いぐのて【IGUNOTE】

いぐのて【IGUNOTE】

手帳好きなおばさんの、ただの日常。
YouTubeやってます。

ある日の電話で、けんごが言った。


「いぐさんへの気持ちを、

この和風の曲に詰めました。

僕には経済力がないけれど、

これからもずっと一緒に

音楽をやりたいし、

一緒に過ごしたい。

でも、いぐさんには選ぶ権利がある。

もし安定を選ぶなら、

音楽は一緒にしたいけど、

好きという気持ちはもう表に出さない」


そんなの、ずるい。


好きな気持ちを表に出さない人と、

ユニットなんて組めない。

つまり、

安定を選ぶなら終わりということ。


少しでも惹かれ始めていた相手から

それを突きつけられたら、

選ぶ未来なんて、もう決まっている。





安定より、スリルだった。

でも、ひとつだけ、

私はまだけんごに

伝えていないことがあった。


私は、

これから仲良くしたい人には

必ずカミングアウトすることにしていることが

ふたつあった。


ひとつはすでに離婚歴があること。

今の旦那は再婚相手だ。


「私、仲良くなりたい人には

必ず教えることにしてることがあるんだけど」

「え? なに? 怖いんだけど」

「たいしたことじゃないと思うし、

それをたいしたことないと

思ってくれる人じゃなきゃ、

仲良くなれないと思う」

「うん」


少しだけ、

言いづらい過去がある。

あとから知られて

離れていかれるくらいなら、

先に伝えておきたい。

それが、

自分を守るためのやり方だった。


先述した離婚歴の話は

いつか練習終わりのギラギラカフェで

したことがあった。


けんごからは、

「そんなに年取ってないよね?」

というような答えが

返ってきたように記憶している。

田舎は、早くに結婚する人が多いのだ。


そしてけんごに伝えていない過去は

もうひとつ。

少し言葉を選んで、私はそれを伝えた。


一瞬の沈黙。


「……。」


「え? 聞いてる?」

「え? それだけ?」


やっぱり、と思う。


見た目の一部みたいなことを

気にする人じゃない。

むしろ、

拍子抜けしたように言った。


「なんだぁ。子供でもいるのかと思った」


けんごが心配していたのは、

そこだった。

これから私とけんごがすることは

結婚ではない。

音楽活動をするのだ。

一緒に音楽をやっていく上で、

子供がいると少々厳しめの制限が出る。

その方が、

けんごにとっては

ずっと現実的な問題だったらしい。


そういう人なんだ、と思う。


私に子供がいない理由は、

最初の旦那と結婚した際は

精神的に人生のどん底で舟をこいでいたこと。

そして今の旦那との結婚では

旦那が子供すぎたことが原因だ。

詳しくは、



をご参照されたい。


そうと決まれば、

離婚への迷いはもうなかった。


私は世間一般的に外道なことは

絶対にしたくなかったので、

もしけんごといい感じになっても

付き合うのは離婚後

と決めて、それをけんごに伝えてもいた。


それまでは今まで通り

週に1回スタジオ練習をして

帰りに夕飯を食べて帰る。

その生活をすることを宣言した。


だが、ただひとつ、

恐怖は残っている。


普段はおとなしいゲーマーの旦那が、

もしキレたらどうなるのか。

今すぐ家を出られるわけでもない。

その間に殺されるかもしれない。

最悪の事態を想定し、

その不安だけは、けんごに伝えておいた。

それでも、決める。


すぐに来られる距離には住んでいないので

かなり心配されたが、

実際にはそんなに非現実的なことが

起こる確率は低い。

旦那だって大手企業の正社員だ。

問題を起こしてクビになるより

穏便な離婚を選ぶだろう。

そのくらいは頭がいい人だ。


こういうことは、早い方がいい。


「明日、旦那に言うね」





次の日。

旦那の帰りは遅かったので

先に母親へ電話をかける。


世間体で

何かを保っているような人だから、

それはそれは強く反対された。

でも、思っていたし、決めていたんだ。


あなたみたいに後悔したくない。

私は幼いころから、

「私はあなたがおなかにできたから

音楽をやめたんだよ」と

事あるごとに聞かされて育った。


だから、後悔して愚痴る人生は

歩みたくなかったのだ。


しかし、この決定は

半分、駆け落ちのような形になる。


私はそれから三年ほど、

実家には帰れなかった。

その間に最高の相棒だった犬も旅立ち、

優しかった祖母も認知症を患ったうえ、他界。


それでも、

もう不安や恐怖はなかった。


未来への光だけが、

はっきりと見えている。




けんごと初めて会ったのは6月。

 

旦那との結婚記念日は9月17日だったから、
その日までに離婚しようと決めていた。

 

たった3ヶ月。
 

でも、その時間は
3年くらいあるように感じられた。

 

仕事でも家でも、
旦那と顔を合わせるのがつらい。
特に、まだ離婚を切り出していない頃は、
旦那はいつも通りに接してくるから。

その「いつも通り」が、いちばんきつかった。

 

そんな3ヶ月のあいだ、
私とけんごは週に一度、
スタジオに入っていた。

 

けんごがそれまでに作っていたたくさんの曲に、
私が言葉をのせる。
そうして、ひとつずつ作品になっていった。

 

