いぐのて【IGUNOTE】

いぐのて【IGUNOTE】

手帳好きなおばさんの、ただの日常。
YouTubeやってます。

旦那とは、

家が見つかるまで同じ家に住むことになった。


駅から遠く、坂の上にある家。


離婚を切り出したあとも置いてくれたのだから、

それだけでも優しかったのだと思う。


一ヶ月ほどだろうか。


私たちは同じ屋根の下で暮らしながら、

同じ職場へ通っていた。


もちろん、一緒に通勤することはない。

家でも職場でも顔を合わせる。

不思議な時間だった。


先にも書いたが、私の気持ちはもう離れていた。

だから結婚指輪をつけたまま生活するのが苦しかった。

仕事中もずっと身につけていた指輪を、私は外した。


それに最初に気づいたのは、職場の先輩だった。

旦那と付き合い始めてから、なぜか私にも優しくなった人。

それまでは誰からも恐れられていたような先輩だったのに、旦那と結婚してからは態度が一変し、プライベートで遊園地へ行くほどの仲になっていた。


その先輩が、私の左手を見るなり叫んだ。

「あんた! 指輪は?!」


周りにいた後輩たちにも聞こえる大声だった。


「ちょっと来い!」


そう言われて、隣の面談室へ連れて行かれる。

そして、

なぜ結婚指輪をしていないのか問い詰められた。


離婚することになったと説明しても、

先輩の怒りは収まらない。


「でもまだ離婚してないんでしょ?!

カップルが別れる別れないの話じゃないんだよ?!

形式的にも付けとかなきゃダメじゃないの?!」


私には理解できない理屈だった。


今日も相変わらず香水の匂いが強い。

体臭を隠そうとしているのか、

いつも同じ匂いがする。


私は今、旦那のことが好きではない。


それなのに、

なぜ結婚指輪をつけなければならないのだろう。


結婚したら必ず指輪をつけて仕事をする。

そんな規則はない。

付けたければ付ける。

ただ、それだけだ。


「私、もう好きじゃないので、

自分の気持ちに嘘をついてまで指輪は付けられません」


先輩は少し黙ったあと、

「ほう。それでいいんだね?」

と言った。


世界一ダサい台詞だと思った。


漫画でも聞かない。

アニメでも聞かない。

後にも先にも、あの言葉を聞いたのはあの日だけだ。


私は離婚しても、その職場で働き続けるつもりだった。

だから怖かった。


旦那ではない。

この先輩の方だ。


こういう話は、案外男性社員の方がさっぱりしている。

私は一応、上司に相談した。


上司は旦那と仲が良かったから

話しづらかったけれど、

離婚してもここで働きたいこと。


そして、先輩からの嫌がらせだけが怖いことを伝えた。


「何かあったら相談して」


そう言ってくれた。


でも現実は違った。


少しずつ、先輩の態度が変わる。

上司の態度も変わる。

気づけば、職場の空気そのものが変わっていた。


後輩たちは半々だった。

今まで通り接してくれる人もいた。

それだけが救いだった。


指輪を外しただけなのに。

離婚届はまだ出していないのに。


私は少しずつ、

あんなに大好きで仕事人間だった

元いた場所から

追い出されていくような気がしていた。



当時和ゴスにハマっていた私は

下駄で通勤していた

その日の旦那の帰りは遅かった。
私は換気扇の下で、
何本目かわからないタバコを吸いながら待っていた。
「ただいま」
いつものトーン。

私たちは毎年、
春と秋に有休を取って、
私の実家がある北海道へ帰省していた。
テーマパークの閑散期に合わせて
休むのが恒例で、
遠くで働いている以上、
それが親孝行みたいなものだったと思う。

