『草枕』(九)1906年、明治399

「読みにくければ、御略しなさい」

「ええ、いい加減にやりましょう。――この一夜と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜を重ねてこそと云う」

「女が云うんですか、男が云うんですか」

「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語なんです。――真夜中の甲板に帆綱を枕にして横わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確と把りたる瞬時が大濤のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強いられたる結婚の淵より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉ずる。――」

「女は?」

「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様である。攫われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」

「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」

「え?」

 轟と音がして山の樹がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端に、机の上の一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝を崩して余の机に靠りかかる。御互の身躯がすれすれに動く。キキーと鋭どい羽摶をして一羽の雉子が藪の中から飛び出す。

「雉子が」と余は窓の外を見て云う。

「どこに」と女は崩した、からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。

「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居を正しながら屹と云う。

「無論」と言下に余は答えた。

 岩の凹みに湛えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍く揺いている。

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『空薫』1908年、明治414月~5月、第35

「恋は恋でも、不倫は不倫です」

「けれども、フランチェスカの身にしたらば、地獄へ落ちても、悲痛の中に満足があるのでしょう」

「どうでしょうか」

「私は、輝一さん、切ない恋を感じて見たい。感じた事もあるんですけど、今も感じているんですけど」

 

雛江の声には、人を惹き付けるような、人の感情を騒がすような、不思議な力が籠る。

輝一は、継母の言葉をただ驚いて聴く間に、ふと垂れている我右の手に、柔らかい温みを覚える。気が付くと、並んで欄干に寄る継母の掌がいつか触れているのである。あなやと、魔に襲われたように引く時、たちまち、ずしん、と、天地震動して、床も柱も桁も垂木も、一時に粉砕せよとばかり、足の下から揺り上げられた。

 

「地震」

と、雛江は叫ぶと同時に、突如、輝一の肩に手を纏うて、その胸に黒髪を投げかけようとした。

 

「何です、そんなに騒いで、小さい地震じゃありませんか」

と、腹の立つに委せて、輝一は荒く突き退けると、よろめく途端に、雛江の差し櫛は、からりと落ちて、二つに折れた。

 

 

 

 

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