小学2年で静岡から大阪に引っ越し、慣れない大阪で言葉に悩んだことを思い出す。
2年の担当の先生から、この子は「変な子、素直な子じゃない」的な通知簿のコメントを戴いた。
少し大阪にも慣れ始めたのか、3年の担当の別所やそじ先生は、通知簿に「潜在能力あるみたい、特徴ある子」的なコメントをつけていただいた。
このコメントで、私はやる気が出て、何とか浜寺昭和小学校5年間を乗り切った気がする。
小学校の卒業の日、学年主任だった別所先生から、卒業の訓示があった。
別所先生は、当時南大阪で「はとぶえ」という小学生の作文や詩を掲載する冊子を毎月発行されていた名の知れた教諭であった。
訓示の内容は以下の通りである。
『君たちの世代は人数が多くて大変だ』
『何かになりたいなら競争に勝ち抜く必要がある、中学、高校ボッと過ごすな』
『大学は簡単には入れる思うな』
『就職は難しいぞ』
『男の子、結婚適齢期になったら、女の子の方が少ないぞ、心せよ』、
『会社勤めは、人を押し除けることだと思え』
『退職したら老人ホームをすぐ探せ』
『死ぬときには棺桶が不足するので、先に確保せよ』
要は競争社会に生きるべし、の訓話であった。
私は小学校を終えた時点で、人生は大変なんだと理解し、この訓示を頭にしみ込こませた。
中学校は一クラス50人で18クラスもあった。
校庭は生徒で溢れ、砂ぼこりがすごかった。
フォークダンスが体育の授業にあった時代で、ほとんどがお目当て女の子の手に触れる前に授業が終わってしまった。
高校は550人、上位100人の成績と名前が職員室の壁に張り出された。
私の名がそこに載ることはなく、私より頭のいい奴がいっぱいいる事実をこの目で確認した。
高校3年生の時、次のハードルは大学入試だったが、その先にあるのは就職競争だと教えられている。
医者になれば就職競争は少ないかも、と考え大学は医学部を選んだ。
だが、ことは簡単に運ぶはずはなく、案の定、入試に落ち、訓示のあったとおり1年間浪人をした。
次の年、受験した徳島大学は競争率11倍であった。
50人ほどの部屋で試験を受けたが、この中で合格は4人かと思うと、人生は競争だけでなく賭けみたいなもんだと、悟りを開いたりした。
大学1年の時、別所先生の訓示を思い出し、入試と同じ確率で同級の女子学生と仲良くなり、卒業まで良好な仲を保ち続け、結婚に競争原理は持ち込まなかった。
卒業後すぐに大阪大学で研修開始、高校の上位組が一発で受かった大学である。
どう考えてもボーとしてはいられない。
指導医に認めてもらおうと、必死で頑張ったようである。
競争の末、おかげで何とか講師の席まで得たのだが、故有って教授選に出なければならない羽目になった。
もちろん、これに敗れて市立泉佐野病院に転籍した。
放射線科の部長の席を与えられ、もう競争の真っ只中にはいない。
部長の役目は少しでも立派で役に立つ放射線科を運営すればよい。
でも、再び別所先生の訓示を思い出した。
公務員、60歳で退官である。
こんなに早く退職したら、老人ホーム入居権獲得競争に巻きこまれてしまうではないか。
これはイカンと考え、開業し今に至る。
私が開いたクリニックは、がんの血管内治療の有床診療所である。
特殊診療であったため設備にお金がかかり、何とか努力しない限り患者さんは来ない。
それに、治療成績が良くなければ、大病院での治療を止めてまで小さなクリニックでがん治療を受けたいと思う理由はない。
おまけに今は、海外からの患者さんも多く、海外の病院との競争にまで巻き込まれている。
何とか成績が良くなる治療法を研究し、高額医療機器を揃え、治療環境を整え、世界で一番のクリニックを作る競争を続けなければならない。
もう、私一人の努力やの能力だけでは如何ともし難い。
スタッフが40人もいるクリニックになった。
世代の違うスタッフに別所先生の訓示は、響くことはないだろう。
私はことあることに『人生は、冒険だ』と叫んでいるが、その続きで『競争すると道が開けて、何かを見つけることができるよ』と話してみたい。
まさに、別所先生の訓示通りの人生をここまで過ごしてきた気がする。
さて、これからである。
クリニックでは今も莫大な借金を抱えている。
さっさと仕事を辞めて、老人ホームを探すわけにはゆかない。
そんなわけで今も治療成績を上げるための競争の中にいる。
それに加え、なるべく歳をとらない競争にも加わりたいと思っている。
幸い関連する勉強も少し始めていたので、競争に勝ち抜く知恵が少しはありそうだ。
そんなこんなで、棺桶買占め競争だけには参加したくないので、この一点だけは別所先生の訓示には従わない積りでいる。