天満切子と大阪硝子の歴史 | Takeblog ~たけぶろ~

天満切子と大阪硝子の歴史

天満切子2671先日 大阪で唯一“天満切子”を継承する宇良武一先生の元へお邪魔してきました(わさびやブログ 参照) 薩摩切子や江戸切子は皆様もご周知だと存じますが “天満切子”の存在は以外に知られていません 

天満切子が誕生した背景には僅か20年弱で姿を消した薩摩切子 その技術を伝承し また当時日本最大の硝子生産地でもあった大坂/天満の背景が色濃く反映されています 宇良先生から伺った話とあわせ 天満切子-大阪硝子の歴史を簡素ではありますがなぞってみようと思います 

 
大坂硝子発祥ノ地2671  
大坂硝子発祥ノ地 

宝暦年間(1751年) 長崎商人/播磨屋清兵衛 が天満天神鳥居前に工場(玉屋)を設け 市井に販売したのが大坂硝子産業の始まりです 以降、我が国のガラス製品販売の中枢地として隆盛を極め 第2次大戦前には 大阪における輸出第一位を占める重要輸出産業として飛躍しました 

 

戦前/東京の硝子職人達は 大坂で修行しなければ一人前の職人ではないといわれたエピソードも数多く残っています 江戸切子の功績者で有名な加賀屋文治郎も大坂で修業をしました 大坂硝子は江戸に大きな影響を与えていたのです 硝子細工自体は玉屋善兵衛という人物がいるぐらいですから 元は数珠などに使う水晶玉の研磨技術を持つ人々が硝子も作っていただろうと伝えられています 水晶の研磨技術で作れる切子は単純な構成ですが 電気がまだ普及していない当時 照明の弱い行灯などの暗い光源の元で鑢を当てるのですから大変な心労だったと推測出来ます 江戸後期から始まった大坂硝子工芸の質は高く 明治10年に開催された第一回内国勧業博覧会では 天満の業者が数多出品し 最高の名誉である“花紋賞”を獲得しています 

 
天満と呼ばれる界隈は淀川の傍にあり 現在は東天満/西天満に分かれています 嘗ては天満組が置かれ 上方三郷としてその名を轟かせました 全国で一番長い商店街があるのもこの天満です 造幣局が本局をここに置き ガラスをはじめとした中小工場関連 各問屋が盛大に軒を連ね栄えました 
一時は、関東大震災などの影響で景気が大変良く 江戸の硝子業者を大阪の業者の数が大きく上回った時期がありましたが 第一次世界大戦の不況/第二次世界大戦の戦時統制や大火災などで一時閉鎖や廃業をやむなくする工場も多くありました 

 
第二次世界大戦中は切子職人達も軍事産業に徴用され 医療用アンプル/シャーレ/零戦の防弾ガラスを作らされる事になり 大阪/東京共に切子細工は危機に瀕します しかし戦時中の困難を乗り越え残った工場は 関西硝子産業の礎となって現在まで続いています 特に東洋ガラスの前身島田硝子 現在でも天満界隈に多くの協力工場を抱えるカメイガラスなど東京切子の末に負けない勢いを持っています 

 

大阪硝子業者の業態は小回りが利く小規模工場や問屋が多く 時代や必要に応じて作るものに変えるなど臨機応変さが目立つ いかにも浪花らしい経営業態の店が多いのが特徴です 中には終戦後 物資の乏しい時代に戦闘機の風防ガラスにカットを施し 灰皿に仕立てた気骨ある職人さんもいたようです 

造幣局が生んだ 大阪の一大ガラス産地(日経)  

大阪ガラス発祥の地 天満-ガラスの歴史(瓦版.net)  

江戸ガラスの歴史-東部硝子工業会  

 
天満切子2673 天満切子2672  
天満切子の誕生-宇良武一先生の想い 

天満切子は かつての硝子の街/大坂天満の復活を願い命名された切子工房RAUの宇良武一先生が名づけた大阪のブランド切子です 現在は後継者の不足 サンドブラストなど大量生産技法で作られる類似品 原材料価格 炉燃料の高騰など沢山の問題を抱えていますが 播摩屋清兵衛の産んだ天満ガラスの気風を今に伝え続けています 
 
宇良武一2671  
宇良武一(うら たけいち)/切子工房RAU 代表 

大阪市北区同心1丁目11-8 (06)6357-9362 休日/不定 来店時には事前連絡が必要です 

 

(あとがき) 

私が天満切子を知るきっかけになったのは近代大阪史を勉強していた最中 (こんなに美しい切子が近くにあったとは… 是非一回手にとってみたい) そう思うと実際行動しないと気が済まない性分ですから 時間が出来た日 散策を兼ね1人でぶらりと宇良先生の工房を訪ねました 最初はただ切子を購入するだけ 10分程滞在の予定でしたが… 

 

当日工房は休みで提灯は降りていましたが 宇良先生は快く私を迎えてくださり貴重な休みの時間を割いて下さいました 結局2時間余お邪魔していたでしょうか 硝子工場の跡継として天満同心の地に生まれ 今日まで天満で生きてきて「わしゃ天満から出た事が無い」と仰る宇良先生 天満硝子の話だけでなく通った天満の歴史/小学校や高校の話 自分が硝子細工を引き継ごうとした決意の時など沢山の話を聞く事が出来ました 

 

私が滞在している間も取材関連の電話がひっきりなしで 先生が「今 大切な客人と話しているんだから後にしてくれ」と軒並み断られていたのには恐縮でした 目の前に並べられた切子を繁々と眺めながら「先生 これ見ていて本当に飽きないですよね 何か万華鏡を覗いているみたい」と言うと「君も訓練すればこれ位の切子はつくれるよ」と いやいや 恐れ多いそんな簡単にいわんどいて下さい 

何でも切子硝子の教室もしている様で 君の都合があえば何時でも来て良いよと言って貰いました 

 

自己紹介を兼ねて名詞交換した折 同じ“武”な事にびっくりされ 「凄いなあ」と何度もつぶやいておられました(笑) 「君と話してると楽しいよ」「先生 私も同じですが生憎仕事が入ってまして…大変申し訳無いです」近い再開を約束し 後ろ髪を引く思いで工房を後にしました 

 

後で知ったのですが 天満切子を直接販売しているのは先生が承諾した天満商店街の器屋さんか 帝国ホテルのショップだけだそうで 結果突撃取材になってしまった次第です しかも譲って頂いた切子は何れも現在販売していない一点もの 先生の御厚意に心から感謝です またお伺いさせて頂きます