もうすぐ9月17日。
付き合った記念日がある。
その頃には、
飛行機の予約をする予定になっていた。

今みたいにスマホで簡単に
チケットが取れる時代じゃなくて、
街中の旅行代理店みたいなブースで、
旦那はいつも飛行機を手配していた。

それまでに、
終わらせなければいけない。


「おかえり」
しばらく沈黙が続く。

旦那が何か話しかけてきても、
私はうまく反応できなかった。
そんな様子を見て、
「なんかあった?」
と聞かれる。

今だ。
今しかない。


「あのさ、もうすぐある北海道の帰省、
ちょっと待ってもらっていい?」

「フッ」
また、鼻で笑った。
私は旦那のこの癖が嫌いだった。
「え、なんで? なんかあった?」
へらへらしながらキッチンへ来て、
換気扇の下でタバコに火をつける。
帰宅してすぐ吸うなんて珍しい。
何かを察しているのは、
間違いなかった。

だったら、話は早い。
私は大きく息を吐いて、
一気に言った。

「私、あなたと離婚を考えてる」

少しの沈黙。
旦那は呆然とした顔で、
「は?」
と言った。

当然だと思う。
今まで、普通に過ごしてきたのだから。
「なんで? 俺また変なことやった?」
私は首を振る。
「じゃあなんで? 変なこと言った?」
また首を振る。

ここで優しい嘘を並べても、
逆効果になる気がした。
だから、正直に言う。

「好きな人ができた」
また沈黙。

「フッ」
また鼻で笑う。
勇気を出して言った言葉なのに。

「え、それ、うち(同じ職場)の人?」
私は首を振る。
「どこの人?」
「音楽活動の人」
「……そっか」

意外なくらい、あっさりした返事だった。
「それって、もう俺がどれだけ頑張っても
無理ってことだよね。
頑張るチャンスもくれないってことでしょ?
好きな人がいるなら、
俺が頑張っても意味ないってことだよね?」


なんだ、この「俺が」文法。
私はどれだけ頑張っても、
旦那への愛情は戻らなかった。
頑張るチャンスってなんだろう。
これまで、
私を大切にしない言動や行動を
たくさんしてきたのに。

でも
ここで何を言っても
私の気持ちは変わらないし、
修復するつもりがない関係なのに
神経を使う必要はないと思い、
思ったことは全て飲み込んだ。

私は旦那と
短い期間しか一緒に過ごさなかったけれど
大きな喧嘩をしたことはなかった。
きっと、
修復してまで一緒にいる必要はないと
どこかで思っていたのだと思う。

そのあと、
ふたりで黙ったまま何本かタバコを吸った。

旦那は泣いていた。
「誰かに話した?」
「うちの親に相談した」
「言っちゃったのかよ……。家、どうすんの?」
「出ていくよ」
「あては?」
「ない。これから探す。
お願いがあるんだけど、
9月末までここに置いてくれない?」
「ダメって言っても、もう決まってるんでしょ」

小さく舌打ちをして、旦那は笑った。
「なんだよ、いぐ。お前、芸能人かなんかかよ」

この一言で、完全に冷めた。
音楽をやりたい人間にとって、
その言葉は、あまりにも酷く聞こえた。
芸能人でもなんでもない。
ただ
自分の気持ちに嘘をついてまで
つまらない生活を続けたくないという
バカ正直な性格なだけ。


「俺に対して恋愛感情は?」
少しだけ間を置いて、
「……もうない」
と答えた。

旦那は頭を冷やすために、外へ出ていった。

 

ある日の電話で、けんごが言った。

 

「いぐさんへの気持ちを、

この和風の曲に詰めました。

僕には経済力がないけれど、

これからもずっと一緒に

音楽をやりたいし、

一緒に過ごしたい。

でも、いぐさんには選ぶ権利がある。

もし安定を選ぶなら、

音楽は一緒にしたいけど、

好きという気持ちはもう表に出さない」

 

そんなの、ずるい。

 

好きな気持ちを表に出さない人と、

ユニットなんて組めない。

つまり、

安定を選ぶなら終わりということ。

 

少しでも惹かれ始めていた相手から

それを突きつけられたら、

選ぶ未来なんて、もう決まっている。

 

 

 

 

