午後6時に血管造影室に患者さんが運び込まれた。
全身麻酔が掛けられ、沢山のスタッフが集まり忙しそうだ。
7時になり手術が始まった。
部屋にはドイツ製の最新の血管造影装置がある。
舞台装置はもう完璧だ。
私は青い術衣は来ているが、術者の後ろで立っている。
尋ねられたことに答えるだけでよい。
何と言っても私はブラジルの医師免許を持っていない。
足の付け根が消毒され、全身を覆う滅菌覆布が掛けられる。
大動脈にカテーテルが挿入された。
カテーテルが肝動脈まで進み、肝臓の血管がモニターに映し出される。
でも、どこが出血点だか判らない様子だ。
友人は、カテーテルを握りながら、どこが出血点だと私に尋ねてくる。
私だって良く判らない。
でも、なんだか変な血管が見える。
この辺りだろうと答えたが、どうも納得している様子はない。
そうこうするうちに、患者の状況が急変し、心停止が起こってしまった。
出血性ショックだろう。
血管造影室に緊張が走る。
院内の医者が沢山呼び出され、血管造影室はさらに騒がしくなり、医者はそれぞれ必死である。
くだんの腫瘍内科医は、“だから俺は心配していたんだ”とポルトガル語で言っている。
私はポルトガル語を解さないが、彼の眼を見れば何と言っているのか判る。
心臓マッサージが5-6分続いただろうか、心臓は再び動き出し患者さんは蘇生した。
が、
血圧はかなり低い。
出血を止めなければ、きっとまた、心停止が起こるのは避けられない。
もう途中で治療を中止することはできない。
私の友人の放射線科医は、私に手袋をはめろという。
その瞬間に、私はブラジルの医師免許を持っていないことを忘れてしまった。
もう見学者では居られない。
私も手袋をはめ、私のやり方で、ここだろうと思うところから、私の用意した塞栓材料を流し、血の流れを止めた。
グーであろうがパーであろうが、これしかない。
その瞬間に目の前のX線透視モニターに映る血液の流れは、明らかにゆっくりになった。
もう、待つしかない。
沈黙が続く・・・。
数分後に、麻酔をかけている医者が、血圧上昇と叫んでいる。
友人の放射線科医の目が急に優しくなった。
マスクの下で笑っているようだ。
もう大丈夫だ。
彼と手袋をはめたまま、ハイタッチ、彼の助手とも、ハイタッチ。
痛いほどで大きな音が部屋に響く。
術衣を脱いで、部屋の外に出る。
外に居た患者のお奥さんは、涙ながらに”サンキュー、ドクター“と言いながら、私を力いっぱいに抱きしめた。
少し苦しい。
時計を見ると11時を過ぎている。
患者のことも心配だが、私は何としても日本に帰らねばならぬ。
私は急いで着替え、『タクシー、呼んでくれ』と叫ぶ。
タクシーは私の友人の指示で、ホテルに向かい、私は大慌てでスーツケースに荷物を詰め込んだ。
お土産買えなかったので、簡単にふたが閉まる
。
ドライバーは深夜のハイウエイを空港に向けて必死に飛ばしてくれている。
体中の力が抜けてゆくようだ。
深夜の2時、私は、転げ込むようにカタール航空のボーイング777に乗り込んだ。
ドーハでくだんの腫瘍内科医からのメールを受信した。
患者さんの状態は落ち着き、出血は収まり、部屋の中を歩いているという。
あんたにブラジルでそのまま1年働いて欲しかったと書いてある。
嬉しい。 携帯電話をそっと握り締める。
ドーハ空港、関西空港行きのゲートはどこだろう?
高い所にある案内パネルがやたらに明るい。
世界中の都市の名前が次々と現れる。
やっとOSAKAを見つけた。(Kansai)と書いてある。
何もかも終わったよ・・・。
さあ、帰ろう。 あと11時間、乗ればいい。
私の長いブラジル紀行も、これでとうとう終わる。