着きに満ちているように感じられた。まるまっこい手を重ねて、首を傾げ、白髪は丸く結わえられており、偶然にもおれが先ほど想像したとおりの面立ちをしていた。
「あ、いや、用事、というほどのものでもないんだけど……」
そのときふと頭に浮かんだシナリオは、小さな詐欺の物語だった。
「お、おれだよ、おれ。分かる……?」
とっさにおれは作戦を切り替えることになった。これが正しい選択なのか、いや、窃盗を企てているのだから、正しい選択では決してあり得ないのだが、間抜けなおれの脳細胞はこの場をしのぐ手段として、おれおれ詐欺しか思い当たらなかった。面前で行なうのだから間抜けを通り越して自分が痛々しくさえ思えた。電話を通して成立するはずの犯行を目前で演技する愚行。目の前のばあさんは、春風を避けるようにカーディガンにスカーフを重ね、おれの言葉に少しだけ戸惑ったようすだった。
無理もないことだ。拍子抜けしたかのように、あるいは意味が分からないとでも言うように、口を開けてぽかんとしている。突風が吹き、あたりの落ち葉を拾い上げる音がした。秋の凩のように冷たい風は、まるでおれの演技を非難するかのようでもある。走って逃げようかと思ったそのとき、
「ああ、あんたもしかして、雅一の息子かい?」
は? と思った。今度はこちらがきょとんとする番だった。雅一が誰で、その息子が誰なのかまったく知らないが、おれの吐いた言葉に、ばあさんは盛大な勘違いをしてくれたらしい。この機を逃してはいけないと脳がおれに指令を下す。
「そ、そう。おれだよ。雅一の息子の……」
と口にしたところで、言い淀む。その息子の名前を知らないことに気づく。
「あらまあ。学校は春休みかい? それとももう卒業したのかね。来るのなら先に電話でもくれたら、お菓子でも用意して待っとったのにねえ。あんたは昔っから気が早いんだからぁ」
おばあさんは堰を切ったように話しはじめた。
いきなりごめん、とおれが呟くように弁解するふりをする。
「いきなりでも孫の顔が見られれば、あたしゃ嬉しいよ。そんな寒いところで突っ立ってないで、早く家へお入んなさい」
言葉とは裏腹に、おれの顔にはまったく興味がないかのごとく、いそいそと門扉を抜けて玄関に向かっていく。あわてておれもあとに続いた。喜ぶべきなのか戸惑うべきなのか、家に迎え入れてもらえる展開となった。確かに盗むべき目標物には物理的に近づけるが、目的とのあいだに家屋の居住者という乗り越えがたい壁ができてしまった。やはり一旦退却しようかと家へ上がるのを断ろうとすると、おばあさんが声をかぶせてくる。おれはとうとう逃げるタイミングを失してしまった。
一人で話し続けるばあさんの言葉から、雅一というのはどうやらばあさんの息子で、ばあさんはおれのことをその息子、つまり孫だと思い込んでいるということがわかった。
「何年ぶりだろうね。元気にしとったかい。雅一はどうしてる」
玄関にたどりつくまでに、いくつもの質問を浴びせかけられた。おれはお世辞にも上手いとは言えない嘘や生返事で思いつくままに答えていた。赤の他人を騙していえる後ろめたさに気分は重くなるいっぽうだった。庭の木陰に蓑虫がぶら下がっているのが見えて、お前は気楽でいいな、と心のなかで苦笑した。
翌朝、おれは公園のベンチの上で目覚めた。早い時間帯ではまだ春風が冷たい。かさかさに乾いた頬をこすりながら、公園の水飲み場へと向かう。蛇口から流れ出る水に口をつけて咽喉を潤し、顔を洗った。タオルで顔を拭っていると、緑色の金網フェンスの向こうをスーツ姿のサラリーマンや小学生らが歩いているのが見えた。今から、おれは彼らと違う道を歩むつもりのだと思うと、不安な反面楽しみに似た興奮を覚えた。
太陽が高くなる前にリュックを手に取り、公園を出た。おれは人気の少ない路地を探し歩いた。公園は県道沿いにあるが、県道から一つ角を曲がれば、細い路地が住宅地を縫うように張り巡っている。たとえば高いブロック塀に囲まれた民家、そして一人暮らしの老人が最適だろう。留守中を狙えば人体に危害を加える必要もない。
なるべく裕福そうな家屋を狙う。少しくらいお金を拝借しても、その後の人生に多大な影響を与えることがないように。少しだけおれが生き延びることになっても、何の迷惑も被らないような、別次元に住んでいる人を対象にするために。
本気なのか、と何度も自分に問いかけた。
他人の家に土足で踏み込み、どこかに大事にしまってある金品を家人に知られぬように勝手に持ち出して消費してしまうのだ。すぐに首を思い切り振り回し、現実的な問題を頭から飛ばす。考えてはいけない。そう、生きるためには考えてはいけないんだ。自家撞着に陥っている自分に、もうどうにでもなれと捨て鉢になる。さらに興奮がそれを後押しする。
左右に視線を巡らせて目的に合う物件がないかを探す。
福嶋に、少ない情報をもらっていた。県道をひとつ奥に入った道沿いに、駐車場として使用されている砂利敷きの空き地があり、その隣に煉瓦塀の古ぼけた民家がある。老婆がひとりでそこに住んでいるのだという。どこでそのような情報を仕入れたのだろうかと疑問に思ったが、きっとホームレスとして生きるための情報網のひとつがそう作用したのだろうと考えた。彼にとって、生きるための道具をひとつだけおれに与えてくれたのだと、その老婆に後ろめたさを感じつつも福嶋に感謝した。