安定より、スリルだった。

でも、ひとつだけ、

私はまだけんごに

伝えていないことがあった。

 

私は、

これから仲良くしたい人には

必ずカミングアウトすることにしていることが

ふたつあった。

 

ひとつはすでに離婚歴があること。

今の旦那は再婚相手だ。

 

「私、仲良くなりたい人には

必ず教えることにしてることがあるんだけど」

「え? なに? 怖いんだけど」

「たいしたことじゃないと思うし、

それをたいしたことないと

思ってくれる人じゃなきゃ、

仲良くなれないと思う」

「うん」

 

少しだけ、

言いづらい過去がある。

あとから知られて

離れていかれるくらいなら、

先に伝えておきたい。

それが、

自分を守るためのやり方だった。

 

先述した離婚歴の話は

いつか練習終わりのギラギラカフェで

したことがあった。

 

けんごからは、

「そんなに年取ってないよね?」

というような答えが

返ってきたように記憶している。

田舎は、早くに結婚する人が多いのだ。

 

そしてけんごに伝えていない過去は

もうひとつ。

少し言葉を選んで、私はそれを伝えた。

 

一瞬の沈黙。

 

「……。」

 

「え? 聞いてる?」

「え? それだけ?」

 

やっぱり、と思う。

 

見た目の一部みたいなことを

気にする人じゃない。

むしろ、

拍子抜けしたように言った。

 

「なんだぁ。子供でもいるのかと思った」

 

けんごが心配していたのは、

そこだった。

これから私とけんごがすることは

結婚ではない。

音楽活動をするのだ。

一緒に音楽をやっていく上で、

子供がいると少々厳しめの制限が出る。

その方が、

けんごにとっては

ずっと現実的な問題だったらしい。

 

そういう人なんだ、と思う。

 

私に子供がいない理由は、

最初の旦那と結婚した際は

精神的に人生のどん底で舟をこいでいたこと。

そして今の旦那との結婚では

旦那が子供すぎたことが原因だ。

詳しくは、

 

 

 

 

をご参照されたい。

 

そうと決まれば、

離婚への迷いはもうなかった。

 

私は世間一般的に外道なことは

絶対にしたくなかったので、

もしけんごといい感じになっても

付き合うのは離婚後

と決めて、それをけんごに伝えてもいた。

 

それまでは今まで通り

週に1回スタジオ練習をして

帰りに夕飯を食べて帰る。

その生活をすることを宣言した。

 

だが、ただひとつ、

恐怖は残っている。

 

普段はおとなしいゲーマーの旦那が、

もしキレたらどうなるのか。

今すぐ家を出られるわけでもない。

その間に殺されるかもしれない。

最悪の事態を想定し、

その不安だけは、けんごに伝えておいた。

それでも、決める。

 

すぐに来られる距離には住んでいないので

かなり心配されたが、

実際にはそんなに非現実的なことが

起こる確率は低い。

旦那だって大手企業の正社員だ。

問題を起こしてクビになるより

穏便な離婚を選ぶだろう。

そのくらいは頭がいい人だ。

 

こういうことは、早い方がいい。

 

「明日、旦那に言うね」

 

 

 

 

次の日。

旦那の帰りは遅かったので

先に母親へ電話をかける。

 

世間体で

何かを保っているような人だから、

それはそれは強く反対された。

でも、思っていたし、決めていたんだ。

 

あなたみたいに後悔したくない。

私は幼いころから、

「私はあなたがおなかにできたから

音楽をやめたんだよ」と

事あるごとに聞かされて育った。

 

だから、後悔して愚痴る人生は

歩みたくなかったのだ。

 

しかし、この決定は

半分、駆け落ちのような形になる。

 

私はそれから三年ほど、

実家には帰れなかった。

その間に最高の相棒だった犬も旅立ち、

優しかった祖母も認知症を患ったうえ、他界。

 

それでも、

もう不安や恐怖はなかった。

 

未来への光だけが、

はっきりと見えている。