これから、夏野菜が終わって、盆が過ぎて、いよいよ秋野菜の播種と、苗の植え付けが本格化する。そして、黄金色の稲の刈り取りが真っ盛りとなる。


農業者は、豊作や高い値段を祈って、畑に出る。そして、畑の具合を見ながら、堆肥や肥料を調整して土を作り、種を播き、苗を植える。長年培って蓄積してきた、天気や湿度や土壌の水分や肥料分を葉っぱの色や大きさなどから判断し、手を加える。そして、収穫を迎える。その「判断」や「手間」が農業者の技術なのだ。


これは、圃場毎に癖があるから、長年の感、体験が大きく左右する。その家の独自の技術そのものだ。それを、親から子へどのように継承、伝承するかが重要だ。いや、伝えられてきたのだ。


何故、継承や伝承されて来たのかは、一つの重要なポイントがあった。それは、農産物の価格であった。


品質のよい野菜を作る目的だ。多くの篤農家から聞いたことがある「市場のセリで、出荷した野菜のセリ値が自分の期待にほぼ近かった。技術が評価された。だから、張り合いもあった。ある程度収入も見込めた。

 だが、最近は、まったく期待はずれだ。手間や技術が評価されない」と。現在は、セリがほとんどされないようだから、表現は少し異なるかもしれないが・・・。


いずれにしても、農産物の価格が安すぎる。農業者の意気込みが低くなってしまっている。低価格は農産物価格ばかりではない。この価格のどこから、労働賃金が出るのだろうか。


後継者がいなければ、農地は荒れるばかりだ、その上、地域の産業も成り立たないとすれば、どこで働けばいいのだろう。


まずは、どこかで、リセットしないといけない。









盆に帰省した折に、久しぶりに旧市街地に行った。


銀座とよんだメインストリートは、高校時代は、学生達の好き勝手に駐車したバイクであふれ、原宿並みとはいわぬまでも、土曜日の午後は、キャーキャー騒がしい高校生で混雑をしていた。


どの店も、活況を呈し、シャッターを閉めた店は見られなかった。


東京と名古屋資本のマーケットが進出し、珍しいエスカレーターも嬉しかった。


今、通りを行き交う人は、数えるほど。店は玄関を閉じ、穴が空いたアーケードの屋根は、修復する気配もない。


もう、甦ることはないだろう。人もいなくなったふるさとの街は。


でも、俺にとっては、心安らぐ処だ。



ふるさとに帰ると、必ず行くところがある。


山合いの実家の田んぼである。老母を軽トラックに乗せ、田んぼに行く。


今は、米を作付していない。でも耕作放棄地ではない。兄は、退職後コメをつくる意志があるからだ。

このような田んぼは、「不作付地」というのが正式だ。


私は、実家の田んぼに立つと、幼少の頃からのことが走馬燈のように、思い出される。周囲は、山に囲まれ、木々の枝が、田んぼにまで張りだした棚田だ。午後の半日は日が射さない。劣悪の山の田である。


小さな手に、1株1株稲刈り鎌で刈るのだ。飽きると母になだめられる「1株でも刈れれば助かる」と。そうして、1年1年成長した。


今、周囲の田んぼは、田も土手も草は伸び放題だ。完全に耕作を放棄している。それらの家の跡取りは、都会に住んでいる。


昔は、養蚕業とコメと土木作業の日銭で生活をしていた。昭和46年の農村工業導入促進法の成立により、ムラに工場が出来ると、桑畑もなくなり、「結い」も消えた。コメの減反が追い打ちをかけ、若者は、ムラを出た。


今山合いには、耕作放棄地と朽ちた家に住む高齢者がだけ残っている。


出来ることなら、農業で収入を得て、生まれた所で生涯を終えたいという人も多いでしょう。田畑を荒らすことに胸を痛めていることでしょう。墓守をできないことを懺悔していることでしょう。


耕作放棄地が増えたのは、決して農家の人が悪いのではない。生活をするため、子どもを学校に行かせるためには、農業では出来なかったのだ。


 実家の谷間の田を見ながら、そんなふうに思った。出稼ぎや養蚕に自分の体の全て使って、育ててくれた父母に感謝しながら・・・。