スタジオの時間は、
とても居心地がよかった。

お互いに、少しずつ惹かれ合っているのは
感じていたと思う。
でも、それを言葉にはしなかった。

 

今それを言葉にしてしまったら、
不倫になってしまう。

それだけは、避けたかった。

 

練習が終わると、
池袋の珈琲屋さんでお茶をするのが、
いつの間にかお決まりになった。

 

けんごの終電ぎりぎりまで
話していることもあった。

私が帰ったあと、
けんごが終電を逃して、
カプセルホテルに泊まることもあった。

 

家にはうさぎがいるはずなのに、
朝帰りを選ぶあたり、
もう恋だったんだろうな、
と今なら思う。

 

この頃のことを思い出すと、
なぜか笑った記憶ばかり浮かぶ。

 

ある日、珈琲屋さんで、
けんごが生ハムサンドを食べていた。
でも、生ハムがうまく切れなくて、
最初のひと口で
全部口に入ってしまったらしい。

あとからパンだけ食べていたんだけど、
それをテーブルの下に
隠しながら食べている。

「どうしたの?」と聞いたら、
「こんなんなっちゃった」。
もう可笑しくて、ふたりで爆笑した。

 

別の日には、
激安のイタリアンで、
けんごが折り紙を折っていた。
「ちょっとあっち見てて」と言うから、
何をするのかと思ったら、

出来上がったのは、
足の生えた折り鶴だった。

それを見て、また店の中で大笑いした。

 

 

喫茶店で突然、
バッグから置物を出したりすることもあった。

変な人だなと思う。

 

 

でも、旦那と一緒にいて、
こんなに笑うことはなかった。

 

共通の話題もなくて、
旦那はよくポータブルゲームを
始めてしまうから、
同じ場所にいても、
どこかひとりでいるような感じだった。
テーマパークで3時間並んでいる時でさえ
ひとりでポータブルゲームをしているような人だ。

 

だから、けんごと過ごす時間は、
とても新鮮だった。

 

当時はまだLINEもなくて、
連絡はメールか電話。

 

そんなある日、
けんごからメールが届いた。

 

「新曲ができたよ」

 

送られてきたのは、
私がずっと憧れていた和風の曲だった。

 

「今までの曲は元々あったものだけど、
これはいぐさんと出会ってから作った曲だよ。
俺は楽譜も読めないし、
理論もわからないから、
鍵盤を触って作ることしかできない。
こんなんでいいのかわからないけど」

 

そう書いてあった。

 

でも、その曲は、
ちゃんと和風の音階を奏でていた。

その瞬間、思った。

 

やっぱり、パートナーはこの人だ。

 

 

けんごと出会ったのは6月。
バンドが解散して、そのすぐあとだった。

 

私はその時、まだ結婚していて、
旦那も私が他の男性と
音楽をやっていることは知っていた。
よくは思っていなかったはずだけど、
何も言わなかった。
きっと、
自分のことにしか興味がなかったんだと思う。

 

いつかは言い出さなきゃいけないな、
と思っていた。

 

私と旦那は、
毎年春と秋に実家へ帰省していた。
 

次は9月。

旦那にとっては北海道旅行。
でも私にとっては、やっと帰れる場所。

 

本当は家で休みたいのに、
毎日どこかに連れ出されて、
疲れ果てて仕事に戻る。
そんな帰省を、
また繰り返すのか。

 

しかも9月は、
付き合った記念日がある。
それを祝う気にもなれなかった。

 

だから私は、決めた。
9月のその日までに、終わらせる。

それが、私の中のミッションになった。

 

表面上は何も変わらないまま、
仕事に通っていた。

 

でも、身につけるものだけが、
少しずつ変わっていった。

 

けんごはロイドといううさぎを飼っていて、
うさぎが大好きだった。
犬しか飼ったことがない私は、
うさぎってどんな生き物なんだろうと
想像しながら、
私はうさぎの「もの」を選ぶようになった。

 

真っ黒な和ゴスを愛していた私が、
ピンクのうさぎ柄のリュックを背負って、
同じくピンクのうさぎのパスケースを使う。

 

 

それだけじゃない。
ユニコーンの指輪。
シャンデリアのシールをあしらったノート。

 

当時のけんごは、
いつもノートを持ち歩いていて、
思いついたことを、
なんでもメモしていた。

その姿に影響されて、
気づけば私も、
ノートを持ち歩くようになっていた。

 

 

 

それが準備なのか衝動なのかはわからない。
でも、不思議と罪悪感はない。

ただ、温かかった。
 

だってこれは、不倫じゃないから。

 

仕事に持っていく飲み物も変わった。
 

ブラックコーヒー。

苦手なはずなのに、
 

けんごの好きなものを好きになりたくて。

 

数年間は、そのまま飲み続けた。
けんごはコーヒーマイスターで、
淹れるのが好きだったから。

 

飲めないわけじゃなかったけど、
やっぱり私は、甘い方が好きで。

 

最後はそこだけ、
諦めたし、諦めてもらった。

 

 

職場で、
今まで飲んだことのない
ブラックコーヒーなんかを
飲むようになったので
旦那も、周囲も
気づき始めていたかもしれない。