はたしてその民家は発見された。あのホームレスの言葉どおり、駐車場の角を右に曲がり車一台がぎりぎり通れるような隘路を進むと、ところどころ苔が生している赤茶けた煉瓦塀が見えてきた。古参の者の邸宅の上から篩を使って綿埃を振り掛けたような、古ぼけてはいるが由緒ある趣を備えた家だった。
石柱の門扉には表札が剥がれた跡が長方形に窪みを浮かべており、手で触れると、細かい砂がざらざらと地面に零れ落ちた。鉄格子のような扉は、押すと、キイキイと寂しい声を上げて鳴き、その格子の向こうには、玄関まで飛び石が敷かれている。庭にはクヌギやケヤキが悠々と葉を茂らせており、門柱には松が枝葉を伸ばしていた。ぼろい家屋とは対照的に庭の木々には手入れが行き届いているようだった。玄関の右手には窓を隔てて縁側が連なっているのが見え、以前は家庭菜園でもあったのだろうか、細いビニルロープで仕切られて背の低い雑草で支配された空間が望める形になっていた。
剥がれた表札の隣に、横に長い長方形の空洞が空いており、郵便受けになっているようだった。おれは左右に目を泳がせ、道端に誰もいないことを確認して、そっと郵便受けを覗いた。暗く小さな空間に、いくつかの茶封筒とうるさい配色をしたチラシが静かに置かれていたが、暗くて宛名は見えない。
郵便物がそれほど溜まっていないということは、今もこの家に誰かが存在し、日常的に郵便受けを確認しているということだ。ひとりの老婆が玄関からこちらに歩いてきて、この郵便受けの裏の取っ手を引き、中を確認しているようすを想像する。気の弱そうな白髪の老女が、手を伸ばして郵便物を取り出している。指に高価そうな指環をはめているといい。安直な古着ではなく、糊の利いた着物姿であればいい。おれとはなるべく違う世界に住んでいてほしい。
「あのう」
突然身体の右側に人の声が響き、思わずおれは両肩をびくつかせた。おそるおそる右に振り返ると、間近に老女がひとり立っていた。
「私の家に、なにか、ご用ですか」
声は高く、文節をしっかりと区切るようにして訊ねる口調は、丸い顔に浮かべられた薄色の笑顔とあいまって落ち着きに満ちているように感じられた。まるまっこい手を重ねて、首を傾げ、白髪は丸く結わえられており、偶然にもおれが先ほど想像したとおりの面立ちをしていた。
「あ、いや、用事、というほどのものでもないんだけど……」
そのときふと頭に浮かんだシナリオは、小さな詐欺の物語だった。
「お、おれだよ、おれ。分かる……?」
とっさにおれは作戦を切り替えることになった。これが正しい選択なのか、いや、窃盗を企てているのだから、正しい選択では決してあり得ないのだが、間抜けなおれの脳細胞はこの場をしのぐ手段として、おれおれ詐欺しか思い当たらなかった。面前で行なうのだから間抜けを通り越して自分が痛々しくさえ思えた。電話を通して成立するはずの犯行を目前で演技する愚行。目の前のばあさんは、春風を避けるようにカーディガンにスカーフを重ね、おれの言葉に少しだけ戸惑ったようすだった。
無理もないことだ。拍子抜けしたかのように、あるいは意味が分からないとでも言うように、口を開けてぽかんとしている。突風が吹き、あたりの落ち葉を拾い上げる音がした。秋の凩のように冷たい風は、まるでおれの演技を非難するかのようでもある。走って逃げようかと思ったそのとき、
「ああ、あんたもしかして、雅一の息子かい?」
は? と思った。今度はこちらがきょとんとする番だった。雅一が誰で、その息子が誰なのかまったく知らないが、おれの吐いた言葉に、ばあさんは盛大な勘違いをしてくれたらしい。この機を逃してはいけないと脳がおれに指令を下す。
「そ、そう。おれだよ。雅一の息子の……」
と口にしたところで、言い淀む。その息子の名前を知らないことに気づく。
「あらまあ。学校は春休みかい? それとももう卒業したのかね。来るのなら先に電話でもくれたら、お菓子でも用意して待っとったのにねえ。あんたは昔っから気が早いんだからぁ」
おばあさんは堰を切ったように話しはじめた。
いきなりごめん、とおれが呟くように弁解するふりをする。
「いきなりでも孫の顔が見られれば、あたしゃ嬉しいよ。そんな寒いところで突っ立ってないで、早く家へお入んなさい」
言葉とは裏腹に、おれの顔にはまったく興味がないかのごとく、いそいそと門扉を抜けて玄関に向かっていく。あわてておれもあとに続いた。喜ぶべきなのか戸惑うべきなのか、家に迎え入れてもらえる展開となった。確かに盗むべき目標物には物理的に近づけるが、目的とのあいだに家屋の居住者という乗り越えがたい壁ができてしまった。やはり一旦退却しようかと家へ上がるのを断ろうとすると、おばあさんが声をかぶせてくる。おれはとうとう逃げるタイミングを失してしまった。
一人で話し続けるばあさんの言葉から、雅一というのはどうやらばあさんの息子で、ばあさんはおれのことをその息子、つまり孫だと思い込んでいるということがわかった。
「何年ぶりだろうね。元気にしとったかい。雅一はどうしてる」
玄関にたどりつくまでに、いくつもの質問を浴びせかけられた。おれはお世辞にも上手いとは言えない嘘や生返事で思いつくままに答えていた。赤の他人を騙していえる後ろめたさに気分は重くなるいっぽうだった。庭の木陰に蓑虫がぶら下がっているのが見えて、お前は気楽でいいな、と心のなかで苦笑した。